こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
一時期(2016年)、CSメッセージと同じ聖書箇所から礼拝説教を語る試みを続けていたことがありました。
その時にも書きましたが、手抜きではなく、牧会的配慮です。
大人と子供が同じ聖書箇所から分かち合えるように、また暗唱聖句も共有して取り組みたいと考えたのです。
諸般の事情で中断していたなか、この夏から再開しようかなとか考えていたのですが、そこで私は気づいてしまったのです。
「成長」のカリキュラムが、ほぼ二年前の使い回しになっているということに。
8月のカリキュラムは「モーセの誕生」「燃える柴」「エジプトに下った災い」「エジプト脱出」「紅海渡渉」etc.
そういえば2年前にもそこから紙芝居を作った記憶がありますし、また礼拝説教もそこから語っています。
たしか「成長」編集部では3年サイクルでカリキュラムを構成しているとどこかで書いていたはずですが、
2年しか経っていないのに同じ箇所というのは、どうなのでしょう。
良く言えば「地球環境に優しい教案誌」、悪く言えば、リサイクルかよ!といったところでしょうか。
アドベント、イースター、ペンテコステならいざ知らず、子どもたちにバランスのとれたカリキュラムをお願いしたいところです。
それならおめさん自分で考えなせや(新潟弁)と編集長に言われたらそこまでですが。週報はこちらです。
聖書箇所 『士師記』3章12-30節
序.
今から45年前・・・・というとものすごく大昔のように思えますが、「わたしの彼は左きき」という曲がヒットしました。
一番の歌詞でのサビは、「いつでも彼は左きき/あなたに合わせてみたいけど/私は右ききすれちがい」。
2番のサビは「いつでも彼は左きき/あなたの真似してみるけれど/私の右きき直せない」。
この歌を提供された麻丘めぐみさんは、左ききを気にしている人も少なくない中で、こんな歌を歌って良いんだろうか、と思ったそうです。
しかしこの曲がヒットしたことによって、左ききのイメージが上がり、左きき用の商品が多数開発されるきっかけになりました。
しかしエフデが生きていた約三千年前のイスラエルにおいては、左ききの人は大変な差別の中にありました。
聖書では「右」が神の「力」「勝利」を象徴しているのですが、当時の人々はそれを間違って受け止めてしまい、
神から祝福されずに生まれてきた者として、左ききの人を差別したのです。
エフデはエグロンを倒した後、自分の同胞であるベニヤミン族ではなくエフライム部族の山地に入って戦いの角笛を吹き鳴らしています。
もしかしたらそれは、彼が同じ部族の中で差別と孤独を味わいながら生きてきたことを表しているのかもしれません。
1.
人々は左ききのエフデをとうてい人々を救うことのできるリーダーとは見ていなかったでしょう。
むしろ彼はモアブ人に差別され虐げられているイスラエルの中で、さらに差別されていた人間だったに違いありません。
だからこそモアブ人の王エグロンは、イスラエル人のあいだでさえ疎まれているエグロンに警戒を持たず、自分のそばにまで近づけました。
エフデ自身は、左ききに生まれた自分をどのように見ていたのでしょうか。
そのような差別される条件の下に生まれてきたことをどう考えていたのでしょうか。
しかし次のことを、今日心に刻みつけてください。人の目には短所と見えるものは、神が長所として与えてくださったものです。
宝物はたいがい人に知られないところに隠されるものです。
わかりやすい長所が宝物ではなく、こんなものいらないと思う短所こそ宝物であることがしばしば起こります。
他人の評価に巻き込まれて、私たち自身が欠点とみてしまうようなもの、それを神は、あなただけに与えた祝福の賜物なのだよと言われます。
エフデが人々の尊敬を集めるような者ではなかったからこそ、エグロンは彼を小物と判断し、自分の近くに呼び寄せました。
エフデが左ききであったゆえに、右利きの者が剣を忍ばせる左側の懐だけに注目していたエグロンは、彼が隠していた剣に気づきませんでした。
人がもっぱら悪い方へと受け止める、エフデのもつあらゆる特徴が用いられて、エフデは、蛇のように注意深いエグロンを倒すことができました。
左ききであることでおそらく虐げられ、卑しめられていたこのエフデは、モアブ人からイスラエル人を解放する英雄となりました。
私は口下手ですと神に言い続けてしまいには怒られたモーセも、エジプトからイスラエル人を解放するリーダーになりました。
使徒パウロも、何か持病を抱えていたようです。しかし彼はそれを通して、弱さの中に働かれるイエス・キリストを喜んで宣べ伝えました。
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最近の記事
(02/02)2025.2.2主日第二礼拝のプレミア公開
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
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(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
2018.8.19「夫婦はともに高め合う」(創2:18-25)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近のニュース記事を見かけ、思うことがありました。リンクはそのうち切れると思うので、見出しを残しておきます。
ご当地ヒーローの“正体”さらした町議が炎上し謝罪(日刊スポーツ)
内容については肖像権の侵害ということになるのでしょうが、感じている問題点はそこではありません。
いちいち、不特定多数の人が関わるツイッターやFacebookを経由して、抗議や抗弁をするのはどうしてなのでしょうか?
