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2018.7.22「捨てきれないのはなぜ」(ルカ18:15-23)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 村の床屋の腕が悪いからと言って、わざわざ都会まで出かけるようではいけない。
そのままひいきにして、その男の腕を磨いてもらった方が賢明である。たとえ血だらけになろうとも
 『アエラ』の「追悼・松本龍元復興相」という記事の中で、松本氏がガンジーの孫引きとして良く口にしていた、と紹介されていました。
最後の「たとえ血だらけに・・・」のくだりは、氏が「勝手に付け加えた」(友人)とのことだそうです。
 松本氏の評価は人によって異なるでしょうが、教会の現実もこの名言にあてはまると思います。
確かに牧師は大牧者(イエス)から信徒を養う務めをゆだねられています。しかし同時に、信徒によって牧師は育てられるのです。
私の所属する同盟教団でも、若手の伝道師や牧師が疲れ果てて、休職や退職を選んでしまう例が多く見られます。
 牧者よりも羊のほうが、美味しい牧草が生えているところを知っているかもしれません。
牧者よりも羊のほうが、羊独自の悩みやトラブルについてよく知っていることもあるでしょう。
しかしだからといって、羊が自分の牧者を他の牧者と比較することばかり続けていたら、牧者の心は折れてしまいます。
 どんな牧者でも、最初から上手に群を導くことなどできません。しかしその牧者は、羊のために命を捨てる覚悟をもってそこに来たのです。
牧師の説教や牧会に不満を抱えて、ドクターショッピングならぬパスターショッピングを続ける信徒の姿は、冒頭の言葉を彷彿とさせます。
客を血だらけにさせるほど剃り方が未熟でも、それでも毎月通ってくれる村人たちによって、床屋は成長します。
現代社会は、成長を待つことができず、すぐに白黒をつけたがる時代です。
だからこそ、教会は牧者も羊もゆっくりじっくり成長するところでありたいものです。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』18章15-23節 


1.
 先日、小学校の前でチラシ配りをするのであらかじめ校長先生のところへ挨拶に伺うことになり、急いで「名刺」を用意しました。
今はペーパーレス時代と言われて、本は電子ブックに、ノートはタブレットに代わりつつあります。
しかし名刺というのは、それこそペーパーレスに逆行していながら、なくなる気配はないようです。
それは、名刺というのが、ただの自己紹介のメモではなくて、そこにはその人を表すが宿っているものとされているからです。
サムライにとっての刀、料理人にとってのレシピ、牧師にとっての説教原稿のようなものです。これは決して大げさな意味ではありません。
名刺は魂が宿っているとされるからこそ、胸の位置より上で受け渡すのがマナーとされているわけです。
 今日の後半に出てくる役人の姿を思い描いたとき、まるでイエス様の前に名刺を差し出しているように思いました。
彼はあらかじめ用意してきたであろう、完璧な挨拶と完璧な質問を自らの名刺代わりとして、イエス様にこのように言いました。
「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができるでしょうか。」
神の子であるイエス様に「尊い」とつけるのを忘れずに、また永遠のいのちというイエス様が喜びそうな質問です。
ところがなんということでしょう。彼はイエス様からまったく予想もしていなかったダメ出しを喰らいます。
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」

 いったい何が悪かったのでしょうか。イエス様を神そのものとして認めているからこそ「尊い」という言葉を付けたのに。
彼の挨拶は、非の打ち所のないものでした。しかし、イエス様は彼のことばではなく、心を見られたのです。
それは、神様の前に一寸の狂いもなく正しいことばで身構えながら近づこうとしている、彼の心に対してです。
言い換えるならば、正しくて、つけいる隙のない自分自身を装わなければ、神に近づくことができないと決めつけている心に対してです。

