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2018.6.24「あなたを捜して(関根弘興牧師メッセージ)」(ルカ15:1-10)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の礼拝は、いつもと趣向を変えまして、「ライフライン・デー歓迎礼拝」を行いました。
「ライフライン・デー」とは、全国13地域で放送されている福音番組「ライフ・ライン」を支援することを、新潟の協力教会でおぼえる日です。
今年のライフライン・デーは6/3なのですが、当教会では「ライフラインのつどい」もちょうど行われる24日を記念礼拝としました。
なんと説教を「ライフ・ライン」で放送された関根弘興牧師のメッセージDVDにするという大胆な礼拝形式です。
役員会でもあまり説明しておかなかったので、後から何か言われてしまうかも。今頃になってドキドキです。
決して説教をサボりたくてそういう形にしたのではないのですよ。
決して説教をサボりたくてそういう形にしたのではないのですよ。大切なことなので二回言いました。
ここまで福音をダイレクトに伝えている番組を、教会が支援していくということの大切さをかみしめるためなのです。
説教の代わりに、私が「ライフ・ラインの仕組み」というプレゼン形式での奨励を行いました。これを作るほうが説教準備より大変でした。
IMAGE000.jpg新潟では、BSNで毎週土曜朝5:15から放送されています
IMAGE001.jpg「サ○エさん」を例にとっていますが、どうか訴えないでください
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posted by 近 at 00:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.6.17「悲しみという名の扉」(マタイ5:4)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、豊栄図書館で見つけた「教会ねずみとのんきなねこ」。幼児向け絵本なのに「Ministry」顔負けの牧会批評に思わずグッときました
ねずみのアーサーは、ネコのサムソンと、仲良く教会にくらしていましたが、仲間がほしくなり、町からたくさんのねずみを連れてきました。ある日、ネコのサムソンが、礼拝をめちゃめちゃにしてしまう事件を起こします。ネコがあばれる原因となったネズミたちは教会を追い出されそうになりますが、みんなで泥棒退治で活躍し、無事、教会でくらし続けられることになりました。(出版社のあらすじ紹介より)
ひらめきグッときたポイントその1猫
サムソンが寝ぼけてネズミたちを追いかけ回して礼拝が破綻した後、なぜか普通にネコと会話できる牧師が、寝ぼけた理由を聞きました。
サムソン「いやあ、先生がまた同じような話をするもんで・・・あ、すいません、言いすぎました」 ネコのくせに言うことが役員レベル。
ひらめきグッときたポイントその2猫
めちゃくちゃになった礼拝に、会衆は怒り心頭。一斉に立ち上がり家に帰り始める。そして牧師にこんなひと言。
このバカネコを追いだしてください。さもないと、もう礼拝には来ません!」 ネコが役員レベルで、教会員は・・・お客様レベル?
ひらめきグッときたポイントその3猫
一件落着のあと、ネズミたちがまたうるさくすると「ああ眠い。また寝ぼけて追いかけてしまうかも」と聞こえよがしに大あくびをするサムソン。
そうすると二日くらいは静かになるのでした」とのナレーターのひと言。人間、そう簡単には変わりません。ネズミですが
二日という日数に、努力が続かないオトナの人生の酸っぱさを感じます。問題は幼児に果たして伝わるかどうか

 かつて70年代にポプラ社、90年代にすぐ書房からシリーズが出されていましたが、今は絶版。
2011年以降、徳間書店から以下の3冊が出版されているようです。続きが読みたくなりました。週報はこちらです。