直接連絡を取って伝えればよいのに、なぜあえてSNSで拡散してでなければ向き合えないのか。
相手が匿名の存在であればSNSを使うのもわかりますが、事務所やプロダクションの連絡先もわかるはずです。
本人たちが気づいているかはともかく、おそらく自分に同意してくれる人たちの支持をとりつけるためなのでしょう。
しかしそのせいで、個人的に話し合えば納得できるものが多数の第三者を挟んでしまい、傷口を広げることが多いのです。
今回は、夫婦について説教で取り上げました。
一昔前、声をかければ届く距離にいる夫婦がわざわざ携帯メールで用件を伝えるやりとりが笑い話になったことがありました。
しかし今は、夫婦げんかが起こるとすぐにそれぞれがSNSで拡散して「自分は悪くないよね」という時代になっています。
聖書箇所 『創世記』2章18-25節
1.
今日の礼拝説教は、最初の人間、アダムとエバを神が創ったことを通して語られている、結婚についてです。
子どもたちや学生さんにはまだ早いかもしれません。
逆に、いまさら言われてもねェという、諦めの境地にある夫婦もいるやもしれません。
しかし聖書の教えは永遠に変わることがありません。そこから教えられることには、早すぎるということも、遅すぎるということもありません。
逆に、世間で語られる結婚は、目まぐるしく変わります。
私が結婚適齢期であった90年代には、女性が結婚相手に求める条件として「三高」が言われていました。高学歴、高収入、高身長です。
私が結婚した頃、それが「四低」に変わりました。女性に頼らない「低依存」、俺が俺がと押しつけがましくない「低姿勢」、
安定した仕事の「低リスク」、そして長男坊ではないこと。私はどれも満たしていませんでしたが。
そのあとも数字と漢字を掛け合わせたいくつかの言葉が生まれ、今は「三生」だそうです。生存力、生活力、生産力。
さらには、男性同士、女性同士の同性婚についてもわからないでは済ませられない時代に来ています。
このように、この社会の結婚観はまるでネコの瞳のようにくるくると変わっていきます。
しかしもう一度繰り返しますが、聖書が教えている結婚は、時代によって決して変わることがありません。18節にはこうあります。
「その後、神である主は仰せられた。人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」。
神は男性、女性をそれぞれにふさわしい相手として備えてくださっています。
さらに21節から24節までの言葉を通して、人間ではなく神さまのイニシアチブ、主導権の中で導いてくださいます。
その人の知らないうちに、その人の骨から造り、目の前に連れてきて、一心同体として結ばせてくださった、と。
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最近のニュース記事を見かけ、思うことがありました。リンクはそのうち切れると思うので、見出しを残しておきます。
ご当地ヒーローの“正体”さらした町議が炎上し謝罪(日刊スポーツ)
内容については肖像権の侵害ということになるのでしょうが、感じている問題点はそこではありません。
いちいち、不特定多数の人が関わるツイッターやFacebookを経由して、抗議や抗弁をするのはどうしてなのでしょうか?
直接連絡を取って伝えればよいのに、なぜあえてSNSで拡散してでなければ向き合えないのか。
相手が匿名の存在であればSNSを使うのもわかりますが、事務所やプロダクションの連絡先もわかるはずです。
本人たちが気づいているかはともかく、おそらく自分に同意してくれる人たちの支持をとりつけるためなのでしょう。
しかしそのせいで、個人的に話し合えば納得できるものが多数の第三者を挟んでしまい、傷口を広げることが多いのです。
今回は、夫婦について説教で取り上げました。
一昔前、声をかければ届く距離にいる夫婦がわざわざ携帯メールで用件を伝えるやりとりが笑い話になったことがありました。
しかし今は、夫婦げんかが起こるとすぐにそれぞれがSNSで拡散して「自分は悪くないよね」という時代になっています。
「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」(マタイ18:15)二千年前に語られたイエス様の言葉は、今日の情報過飽和時代にも当てはまります。週報はこちらです。
聖書箇所 『創世記』2章18-25節
1.