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posted by 近 at 19:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.7.8「地上(ここ)から天へ」(マタイ20:1-16)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
西日本豪雨の被災者・ご遺族の方々、また現地の諸教会の上に励ましと慰めがありますように祈ります。
何というタイトルか忘れましたが、昔読んだ星新一氏のショート・ショートにこんなあらすじの作品がありました。
 男が朝、目を覚ます。なぜか目覚ましが鳴らなかった。トースターからパンが出てこない。テレビのリモコンがつかない。
電化製品だけでなく、新聞(印刷物)、テーブル(木製品)、およそ「モノ」と呼ばれるものすべての調子が悪くなっていた。
男はリモコンをあきらめて、テレビに近づいてスイッチを入れた。テレビは何十秒もかけてようやく、ぼんやりと画面を映し出した。
そこでは、今世界中で「モノ」が一斉に壊れていく事件について報道されていた。このおかしな現象は、男の家だけではなかったのだ。
番組の中でひとりの評論家が、「頭がおかしいと言われるかもしれないが」と前置きして、この現象の原因を説明していた。
「・・・あらゆる「モノ」が金属疲労を起こしているのです。いわば「モノ」たちが人間に奉仕することに疲れ果ててしまったのです・・・」
突然、映像が切れた。男はテレビにしがみついて懇願する。「頼むよ、もう一度映し出してくれ・・・」
そのとき、机、床、柱に亀裂が走る。電化製品が一斉に白煙をあげる。壁と土台が崩れ、闇が男と世界を飲み込んでいった。
小説はそこで終わっていました。30年以上前に読んだ作品なので、細かい所は違っているかもしれません。

 さきの大阪北部地震での小学校ブロック倒壊から始まった調査で、全国で小中学校だけで800以上の危険状況が見つかったそうです。
また今回、予想外の豪雨とは言え200人以上の死亡者を出したことによって、全国の治水行政は早急の見直しを迫られることでしょう。
今回の説教(録画)の中で、オウム真理教の何が若きエリートたちを惹きつけたのかについて触れています。
バブル経済の背後での個人のレゾンデートル(存在価値・存在理由)の喪失につけ込んだ洗脳、そして暴走。
その彼らの死刑執行が一斉になされたことと、今回の天災でより露わになった「日本というシステムの金属疲労」・・・・。
「幕引き」どころかむしろ巻き込み繋がりながら、より深淵に向かって転がり続けているように思えます。
その中で、信仰は何を私たちに問いかけているのか。答えを聖書の中から探し続けていきたいものです。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』20章1-16節 

序.
 昨年、教団の会議で千葉に出張した折り、新潟・成田間を往復する飛行機に乗ったことがありました。
ガラス窓におでこを貼り付けて下界をのぞき込む姿はいささか恥ずかしいものがありますが、
子どもの頃に飛行機に乗ったことがなかったので、もう40をすぎたいいおじさんになっても、いまだに童心に返ってしまいます。
景色にも感動するのですが、もっと感銘を受けるのは、地上で雨が降っていても、雲の上にはただ青空が広がっているということです。
今回、それを逆の形で経験しました。空の上では日光がまぶしいほどだったのに、新潟空港に下りたら雨がしとしと降っていました。
 意外かもしれませんが、福音書の中で「天の御国」という言葉を使っているのは、このマタイだけです。
マルコの福音書、またルカの福音書では、「神の国」という言葉を使います。しかしマタイに限って、必ず「天」という言葉を使っています。
マタイはおそらく飛行機に乗ったことはないと思いますが、天という言葉の持つ圧倒的な解放感を知っていたのではないかと思います。
今までも繰り返し語ってきましたが、「天の御国」というのは、人が死んだ後に行く天国のことではありません。
私たちがこの人生でイエス・キリストを信じたときにすぐに始まる、神に祝福された新しい生き方のことです。
しかし天国と誤解されることを恐れないで、イエス様が説かれた神の国をマタイが必ず「天の御国」と書いていること、
それは地上で生きていても、私たちはこの解放的な天の醍醐味を、キリストを信じたその瞬間から味わうことができるということです。
 もしかしたらクリスチャンの多くが、自分でもその醍醐味に気づいていないまま歩んでいるのかもしれません。
しかし私も実際に様々な失敗やトラブルを通してわかったことですが、神の知らないことはこの世界には何一つありません。
もう自分の手には負えない、と思うとき、そこには、すべてをはじめから終わりまでみつめておられる神のまなざしが必ずあるのです。

