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2018.6.3「探していたのはどちら」(マタイ13:44-46)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
三週間ぶりの豊栄での礼拝説教奉仕です(おい)。なんとなく病み上がり的な感じで、カメラも曲がっています
 今回の説教は、もっぱら人間の求道心や決意といった文脈でメッセージされることが多い箇所を、神の側の探求という視点から語りました。
ところが語っているときに示されたのは、一方は「畑に隠された宝」でもう一方は「真珠を探している商人」になっていること。
「宝と真珠」ということでもなく「宝を探している人と真珠商人」でもない。
つまり「天の御国」について、神の側、人の側それぞれからの視点を提示していると言えるかもしれません。
原稿にないものを語ると軌道修正が大変なので、実際の説教では触れていませんが。
 って、説教の後で修正するなよ、と突っ込まれそうですが、語りながら新しいことを示されるというのもじつはよくあることです。
説教は生物(なまもの)、教会は生物(いきもの)、牧会は水物(みずもの)※です。
誰の言葉か忘れましたが、同じ状況でも同じ答えはない、ということでしょうか。三つ目が語呂合わせっぽいですが。
しかし聖書とイエス・キリストは変わることがありません。週報はこちらです。
※水物=そのときの条件によって変わりやすく、予想しにくい物事。「選挙は水物だ」(デジタル大辞泉より)

聖書箇所 『マタイの福音書』13章44-46節 


1.
 ある坊やがデパートで迷子になり、お母さんとはぐれてしまいました。
お母さんは坊やの行きそうなおもちゃ売り場や試食コーナーなどを必死で探し回りましたが、どこにも見当たりません。
最後に、デパートのサービスカウンターへ行って、坊やが迷子になったことを店員さんに伝えて、館内放送で呼び出してもらいました。
数分後、放送で名前を呼ばれた坊やがサービスカウンターへ走ってきました。しかしそこで坊やが口をとがらせてこう言いました。
「ママ、どうして迷子になったの。一生懸命、ママの行きそうな所を探していたんだよ」。
 信仰の世界にも同じようなことがあります。私たちが一生懸命救いを求めたから、イエス・キリストを見つけたのか。
それとも、神が私たちを懸命に探しておられ、見つけられたのは私たちのほうなのに、そのことに気づかないのか。
今日のたとえ話は、そんなことを私たちに考えさせるものだと言えるでしょう。
 多くの人は、このふたつのたとえ話に出てくる人々を、私たちの姿として解釈します。
ひとつめのたとえ話では、永遠の救いというかけがえのない宝物を見つけた人は、全財産を売り払ってその畑を購入してでも、その宝、
すなわち永遠の救いを手に入れようとします。
二つ目のたとえ話では、すばらしい値打ちの真珠もまた永遠の救いを指していて、私たちはそれを探し続けている商人であり、
やはり持ち物を全部売り払ってでもそれを手に入れる、と。
 でもこれは、先ほどの坊やが、迷子になったのは自分の方なのに、お母さんのほうが迷子になったと考えるのに似ていないでしょうか。
つまり、土の中の宝や、すばらしい真珠とは、永遠の救いを指しているのではなく、むしろ私たち一人ひとりのほうではないか、ということです。
宝物を見つけた人、あるいは真珠商人とは、救いを探している私たちのほうではなく、むしろ神様であって、
私たちは見つけだした者ではなくて、むしろ私たちが見つけられたほうなのです。

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posted by 近 at 17:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