今日の礼拝説教は、最初の人間、アダムとエバを神が創ったことを通して語られている、結婚についてです。
子どもたちや学生さんにはまだ早いかもしれません。
逆に、いまさら言われてもねェという、諦めの境地にある夫婦もいるやもしれません。
しかし聖書の教えは永遠に変わることがありません。そこから教えられることには、早すぎるということも、遅すぎるということもありません。
逆に、世間で語られる結婚は、目まぐるしく変わります。
私が結婚適齢期であった90年代には、女性が結婚相手に求める条件として「三高」が言われていました。高学歴、高収入、高身長です。
私が結婚した頃、それが「四低」に変わりました。女性に頼らない「低依存」、俺が俺がと押しつけがましくない「低姿勢」、
安定した仕事の「低リスク」、そして長男坊ではないこと。私はどれも満たしていませんでしたが。
そのあとも数字と漢字を掛け合わせたいくつかの言葉が生まれ、今は「三生」だそうです。生存力、生活力、生産力。
さらには、男性同士、女性同士の同性婚についてもわからないでは済ませられない時代に来ています。
このように、この社会の結婚観はまるでネコの瞳のようにくるくると変わっていきます。
しかしもう一度繰り返しますが、聖書が教えている結婚は、時代によって決して変わることがありません。18節にはこうあります。
「その後、神である主は仰せられた。人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」。
神は男性、女性をそれぞれにふさわしい相手として備えてくださっています。
さらに21節から24節までの言葉を通して、人間ではなく神さまのイニシアチブ、主導権の中で導いてくださいます。
その人の知らないうちに、その人の骨から造り、目の前に連れてきて、一心同体として結ばせてくださった、と。
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2018.8.12「なりふり構わず神を求めよ」(ヨハネ12:20-26)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が卒業した敬和学園大学はキリスト教主義の学校ですが、私はその大学がちょうど創立された年に入学しました。
その4ヶ月前のクリスマスに受洗したばかりでしたが、なりゆきで聖書研究会を立ち上げることになりました。
クリスチャン学生数名と、求道者が若干名集まって来ましたが、人生でいちばん信仰について勉強した時期でした。
牧師から説教集を借りたり、キリスト教書店で買ったりして、聖研に初めて来た人にもわかりやすく伝えられるように必死で学びました。
うまく伝えられないことにもどかしい思いを抱えながら、聖書のエッセンスを伝えられるように「努力」しました。
思うに、多くのクリスチャンが、間違ったことを語ったらいけないと思うあまり、自分で聖書を語る努力から逃げていませんか。
救いは恵みであって努力ではありませんが、救いの結実のためには、神は人の努力をないがしろにはいたしません。
冷や汗をかきながら伝え、間違いに気づいて、また直して語って、それを繰り返して、少しずつ成長していきます。
「伝道できるように訓練してくれ」と頼まれることがありますが、まず自分でナントカ頑張ろうという気概がほしいところです。
決して突き放しているわけではなく、人間追い込まれないと本気になれないからです。
本気になれば、書籍でもネットでも使って、自分で必要なものを手に入れることのできる時代です。
お願いしたいのは、人に教えられなければ何もできないという思い込みから脱却して、いくらでも恥を経験してみることです。
そういう意味で、「なりふり構わず」は決して悪い言葉とは思いません。むしろ私の好きな言葉です。
いつでもなりふり構わず生きています。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章20-26節
序.
私は行ったことがありませんが、伝統のある高級料理店などでは、「一見さんお断り」という張り紙がしていることがあるそうです。
「一見さん」とは、紹介のないお客さんのこと。つまり、その店の常連客の紹介がなければ、その店には入れません、ということです。
私たち教会とはまったく逆ですね。どの教会も、「どなたでも遠慮なくお越しください」とホームページやパンフレットには書いています。
ところがある牧師が面白いことを書いていました。いっそのこと教会も、「一見さんお断り」と玄関に書いておいたらどうか、と。
なんてひどいことを、と憤慨する方もいるかもしれませんが、その牧師いわく、なぜ一見さんお断りの店がしぶとく何百年も残っているのか。
それは、選ばれた客しか入ることはできないというプレミア感が、逆に人々を惹きつけ、何としても入ってやるという情熱を生むのだ、と。
私にはその先生の主張が正しいかわかりませんし、もし正しいとしてもなかなか提案に従う勇気はわいてきませんが、
クリスチャンも求道者の方も、教会の座席に座れたのは自分が神さまに選ばれた上客だから、とたまにかみしめてみるのもよいかもしれません。
1.