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posted by 近 at 21:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.7.1「礼拝はいそがしい」(マタイ12:1-14)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先日、新潟聖書学院でカウンセリング技法の特別講義に参加してきました。
現在、牧会の中でカウンセリングは不可欠なものですが、私が神学校に在籍していた当時はあまり重要視されていませんでした。
むしろ説教を磨け!という感じでした。そんな潮目が変わったのは東日本大震災かもしれません。
被災者のケアのために「傾聴」ということがよく言われるようになりました。
 しかし今回改めて講義に参加してみて、実際の傾聴とはじっくり聞くことだけではないということがわかりました。
相手の話を聞きながら、相手の言葉を繰り返し、明確化し、質問を行い、相手が自分自身で考えていくことを促していく。
聞くだけではなくて、五感を目まぐるしく働かせて、相手を理解することが傾聴だということを改めて思った次第です。
人間相手でさえそうなのだから、ましてや神の御前に自らをささげる礼拝で、私たちはどれほど五感を働かせているだろう。
今日の説教は、そんな視点から語っています。週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』12章1-14節 


1.
 今から十年以上前ですが、朝日新聞に玉村豊男さんという方が、おもしろいエッセイを連載していました。
この方はもともと作家ですが、ちょうどその頃、信州の山の中に農園を開いて、自給自足の生活を始めておられました。
すると取材に来た記者たちが、目の前の雄大な山並みを眺めながら、口を揃えてこう言ったそうです。
「都会の慌ただしさから離れて、ゆったりとした時間を楽しむ。先生、これぞまさしくスローライフですね。まったくうらやましい限りです」。
しかし玉村さんはその言葉に頷きながらも、田舎暮らしをスローライフと呼ぶ風潮を快く思っていなかったということでした。
都会では、誰かが運転するバスや電車に乗り、誰かが作った食べ物を買い、ゴミをステーションに出せば誰かが持って行ってくれる。
しかしこんな山の中ではそうはいかない。畑仕事も台所仕事もなんでも自分でやらなければならないし、手間もかかる。
とてもとても、これぞ自然に生きる人間的な生活、スローライフはすばらしいとか言っているような暇はない。
そしてその回のエッセイを、こんな言葉で閉じていました。「他人まかせの暮らしと違い、スローライフは忙しいのだ」。

 この「スローライフ」と同じようにイメージばかりが先走っているのが、じつはキリスト教会の礼拝ではないかと思います。
平均的日本人が連想する教会の礼拝のイメージを挙げてみましょう。高い天井の会堂。金属製の燭台や十字架といった調度品。
荘厳な雰囲気に包まれながら、歴史の重みを感じさせる長椅子に腰をかけながら、牧師だか神父だかのありがたい話に耳を傾ける。
たまに起立して讃美歌を歌うことはあっても、ほとんどは長椅子に座って過ごし、そしてなんとなくきよめられたように感じながら教会を後にする。

 しかし実際に、うちの教会を含めて、各地の教会に行けばわかりますが、そういう礼拝の姿はまさにイメージ、虚像でしかありません。
問題は、会堂の外観や内装がイメージしていたものとは違うというよりも、もっと本質的なことを人々は誤解しています。
礼拝とは、座っていればメニューが自然に出されるような、受け身のものではないのです。それこそ、礼拝はいそがしいのです。
忙しいという言葉を誤解しないでください。賛美の時に立ち上がり、献金の時に財布を取り出すという、その程度の忙しさではありません。
礼拝の初めから終わりに至るまで、自分の持っているすべての感覚を働かせて、全体のプログラムを通して神に近づいていくのが礼拝です。

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posted by 近 at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