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2018.6.17「悲しみという名の扉」(マタイ5:4)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、豊栄図書館で見つけた「教会ねずみとのんきなねこ」。幼児向け絵本なのに「Ministry」顔負けの牧会批評に思わずグッときました
ねずみのアーサーは、ネコのサムソンと、仲良く教会にくらしていましたが、仲間がほしくなり、町からたくさんのねずみを連れてきました。ある日、ネコのサムソンが、礼拝をめちゃめちゃにしてしまう事件を起こします。ネコがあばれる原因となったネズミたちは教会を追い出されそうになりますが、みんなで泥棒退治で活躍し、無事、教会でくらし続けられることになりました。(出版社のあらすじ紹介より)
ひらめきグッときたポイントその1猫
サムソンが寝ぼけてネズミたちを追いかけ回して礼拝が破綻した後、なぜか普通にネコと会話できる牧師が、寝ぼけた理由を聞きました。
サムソン「いやあ、先生がまた同じような話をするもんで・・・あ、すいません、言いすぎました」 ネコのくせに言うことが役員レベル。
ひらめきグッときたポイントその2猫
めちゃくちゃになった礼拝に、会衆は怒り心頭。一斉に立ち上がり家に帰り始める。そして牧師にこんなひと言。
このバカネコを追いだしてください。さもないと、もう礼拝には来ません!」 ネコが役員レベルで、教会員は・・・お客様レベル?
ひらめきグッときたポイントその3猫
一件落着のあと、ネズミたちがまたうるさくすると「ああ眠い。また寝ぼけて追いかけてしまうかも」と聞こえよがしに大あくびをするサムソン。
そうすると二日くらいは静かになるのでした」とのナレーターのひと言。人間、そう簡単には変わりません。ネズミですが
二日という日数に、努力が続かないオトナの人生の酸っぱさを感じます。問題は幼児に果たして伝わるかどうか

 かつて70年代にポプラ社、90年代にすぐ書房からシリーズが出されていましたが、今は絶版。
2011年以降、徳間書店から以下の3冊が出版されているようです。続きが読みたくなりました。週報はこちらです。



聖書箇所 『マタイの福音書』5章4節 


1.
 「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
イエス・キリストのことばはいつも私たちの心を揺さぶります。いやむしろ逆撫ですると言ったほうがよいかもしれません。
「心の貧しい者は幸いである」という言葉が、もともとは乞食や物乞いを意味すると前回の説教で話しました。
いったい、乞食や物乞いと言われてああ私は幸せです、と思う人がいるでしょうか。
そしてそれに続く言葉が今日のこの言葉です。「悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです」。
悲しむのが幸いだって?だったら私と代わってくれよ、こんな状態になっても、あんたは本当に幸せだと言えるのかい。
いま心から悲しんでいる人々がこの言葉を聞いたならば、そう反応してもおかしくありません。
 イエス・キリストのことばは、聞く人の心を逆撫でします。しかしじつは逆撫でしているわけではありません。
人生の視点を変えて、いつも見ているところの裏側から見てごらん、
あなたが貧しくて不幸だと思っていたものがじつは神だけにしがみつける幸いなんだ、
悲しくて不幸だと思っていたものがじつは慰めに満ちた幸いなんだ、それがイエス様の伝えたかったことです。
 ある人はそれを刺しゅう、糸と針を使う方の刺しゅうにたとえています。
どんなに美しい刺しゅうであっても、裏側から見たら糸が固まっていて、必ずどこかに見苦しいところがあります。
でもそんな不完全な裏側があるからこそ、表のほうではすばらしい刺しゅうが作られている。
貧しいこと、悲しいこと、苦しいこと、それがなかったら、人生の刺しゅうの表側は永遠に完成しない。
まず私たちは、悲しみは不幸だという思い込みを捨てるべきです。
私もまた自分にこう問いかけます。悲しみが私の中にもたらされるとき、私は不幸なのだろうか。
いや、むしろ悲しみがあるからこそ、私はいま生きているのだ、と。

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posted by 近 at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