さて、イエス様に会おうとしたギリシヤ人たちは、それこそ一見さんということになるのでしょうか。20節をお読みします。
「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。」
イエス様は、弟子を二、三人も経なければお会いできないような方ではなかったでしょう。
しかしこの20節を注意深く読んでみると、面白いことに気づきます。
ひとつはピリポが「ガリラヤのベツサイダの人」とわざわざ説明されていること、
そしてギリシヤ人たちはそのピリポを「先生」、直訳すると「主よ」と、まるでイエス様自身のように呼びかけていることです。
ガリラヤもベツサイダも、当時の感覚では田舎者というニュアンスです。その出身のピリポに対して「主よ」と呼びかけているギリシヤ人の姿。
田舎の漁師にすぎない弟子に対して「主よ」と呼びかけている彼らの姿は、ある意味、非常に滑稽です。
しかし彼らの行動は、神に直接出会うためならば、たとえどんなに滑稽に見えたとしても、何でも利用するというものとは言えないでしょうか。
京都で実際にあった話です。ある新入社員が、会社の先輩に、本格的な料亭に連れて行ってやると誘われました。
ところが例によって、そこは「一見さんお断り」でした。しかもその先輩もそれを知らないで、新入社員を連れて行ってしまったそうです。
店の中に入り、主人に断られて、一度は店を出た先輩でしたが、このままでは後輩にしめしがつかない。
そこで出てすぐにまた同じ店に入って行き、「これで二回目だから一見ではありませんよね」と言うと、主人が笑い出し、入れてくれたそうです。
「求めよ、さらば与えられん」とイエス様が言われたことばを思い出します。
救いは、人間の努力によって獲得するものではありません。
それは、人間が自分から神を求めなくても、向こうからやってくるものだという意味でしょうか。決してそうではありません。
あらゆる人間は、生まれた時すでに神がわからなくなっています。だから、聖書のことばや教会の門をたたくきっかけは何でもよいのです。
しかし、そのきっかけをただのきっかけで終わらせず、そこから神さまを求めていく生き方を、人もまた神さまから求められています。
確かに、聖書のあるところには、私たちが救われたのは、この世界が造られる前から、神によって定められていたということが書いてあります。
しかしそれは、人間の真剣な求道心や、死に物狂いで神に近づいていこうとする態度を軽んじるものでは決してないのです。
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私が卒業した敬和学園大学はキリスト教主義の学校ですが、私はその大学がちょうど創立された年に入学しました。
その4ヶ月前のクリスマスに受洗したばかりでしたが、なりゆきで聖書研究会を立ち上げることになりました。
クリスチャン学生数名と、求道者が若干名集まって来ましたが、人生でいちばん信仰について勉強した時期でした。
牧師から説教集を借りたり、キリスト教書店で買ったりして、聖研に初めて来た人にもわかりやすく伝えられるように必死で学びました。
うまく伝えられないことにもどかしい思いを抱えながら、聖書のエッセンスを伝えられるように「努力」しました。
思うに、多くのクリスチャンが、間違ったことを語ったらいけないと思うあまり、自分で聖書を語る努力から逃げていませんか。
救いは恵みであって努力ではありませんが、救いの結実のためには、神は人の努力をないがしろにはいたしません。
冷や汗をかきながら伝え、間違いに気づいて、また直して語って、それを繰り返して、少しずつ成長していきます。
「伝道できるように訓練してくれ」と頼まれることがありますが、まず自分でナントカ頑張ろうという気概がほしいところです。
決して突き放しているわけではなく、人間追い込まれないと本気になれないからです。
本気になれば、書籍でもネットでも使って、自分で必要なものを手に入れることのできる時代です。
お願いしたいのは、人に教えられなければ何もできないという思い込みから脱却して、いくらでも恥を経験してみることです。
そういう意味で、「なりふり構わず」は決して悪い言葉とは思いません。むしろ私の好きな言葉です。
いつでもなりふり構わず生きています。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章20-26節
序.
私は行ったことがありませんが、伝統のある高級料理店などでは、「一見さんお断り」という張り紙がしていることがあるそうです。
「一見さん」とは、紹介のないお客さんのこと。つまり、その店の常連客の紹介がなければ、その店には入れません、ということです。
私たち教会とはまったく逆ですね。どの教会も、「どなたでも遠慮なくお越しください」とホームページやパンフレットには書いています。
ところがある牧師が面白いことを書いていました。いっそのこと教会も、「一見さんお断り」と玄関に書いておいたらどうか、と。
なんてひどいことを、と憤慨する方もいるかもしれませんが、その牧師いわく、なぜ一見さんお断りの店がしぶとく何百年も残っているのか。
それは、選ばれた客しか入ることはできないというプレミア感が、逆に人々を惹きつけ、何としても入ってやるという情熱を生むのだ、と。
私にはその先生の主張が正しいかわかりませんし、もし正しいとしてもなかなか提案に従う勇気はわいてきませんが、
クリスチャンも求道者の方も、教会の座席に座れたのは自分が神さまに選ばれた上客だから、とたまにかみしめてみるのもよいかもしれません。
1.
