村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。『アエラ』の「追悼・松本龍元復興相」という記事の中で、松本氏がガンジーの孫引きとして良く口にしていた、と紹介されていました。
そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である。たとえ血だらけになろうとも
最後の「たとえ血だらけに・・・」のくだりは、氏が「勝手に付け加えた」(友人)とのことだそうです。
松本氏の評価は人によって異なるでしょうが、教会の現実もこの名言にあてはまると思います。
確かに牧師は大牧者(イエス)から信徒を養う務めをゆだねられています。しかし同時に、信徒によって牧師は育てられるのです。
私の所属する同盟教団でも、若手の伝道師や牧師が疲れ果てて、休職や退職を選んでしまう例が多く見られます。
牧者よりも羊のほうが、美味しい牧草が生えているところを知っているかもしれません。
牧者よりも羊のほうが、羊独自の悩みやトラブルについてよく知っていることもあるでしょう。
しかしだからといって、羊が自分の牧者を他の牧者と比較することばかり続けていたら、牧者の心は折れてしまいます。
どんな牧者でも、最初から上手に群を導くことなどできません。しかしその牧者は、羊のために命を捨てる覚悟をもってそこに来たのです。
牧師の説教や牧会に不満を抱えて、ドクターショッピングならぬパスターショッピングを続ける信徒の姿は、冒頭の言葉を彷彿とさせます。
客を血だらけにさせるほど剃り方が未熟でも、それでも毎月通ってくれる村人たちによって、床屋は成長します。
現代社会は、成長を待つことができず、すぐに白黒をつけたがる時代です。
だからこそ、教会は牧者も羊もゆっくりじっくり成長するところでありたいものです。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』18章15-23節
1.
先日、小学校の前でチラシ配りをするのであらかじめ校長先生のところへ挨拶に伺うことになり、急いで「名刺」を用意しました。
今はペーパーレス時代と言われて、本は電子ブックに、ノートはタブレットに代わりつつあります。
しかし名刺というのは、それこそペーパーレスに逆行していながら、なくなる気配はないようです。
それは、名刺というのが、ただの自己紹介のメモではなくて、そこにはその人を表す魂が宿っているものとされているからです。
サムライにとっての刀、料理人にとってのレシピ、牧師にとっての説教原稿のようなものです。これは決して大げさな意味ではありません。
名刺は魂が宿っているとされるからこそ、胸の位置より上で受け渡すのがマナーとされているわけです。
今日の後半に出てくる役人の姿を思い描いたとき、まるでイエス様の前に名刺を差し出しているように思いました。
彼はあらかじめ用意してきたであろう、完璧な挨拶と完璧な質問を自らの名刺代わりとして、イエス様にこのように言いました。
「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができるでしょうか。」
神の子であるイエス様に「尊い」とつけるのを忘れずに、また永遠のいのちというイエス様が喜びそうな質問です。
ところがなんということでしょう。彼はイエス様からまったく予想もしていなかったダメ出しを喰らいます。
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」
いったい何が悪かったのでしょうか。イエス様を神そのものとして認めているからこそ「尊い」という言葉を付けたのに。
彼の挨拶は、非の打ち所のないものでした。しかし、イエス様は彼のことばではなく、心を見られたのです。
それは、神様の前に一寸の狂いもなく正しいことばで身構えながら近づこうとしている、彼の心に対してです。
言い換えるならば、正しくて、つけいる隙のない自分自身を装わなければ、神に近づくことができないと決めつけている心に対してです。
続きを読む