聖書箇所 『マタイの福音書』5章4節 


1.
 「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
イエス・キリストのことばはいつも私たちの心を揺さぶります。いやむしろ逆撫ですると言ったほうがよいかもしれません。
「心の貧しい者は幸いである」という言葉が、もともとは乞食や物乞いを意味すると前回の説教で話しました。
いったい、乞食や物乞いと言われてああ私は幸せです、と思う人がいるでしょうか。
そしてそれに続く言葉が今日のこの言葉です。「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
悲しむのが幸いだって?だったら私と代わってくれよ、こんな状態になっても、あんたは本当に幸せだと言えるのかい。
いま心から悲しんでいる人々がこの言葉を聞いたならば、そう反応してもおかしくありません。
 イエス・キリストのことばは、聞く人の心を逆撫でします。しかしじつは逆撫でしているわけではありません。
人生の視点を変えて、いつも見ているところの裏側から見てごらん、
あなたが貧しくて不幸だと思っていたものがじつは神だけにしがみつける幸いなんだ、
悲しくて不幸だと思っていたものがじつは慰めに満ちた幸いなんだ、それがイエス様の伝えたかったことです。
 ある人はそれを刺しゅう、糸と針を使う方の刺しゅうにたとえています。
どんなに美しい刺しゅうであっても、裏側から見たら糸が固まっていて、必ずどこかに見苦しいところがあります。
でもそんな不完全な裏側があるからこそ、表のほうではすばらしい刺しゅうが作られている。
貧しいこと、悲しいこと、苦しいこと、それがなかったら、人生の刺しゅうの表側は永遠に完成しない。
まず私たちは、悲しみは不幸だという思い込みを捨てるべきです。
私もまた自分にこう問いかけます。悲しみが私の中にもたらされるとき、私は不幸なのだろうか。
いや、むしろ悲しみがあるからこそ、私はいま生きているのだ、と。

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posted by 近 at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.6.10「心貧しきがゆえの幸い」(マタイ4:23-25、5:1-3)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
毎日、家族のために栄養バランスを考えた献立を考えて、食事を用意しているお母さんがいました。
そんなとき、家族がもう一人増えました。弟が生まれたのです。家族は心から喜び、成長を祈りました。
そしてお母さんは、末っ子のための乳児食と、家族のための食事の両方を準備するようになりました。ごく自然なことです。
 しかしこれを礼拝説教にあてはめてみるとどうでしょうか。
求道者(乳児)と信徒(他の家族)が同じ食事を提供されているというのが、日本の大部分の教会の礼拝の姿です。
それが教会の一致だとか、「子どもと大人一緒の礼拝」だとか言われます。
でも説教で人は養われるとすれば、求道者向けのものと信徒向けのもの、それぞれが必要なのではないでしょうか。
乳児が大人向けの食事を食べられるはずがなく、同時に大人が乳児向けの食事で満たされるはずがありません。
 この、どの教会の礼拝でも見られるであろうジレンマは、だいたいの場合、大人のほうが譲歩します。
「先生、求道者の方にもわかりやすい話をしてください」と言われたことがない牧師はいないはずです。
しかしそれは求道者を配慮したものであっても、「私たちへの食事は必要ありません」と言っているのと同じなのです。
大人は少し食事を抜いたからといってすぐに健康を崩すことはありませんが、それも限界があります。
 牧師にとって、主日礼拝は信徒をみことばによって養育する時でもあります。求道者だけではありません。
もし教会員が礼拝説教で十分に養われなければ、ディボーションは空腹を満たすための間食のようになってしまいます。
しかし現実的には、一つの説教で、信徒と求道者それぞれの必要に向き合わなければならないのが日本の教会の現実です。
どこか釈然としない思いを抱きながら、説教者は言葉を磨き、選び、祈りつつ準備します。ただ聖霊が働いてくださることを信じながら。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』4章23-25、5章1-3節 


1.
 イエス様の最初の宣教活動において、人々のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直されたという姿をマタイは強調しています。
さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人、あらゆる人々がイエス様によっていやされました。
しかしたとえそれがいやされたとしても、イエス様から見て人々はいまだ凍えて震え続ける、迷子の羊のようでした。
健康上の不安は取り除かれたとしても、彼らの心の中にはいまだに不安が残っている姿をイエス様はご覧になりました。
だからこそ、山に登り、従って来た老若男女に向かって、彼らの人生に平安と励ましを与えるみことばを語られました。
しかしその始まりの言葉は、何と謎に満ちていることでしょうか。心の貧しい者は幸いです、天の御国はその人たちのものだから、と。
「心が貧しい」人がなぜ幸いなのか、だれもが頭を抱え込むでしょう。
この言葉は、愛情に欠けた人や、金銭に汚い人への批判として私たちは使うからです。
なぜこんな人たちが幸いで、しかも天の御国はこんな人たちのものなのか。
天の御国についてよくわからないが、少なくともそんなところには行きたくないな、と思う人さえいるのではないでしょうか。