さて、イエス様に会おうとしたギリシヤ人たちは、それこそ一見さんということになるのでしょうか。20節をお読みします。
「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。」
イエス様は、弟子を二、三人も経なければお会いできないような方ではなかったでしょう。
しかしこの20節を注意深く読んでみると、面白いことに気づきます。
ひとつはピリポが「ガリラヤのベツサイダの人」とわざわざ説明されていること、
そしてギリシヤ人たちはそのピリポを「先生」、直訳すると「主よ」と、まるでイエス様自身のように呼びかけていることです。
ガリラヤもベツサイダも、当時の感覚では田舎者というニュアンスです。その出身のピリポに対して「主よ」と呼びかけているギリシヤ人の姿。
田舎の漁師にすぎない弟子に対して「主よ」と呼びかけている彼らの姿は、ある意味、非常に滑稽です。
しかし彼らの行動は、神に直接出会うためならば、たとえどんなに滑稽に見えたとしても、何でも利用するというものとは言えないでしょうか。
京都で実際にあった話です。ある新入社員が、会社の先輩に、本格的な料亭に連れて行ってやると誘われました。
ところが例によって、そこは「一見さんお断り」でした。しかもその先輩もそれを知らないで、新入社員を連れて行ってしまったそうです。
店の中に入り、主人に断られて、一度は店を出た先輩でしたが、このままでは後輩にしめしがつかない。
そこで出てすぐにまた同じ店に入って行き、「これで二回目だから一見ではありませんよね」と言うと、主人が笑い出し、入れてくれたそうです。
「求めよ、さらば与えられん」とイエス様が言われたことばを思い出します。
救いは、人間の努力によって獲得するものではありません。
それは、人間が自分から神を求めなくても、向こうからやってくるものだという意味でしょうか。決してそうではありません。
あらゆる人間は、生まれた時すでに神がわからなくなっています。だから、聖書のことばや教会の門をたたくきっかけは何でもよいのです。
しかし、そのきっかけをただのきっかけで終わらせず、そこから神さまを求めていく生き方を、人もまた神さまから求められています。
確かに、聖書のあるところには、私たちが救われたのは、この世界が造られる前から、神によって定められていたということが書いてあります。
しかしそれは、人間の真剣な求道心や、死に物狂いで神に近づいていこうとする態度を軽んじるものでは決してないのです。
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2018.8.5「美味くて不味いもの」(マタイ5:10-16)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では日曜午前9:00〜10:00までが教会学校の時間なのですが、実際には9:30から賛美やメッセージが始まります。
それまでの30分、子どもたちは少しずつ集まってくるのですが、やや時間を持て余しているような感じになっています。そこで考えました。
子どもも大人も時間を忘れて夢中になれる遊びはないか。できれば遊びに疲れて、メッセージの時静かになるようなやつ。
あります。ピンポンです。いや卓球です。もと中条中学校卓球部の私が言うのですから間違いありません。
とはいえ本格的な卓球台を導入するには会堂がちと狭すぎます。子どもたちにも本格卓球は敷居が高すぎるでしょう。
そこでコンパクトかつ折りたためて、アウトドアでも使えるようなものを探してみました。参考にしていただけたら幸いです。
1)キャプテンスタッグ 卓球台ポータブルセット UX-2549 (市場平均価格19,000円)


キャンプ用品のシェアNo.1、ヘラジカのマークで有名な「キャプテンスタッグ」(パール金属)の製品です。
うちの洗面所で使っているマグカップもキャプテンスタッグです。新潟県三条市に本社があります。
バーベキューの後はピンポン!みたいなノリでしょうか。足元は普通のアルミテーブルと変わらないじゃんと突っ込みたくなります。
2)カイザー ミニ卓球台 KW-363 (市場平均価格9,000円)


見かけは上記キャプテンスタッグ製品とほとんど変わらないように見えますが、価格は半額です。
その分、造りが甘いのかもしれませんが、高さを二段階に調節できるので、子どもから大人まで楽しめそうです。
3)ニッタク ミニ卓球台「ピポン」(NT-3301) (市場平均価格16,000円)

卓球少年少女のあいだで知らない者はいない、卓球用品メーカーの帝王「Nittaku(ニッタク)」。
当時、Nittakuのボール(ピンポン玉)は一つ星(ワンスター)から三つ星(スリースター)まで販売されていて、
違いがわからないのに三つ星を持っているだけで上手いと思われていた中坊時代でした。Nittakuのせいじゃないけど。
そんな卓球界の専制君主Nittakuが、まさか邪道ともいうべきコンパクト台に手を広げていたとは。フランス革命よりビックリです。
とはいえさすがNittaku。いかにも卓球台という黒板色がなんとも言えません。しかもキャプテンスタッグより安いのね。
ところが帝王Nittakuの威光さえ軽く吹き飛んでしまうような、驚愕の卓球台を発見しました!
4)三英(サンエイ) ITTF公認卓球台 インフィニティー (市場平均価格860,000円)

ククク・・・・この圧倒的デザイン、ほとんど聖餐卓。
教会学校では卓球台として、礼拝では聖餐卓として使用したら夢のようです。そんな不埒な考えさえ起こしてしまうインフィニティ(無限)。
ただしお値段は税込86万円とまさに悪夢です。妄想だけで満足すべきですね。今週の物欲のコーナーでした。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』5章10-16節
1.
