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2018.8.12「なりふり構わず神を求めよ」(ヨハネ12:20-26)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私が卒業した敬和学園大学はキリスト教主義の学校ですが、私はその大学がちょうど創立された年に入学しました。
その4ヶ月前のクリスマスに受洗したばかりでしたが、なりゆきで聖書研究会を立ち上げることになりました。
クリスチャン学生数名と、求道者が若干名集まって来ましたが、人生でいちばん信仰について勉強した時期でした。
牧師から説教集を借りたり、キリスト教書店で買ったりして、聖研に初めて来た人にもわかりやすく伝えられるように必死で学びました。
うまく伝えられないことにもどかしい思いを抱えながら、聖書のエッセンスを伝えられるように「努力」しました。
 思うに、多くのクリスチャンが、間違ったことを語ったらいけないと思うあまり、自分で聖書を語る努力から逃げていませんか
救いは恵みであって努力ではありませんが、救いの結実のためには、神は人の努力をないがしろにはいたしません。
冷や汗をかきながら伝え、間違いに気づいて、また直して語って、それを繰り返して、少しずつ成長していきます。
「伝道できるように訓練してくれ」と頼まれることがありますが、まず自分でナントカ頑張ろうという気概がほしいところです。
決して突き放しているわけではなく、人間追い込まれないと本気になれないからです。
 本気になれば、書籍でもネットでも使って、自分で必要なものを手に入れることのできる時代です。
お願いしたいのは、人に教えられなければ何もできないという思い込みから脱却して、いくらでも恥を経験してみることです。
そういう意味で、「なりふり構わず」は決して悪い言葉とは思いません。むしろ私の好きな言葉です。
いつでもなりふり構わず生きています。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章20-26節 


序.
 私は行ったことがありませんが、伝統のある高級料理店などでは、「一見さんお断り」という張り紙がしていることがあるそうです。
「一見さん」とは、紹介のないお客さんのこと。つまり、その店の常連客の紹介がなければ、その店には入れません、ということです。
私たち教会とはまったく逆ですね。どの教会も、「どなたでも遠慮なくお越しください」とホームページやパンフレットには書いています。
ところがある牧師が面白いことを書いていました。いっそのこと教会も、「一見さんお断り」と玄関に書いておいたらどうか、と。
なんてひどいことを、と憤慨する方もいるかもしれませんが、その牧師いわく、なぜ一見さんお断りの店がしぶとく何百年も残っているのか。
それは、選ばれた客しか入ることはできないというプレミア感が、逆に人々を惹きつけ、何としても入ってやるという情熱を生むのだ、と。
私にはその先生の主張が正しいかわかりませんし、もし正しいとしてもなかなか提案に従う勇気はわいてきませんが、
クリスチャンも求道者の方も、教会の座席に座れたのは自分が神さまに選ばれた上客だから、とたまにかみしめてみるのもよいかもしれません。

1.
 さて、イエス様に会おうとしたギリシヤ人たちは、それこそ一見さんということになるのでしょうか。20節をお読みします。
「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。」
 イエス様は、弟子を二、三人も経なければお会いできないような方ではなかったでしょう。
しかしこの20節を注意深く読んでみると、面白いことに気づきます。
ひとつはピリポが「ガリラヤのベツサイダの人」とわざわざ説明されていること、
そしてギリシヤ人たちはそのピリポを「先生」、直訳すると「主よ」と、まるでイエス様自身のように呼びかけていることです。
ガリラヤもベツサイダも、当時の感覚では田舎者というニュアンスです。その出身のピリポに対して「主よ」と呼びかけているギリシヤ人の姿。
田舎の漁師にすぎない弟子に対して「主よ」と呼びかけている彼らの姿は、ある意味、非常に滑稽です。
しかし彼らの行動は、神に直接出会うためならば、たとえどんなに滑稽に見えたとしても、何でも利用するというものとは言えないでしょうか。
 京都で実際にあった話です。ある新入社員が、会社の先輩に、本格的な料亭に連れて行ってやると誘われました。
ところが例によって、そこは「一見さんお断り」でした。しかもその先輩もそれを知らないで、新入社員を連れて行ってしまったそうです。
店の中に入り、主人に断られて、一度は店を出た先輩でしたが、このままでは後輩にしめしがつかない。
そこで出てすぐにまた同じ店に入って行き、「これで二回目だから一見ではありませんよね」と言うと、主人が笑い出し、入れてくれたそうです。
 「求めよ、さらば与えられん」とイエス様が言われたことばを思い出します。
救いは、人間の努力によって獲得するものではありません。
それは、人間が自分から神を求めなくても、向こうからやってくるものだという意味でしょうか。決してそうではありません。
あらゆる人間は、生まれた時すでに神がわからなくなっています。だから、聖書のことばや教会の門をたたくきっかけは何でもよいのです。
しかし、そのきっかけをただのきっかけで終わらせず、そこから神さまを求めていく生き方を、人もまた神さまから求められています。
確かに、聖書のあるところには、私たちが救われたのは、この世界が造られる前から、神によって定められていたということが書いてあります。
しかしそれは、人間の真剣な求道心や、死に物狂いで神に近づいていこうとする態度を軽んじるものでは決してないのです。

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posted by 近 at 00:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