 ここで「貧しい」と訳されている言葉は、もともとは「縮こまる」とか「うずくまる」という動詞から来た言葉です。
それは、ただ貧しいというだけでなく、乞食、物ごいを表す言葉として使われました。
背骨が折れそうなくらいに身を縮こまらせて、地面にうずくまり、通行人から何かを恵んでもらう、乞食、物ごいの姿です。
「心の貧しい」とイエス様が言葉を出したとき、聴いている人々はこの乞食や物ごいの姿を必ず連想したはずです。
そのうえで、あなたの心がその乞食、物ごいのようだと認めるならば、あなたはむしろ幸いなのだ。
イエス様のこの短い言葉の裏に隠れている思いを、こんな言葉で表してみます。
 確かにあなたはわたしに悪霊を追い出され、病をいやされ、痛みを取り除いてもらったね。
でもわたしがあなたに与えようとしている幸いはそんなものではない。病は年を経ればまた現れ、老いを重ね、死が訪れる。
しかし自分がみじめなものにすぎず、神の助けを必要とする、まさに乞食や物ごいなのだと認めるならば、あなたの人生は裏返るのだ。
あなたの生きている世界がどれだけ不平等で残酷な世界であろうとも、自分のみじめさを受け入れて神にしがみつくとき、
あなたはすでに天の御国の国籍を持っているのだ、と。

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posted by 近 at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.6.3「探していたのはどちら」(マタイ13:44-46)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
三週間ぶりの豊栄での礼拝説教奉仕です(おい)。なんとなく病み上がり的な感じで、カメラも曲がっています
 今回の説教は、もっぱら人間の求道心や決意といった文脈でメッセージされることが多い箇所を、神の側の探求という視点から語りました。
ところが語っているときに示されたのは、一方は「畑に隠された宝」でもう一方は「真珠を探している商人」になっていること。
「宝と真珠」ということでもなく「宝を探している人と真珠商人」でもない。
つまり「天の御国」について、神の側、人の側それぞれからの視点を提示していると言えるかもしれません。
原稿にないものを語ると軌道修正が大変なので、実際の説教では触れていませんが。
 って、説教の後で修正するなよ、と突っ込まれそうですが、語りながら新しいことを示されるというのもじつはよくあることです。
説教は生物(なまもの)、教会は生物(いきもの)、牧会は水物(みずもの)※です。
誰の言葉か忘れましたが、同じ状況でも同じ答えはない、ということでしょうか。三つ目が語呂合わせっぽいですが。
しかし聖書とイエス・キリストは変わることがありません。週報はこちらです。
※水物=そのときの条件によって変わりやすく、予想しにくい物事。「選挙は水物だ」(デジタル大辞泉より)

聖書箇所 『マタイの福音書』13章44-46節 


1.
 ある坊やがデパートで迷子になり、お母さんとはぐれてしまいました。
お母さんは坊やの行きそうなおもちゃ売り場や試食コーナーなどを必死で探し回りましたが、どこにも見当たりません。
最後に、デパートのサービスカウンターへ行って、坊やが迷子になったことを店員さんに伝えて、館内放送で呼び出してもらいました。
数分後、放送で名前を呼ばれた坊やがサービスカウンターへ走ってきました。しかしそこで坊やが口をとがらせてこう言いました。
「ママ、どうして迷子になったの。一生懸命、ママの行きそうな所を探していたんだよ」。
 信仰の世界にも同じようなことがあります。私たちが一生懸命救いを求めたから、イエス・キリストを見つけたのか。
それとも、神が私たちを懸命に探しておられ、見つけられたのは私たちのほうなのに、そのことに気づかないのか。
今日のたとえ話は、そんなことを私たちに考えさせるものだと言えるでしょう。
 多くの人は、このふたつのたとえ話に出てくる人々を、私たちの姿として解釈します。
ひとつめのたとえ話では、永遠の救いというかけがえのない宝物を見つけた人は、全財産を売り払ってその畑を購入してでも、その宝、
すなわち永遠の救いを手に入れようとします。
二つ目のたとえ話では、すばらしい値打ちの真珠もまた永遠の救いを指していて、私たちはそれを探し続けている商人であり、
やはり持ち物を全部売り払ってでもそれを手に入れる、と。
 でもこれは、先ほどの坊やが、迷子になったのは自分の方なのに、お母さんのほうが迷子になったと考えるのに似ていないでしょうか。
つまり、土の中の宝や、すばらしい真珠とは、永遠の救いを指しているのではなく、むしろ私たち一人ひとりのほうではないか、ということです。
宝物を見つけた人、あるいは真珠商人とは、救いを探している私たちのほうではなく、むしろ神様であって、
私たちは見つけだした者ではなくて、むしろ私たちが見つけられたほうなのです。

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posted by 近 at 17:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