イエス様は、ご自分の弟子たちに語りました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。
義とは、正義という意味ではありません。何が正義は、その時代において変わってくるからです。
今から73年前の1945年8月5日、広島に原爆が落とされる前日、現人神である天皇のために命を捨てることがその時代の正義でした。
しかしわずか10日後の8月15日には戦争が終結し、天皇の人間宣言をもって、正義の意味は変わりました。
日本だけではなく、世界中がその時代ごとで正義とは何かをころころ変えてきました。
「義のために」とは、そのような人の正義、世の正義ではなく、神の正義です。
神の正義とは、聖書に示された神のみこころ。それにしたがって生きていくことです。
そして移りゆく人の正義と、変わらない神の義とはしばしば対立します。しかしイエス様はそこで私たちにこのように語られているのです。
「この二つの義が対立する世界において、あなたはどちらを選ぶのか。・・・神の義を選ぶ者は幸いである。
人の義を第一とする者たちが、ありもしないことであなたをののしり、迫害し、悪口を浴びせるとき、あなたは幸いである。
そのとき、天の御国は、すでにあなたのものなのだから。」
先日、『沈黙』という映画を有志で鑑賞しました。小説を読んだのは高校生の時でしたが、その時私はまだクリスチャンではありませんでした。
数十年経ってその映画を見たときに、キリシタンたちが命を賭けた「踏み絵」や「逆さ十字架」を、リアルな思いをもって受けとめました。
「殉教者の血は教会の種子である」という言葉が映画の中でも語られます。
これはイエス様がこれを語られたときから約200年後、ローマ帝国による大迫害の時代に生きたクリスチャン、テルトゥリアヌスのことばです。
その言葉のとおり、帝国から迫害を受け続けたクリスチャンは、約300年間の忍耐のあと、勝利を勝ち取るのです。
対して、日本の教会はどうでしょうか。歴史の中で、キリスト教が大ブームになった時代が3回ありました。
一度目は、戦国時代から安土桃山時代。映画「沈黙」はその直後にあたります。この時の宣教師がフランシスコ・ザビエルです。
二度目は、明治から大正にかけての頃。ローマ字で有名なヘボン、また「少年よ大志を抱け」のクラーク博士もそこに入るかもしれません。
そして三度目は昭和の終戦後からのしばらくの期間。マッカーサーの肝いりで、とくにアメリカから宣教師がたくさん来日しました。
しかしその三つのどれも、人々が惹かれたのは聖書の教えでもイエス・キリストでもなく、宣教師が持ち込む珍しい文化の香りでした。
最初の時代には南蛮文化、明治大正期には欧米文化、終戦後は豊かな物質文化、
しかしそのいずれも、人々は聖書の教えを受け入れる前に文化に飽きてしまい、教会から去って行ったのです。
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当教会では日曜午前9:00〜10:00までが教会学校の時間なのですが、実際には9:30から賛美やメッセージが始まります。
それまでの30分、子どもたちは少しずつ集まってくるのですが、やや時間を持て余しているような感じになっています。そこで考えました。
子どもも大人も時間を忘れて夢中になれる遊びはないか。できれば遊びに疲れて、メッセージの時静かになるようなやつ。
あります。ピンポンです。いや卓球です。もと中条中学校卓球部の私が言うのですから間違いありません。
とはいえ本格的な卓球台を導入するには会堂がちと狭すぎます。子どもたちにも本格卓球は敷居が高すぎるでしょう。
そこでコンパクトかつ折りたためて、アウトドアでも使えるようなものを探してみました。参考にしていただけたら幸いです。
1)キャプテンスタッグ 卓球台ポータブルセット UX-2549 (市場平均価格19,000円)
キャンプ用品のシェアNo.1、ヘラジカのマークで有名な「キャプテンスタッグ」(パール金属)の製品です。
うちの洗面所で使っているマグカップもキャプテンスタッグです。新潟県三条市に本社があります。
バーベキューの後はピンポン!みたいなノリでしょうか。足元は普通のアルミテーブルと変わらないじゃんと突っ込みたくなります。
2)カイザー ミニ卓球台 KW-363 (市場平均価格9,000円)
見かけは上記キャプテンスタッグ製品とほとんど変わらないように見えますが、価格は半額です。
その分、造りが甘いのかもしれませんが、高さを二段階に調節できるので、子どもから大人まで楽しめそうです。
3)ニッタク ミニ卓球台「ピポン」(NT-3301) (市場平均価格16,000円)

卓球少年少女のあいだで知らない者はいない、卓球用品メーカーの帝王「Nittaku(ニッタク)」。
当時、Nittakuのボール(ピンポン玉)は一つ星(ワンスター)から三つ星(スリースター)まで販売されていて、
違いがわからないのに三つ星を持っているだけで上手いと思われていた中坊時代でした。Nittakuのせいじゃないけど。
そんな卓球界の専制君主Nittakuが、まさか邪道ともいうべきコンパクト台に手を広げていたとは。フランス革命よりビックリです。
とはいえさすがNittaku。いかにも卓球台という黒板色がなんとも言えません。しかもキャプテンスタッグより安いのね。
ところが帝王Nittakuの威光さえ軽く吹き飛んでしまうような、驚愕の卓球台を発見しました!
4)三英(サンエイ) ITTF公認卓球台 インフィニティー (市場平均価格860,000円)

ククク・・・・この圧倒的デザイン、ほとんど聖餐卓。
教会学校では卓球台として、礼拝では聖餐卓として使用したら夢のようです。そんな不埒な考えさえ起こしてしまうインフィニティ(無限)。
ただしお値段は税込86万円とまさに悪夢です。妄想だけで満足すべきですね。今週の物欲のコーナーでした。
週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』5章10-16節
1.
イエス様は、ご自分の弟子たちに語りました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。
義とは、正義という意味ではありません。何が正義は、その時代において変わってくるからです。
今から73年前の1945年8月5日、広島に原爆が落とされる前日、現人神である天皇のために命を捨てることがその時代の正義でした。
しかしわずか10日後の8月15日には戦争が終結し、天皇の人間宣言をもって、正義の意味は変わりました。
日本だけではなく、世界中がその時代ごとで正義とは何かをころころ変えてきました。
「義のために」とは、そのような人の正義、世の正義ではなく、神の正義です。
神の正義とは、聖書に示された神のみこころ。それにしたがって生きていくことです。
そして移りゆく人の正義と、変わらない神の義とはしばしば対立します。しかしイエス様はそこで私たちにこのように語られているのです。
「この二つの義が対立する世界において、あなたはどちらを選ぶのか。・・・神の義を選ぶ者は幸いである。
人の義を第一とする者たちが、ありもしないことであなたをののしり、迫害し、悪口を浴びせるとき、あなたは幸いである。
そのとき、天の御国は、すでにあなたのものなのだから。」
先日、『沈黙』という映画を有志で鑑賞しました。小説を読んだのは高校生の時でしたが、その時私はまだクリスチャンではありませんでした。
数十年経ってその映画を見たときに、キリシタンたちが命を賭けた「踏み絵」や「逆さ十字架」を、リアルな思いをもって受けとめました。
「殉教者の血は教会の種子である」という言葉が映画の中でも語られます。
これはイエス様がこれを語られたときから約200年後、ローマ帝国による大迫害の時代に生きたクリスチャン、テルトゥリアヌスのことばです。
その言葉のとおり、帝国から迫害を受け続けたクリスチャンは、約300年間の忍耐のあと、勝利を勝ち取るのです。
対して、日本の教会はどうでしょうか。歴史の中で、キリスト教が大ブームになった時代が3回ありました。
一度目は、戦国時代から安土桃山時代。映画「沈黙」はその直後にあたります。この時の宣教師がフランシスコ・ザビエルです。
二度目は、明治から大正にかけての頃。ローマ字で有名なヘボン、また「少年よ大志を抱け」のクラーク博士もそこに入るかもしれません。
そして三度目は昭和の終戦後からのしばらくの期間。マッカーサーの肝いりで、とくにアメリカから宣教師がたくさん来日しました。
しかしその三つのどれも、人々が惹かれたのは聖書の教えでもイエス・キリストでもなく、宣教師が持ち込む珍しい文化の香りでした。
最初の時代には南蛮文化、明治大正期には欧米文化、終戦後は豊かな物質文化、
しかしそのいずれも、人々は聖書の教えを受け入れる前に文化に飽きてしまい、教会から去って行ったのです。
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2018.7.29「人生を裏返す出会い」(ヨハネ4:1-30)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この教会ブログを開設したのは2012年からですが、それ以前の約10年間の説教原稿も一応データで残してあります。
8年前(2010年)の礼拝説教に、今回と同じ聖書箇所から語った「水がめ下ろしたサチコさん」というメッセージがありました。
今は、幸いなことに教会に子どもたちが増えたので、こんなオトナ向けの導入はなかなかできませんが、懐かしかったので参考までに。
あれから8年、アベノミクスで株価は2倍になりましたが、多くの人の生活は変わっていないどころかむしろ悪化しているかもしれません。
二千年前のサマリヤ人女性の姿に、生活に苦しむ現代人の姿を重ねる説教の視点は、あの時も今も変わりません。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』4章1-30節
1.
「依存症」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
よく言われているのは、やめたくてもやめられない、それが依存症である、と。
アルコール依存、薬物依存、ニコチン依存、カフェイン依存という物質系のものから、
ギャンプル依存、買い物依存、インターネット依存、仕事依存、パチンコ依存、
しかしアルコール依存の人がアルコールを断つ、ネット依存の若者がパソコンやスマホを捨てる、
それは本当の解決にはならない、と専門家は言います。
「なになに依存」の「なになに」に問題があるのではない、
問題はそれらにすがらなければ自分をありのままで受け入れることができない、という心の深みにあるものだ、と。
これらに関しては、人の受け売りである私の説明よりも、
実際に家族や本人が経験し、戦っている方々がこの中にもおられるかもしれません。
しかしこの問題は、決して現代特有のものではないということを聖書は伝えています。
二千年前の人物であるこのサマリヤ人の女性は、男性への依存を抱えていました。
彼女が今まで5人の男性を夫とし、いま一緒に暮らしているのはあなたの夫ではない、とイエス・キリストは彼女の人生をえぐりました。
幸せな結婚生活、理想的な夫婦生活をだれよりも望んでいながら、それを何度リセットしても途中で破綻してしまう、
それを繰り返し続ける人生パターンの中に、彼女は苦しんでいます。
自分ではその苦しみを認めようとしないけれど、心の奥に深い痛みを抱えています。
その証拠に、彼女は第6時、すなわち正午に水を汲みに来ました。
当時のイスラエルでは、井戸に水をくみに来る仕事は早朝と夕暮れ前、女性たちが行う日課でした。
そして井戸端が女性たちにとってのコミュニケーションの場になっていたのは、イスラエルに限らず万国共通です。
しかし彼女が正午に井戸に水をくみに来たのは、彼女が他の人々と関わりを避けていたということを表しています。
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この教会ブログを開設したのは2012年からですが、それ以前の約10年間の説教原稿も一応データで残してあります。
8年前(2010年)の礼拝説教に、今回と同じ聖書箇所から語った「水がめ下ろしたサチコさん」というメッセージがありました。
今は、幸いなことに教会に子どもたちが増えたので、こんなオトナ向けの導入はなかなかできませんが、懐かしかったので参考までに。
私の名前はサチコ。幸せな子と書く。幸せな人生を歩めますように、と数年前に死んだ母親がつけた。当時はリーマンショックからまだ立ち上がれていないような頃で、派遣切りや生活保護のことがマスコミでよく取り上げられていました。
でもその願いとは裏腹に、もう5回、結婚に失敗した。同棲相手はいるけれど、最近は二週間に一回しか帰ってこない。
母親は彼を連れてきた時、開口一番「お前はつくづく男運がないね」とため息をついた。
でも私に男運がないのは母親のせい。母親だって結婚に失敗したじゃないか。私は父親の顔を知らないまま大人になった。
もし子どもが生まれたら、私や母親と同じような痛みは与えたくない。両親が揃っている家族の温かさを教えてあげたい。
だけど5回の結婚生活は、どれも子どもが生まれる前に終わってしまった。
今は派遣社員として隣町の自動車部品工場で働いている。
毎朝、工場から迎えに来るマイクロバスに乗り、一日部品を組み立て、夕方になるとまたバスに揺られて安アパートに帰ってくる。
帰宅後の楽しみは新聞の折り込みチラシに目を通すことくらい。タイムセールの文字を見つけると、宝島を発見したような気分になる。
でも私は絶対タイムセールには行かない。客が一番少ない時間を見計らって、必要なものだけをさっと買い、さっと帰る。
知り合いに会いたくないし、話したくないからだ。誰にも私の生活を見られたくない。誰にも私の心の中身を見せたくない。
あれから8年、アベノミクスで株価は2倍になりましたが、多くの人の生活は変わっていないどころかむしろ悪化しているかもしれません。
二千年前のサマリヤ人女性の姿に、生活に苦しむ現代人の姿を重ねる説教の視点は、あの時も今も変わりません。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』4章1-30節
1.
「依存症」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
よく言われているのは、やめたくてもやめられない、それが依存症である、と。
アルコール依存、薬物依存、ニコチン依存、カフェイン依存という物質系のものから、
ギャンプル依存、買い物依存、インターネット依存、仕事依存、パチンコ依存、
しかしアルコール依存の人がアルコールを断つ、ネット依存の若者がパソコンやスマホを捨てる、
それは本当の解決にはならない、と専門家は言います。
「なになに依存」の「なになに」に問題があるのではない、
問題はそれらにすがらなければ自分をありのままで受け入れることができない、という心の深みにあるものだ、と。
これらに関しては、人の受け売りである私の説明よりも、
実際に家族や本人が経験し、戦っている方々がこの中にもおられるかもしれません。
しかしこの問題は、決して現代特有のものではないということを聖書は伝えています。
二千年前の人物であるこのサマリヤ人の女性は、男性への依存を抱えていました。
彼女が今まで5人の男性を夫とし、いま一緒に暮らしているのはあなたの夫ではない、とイエス・キリストは彼女の人生をえぐりました。
幸せな結婚生活、理想的な夫婦生活をだれよりも望んでいながら、それを何度リセットしても途中で破綻してしまう、
それを繰り返し続ける人生パターンの中に、彼女は苦しんでいます。
自分ではその苦しみを認めようとしないけれど、心の奥に深い痛みを抱えています。
その証拠に、彼女は第6時、すなわち正午に水を汲みに来ました。
当時のイスラエルでは、井戸に水をくみに来る仕事は早朝と夕暮れ前、女性たちが行う日課でした。
そして井戸端が女性たちにとってのコミュニケーションの場になっていたのは、イスラエルに限らず万国共通です。
しかし彼女が正午に井戸に水をくみに来たのは、彼女が他の人々と関わりを避けていたということを表しています。
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