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2018年村新豊交流会

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 お待たせしました。久しぶりの村新豊交流会。
今回の会場は、村上福音キリスト教会の新会堂。
約16畳(実測)の広さの会堂に入りきれないほどの人数が集まりました!
賛美あり、メッセージあり、ゲームあり、分かち合いあり。何でもアリの三教会合同交じアリ会。
緑も美しい臥牛山(お城山)をバックに、熱気が会堂から溢れました。どうぞご覧ください。

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posted by 近 at 14:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 教会行事

2018.9.23「しもべゆえの苦しみ」(ヨブ1:1-12)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨブ記』1章1-12節 


1.
 自分が最も信頼していた友人が、誰かから自分の悪評、中傷を吹き込まれて、信頼関係を失ってしまう。
私が初めてそれを経験したのは、中学生の時でした。
夏休みが終わると、親友が私をあからさまに避けるようになっていたので、おかしいなと思いました。
別の友人からその理由を明かされるまで、私はなぜ親友の態度がここまで変わってしまったのか、見当もつきませんでした。
もう一度話しをして関係を修復できたらよかったのですが、
その前に私が病気にかかってそのまま転校してしまったので、誤解を受けたままです。
『ヨブ記』を読みながら、そんな30年以上前のことを思い出しました。

 悪魔が天の会議で、神にヨブのことを吹き込んでいることは、読者は知っていますが、当のヨブにはいっさい知らされません。
この後、ヨブには次から次へと、筆舌に尽くしがたいほどの災厄が起こります。
そして友人たちは、ヨブに罪があるから、神がさばきとしてこのような目に会わせているのだ、悔い改めれば解決する、と諭します。
しかしヨブは決して悔い改めません。
なぜなら、ヨブにとって神とは、まさに永遠の親友、あるいは戦友ともいうべき存在だったからです。
もし私に罪があれば、友である神は、無言で罰を与えるのではなく、ことばによって教えてくださる。
それがこのヨブ記を貫く、信仰の神髄です。

 ヨブは、不幸には必ず原因があるというこの世の原理と闘っていました。
この原理は、「因果応報」ということばでよく知られています。
正しいことを行えば幸福があり、悪いことを行えば不幸がある、という考え方です。
わかりやすいがゆえに、人々を納得させる力があります。
年端もいかぬ保育園児でさえ、転んでしまったときに「やーい、バチが当たったんだ」とはやし立てられます。
それほどまでに、この因果応報という原理は、人々の心を支配しています。
この後に登場するヨブの友人たちも、この因果応報の原理にとりつかれていました。
ヨブ、君は自分では気づいていないかも知れないけれども、罪を犯しているのだ。だからそれが何か思い出して、すぐに悔い改めなさい。
そうすれば、神はあなたのすべてをまた元に戻してくれるにちがいない、と。
しかしヨブはそのような原理を決して認めません。友人たちに向き合う代わりに、天に向かってこう叫びます。
神よ、あなたは決して私に隠しごとをなさらないお方です。もし私に罪があるのなら、どうかことばを与えてください。
彼はひたすらそれだけを求めます。

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posted by 近 at 12:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.9.16「神のことを思う」(マタイ16:21-28)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日、自民党の総裁選が行われ、安倍首相(現総裁)と石破茂氏の一騎打ちとなりました。
結果は、安倍さんが810の有権者数のうち7割に当たる553票を得ての、いわば圧倒的勝利でした。
しかしその810は、国会議員票405および党員・党友による地方票405で構成されており、
安倍さんは前者では8割にあたる329票を得たものの、後者では224対181という辛勝だったという報道でした。
参考 朝日新聞記事「安倍首相が自民党総裁3選 石破氏は810票中254票」

 安倍さんはともかく、石破氏の主張などもしばしば問題を感じることは多いのですが、
彼がかつての教会指導者のひとり、金森通倫(※注)のひ孫にあたるプロテスタント信者であるのは有名な話です。
そして何かと失言の多い麻生太郎氏も敬虔な(と知り合いの神父さんが言ってた)カトリック信者であるということも。
でもこの二人、大変仲が悪いようです。安倍さんよりも麻生さんのほうがずっと石破氏を嫌っているみたいです。
それが単に政策の違いでそうなのか、それとも人間的にそうなのか、はたまた教派的にそうなのか、わかりませんが、
二人が仲良くしてくれたら安倍さんも変わり、日本の政治も変わるかもというのは言い過ぎでしょうか。
そういえば、安倍さんの奥様、昭恵さんもクリスチャンである森永太一郎氏のひ孫にあたると聞きました。
(※)棄教を宣言したり、再入信したり、また脱会したりとまあいろいろあったようですが、戦前のキリスト教史を語る上で外せない人物です

 でもここだけの話、牧師同士でも仲の悪い人たちっているんですよね。
そして講壇からどんなにりっぱな説教を語ることができても、信徒は牧師同士が愛し合えない姿に最もつまずきをおぼえるのでしょう。
伝道、伝道という前に、まず指導する立場にある者たちがお互いに愛し、敬い合う・・・・自戒としていきます。
週報はこちらです。


聖書箇所 『マタイの福音書』16章21-28節 


1.
 「私、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。」
映画は見たことがなくても、この前口上はどこかで聞いたことがあるという平成世代もいるのではないでしょうか。
教会に来なくても、イエス・キリストという名前は聞いたことがあるという日本人は多いと思います。
しかし、「姓は車、名は寅次郎」ではありませんが、「姓はキリスト、名はイエス」。
名字がキリスト、名前がイエス、生まれも育ちもアメリカかヨーロッパ。イエス・キリストをそのように考えている人もまた多いかもしれません。
クリスチャンは、イエス・キリストのキリストが、名字ではなくて救い主という意味であることを知っています。
しかし世の中には、うちの教祖こそ救い主だと主張するあまたの宗教で満ちております。
ではキリスト教もその海千山千の一つにすぎないのでしょうか。その答えが、今日の聖書箇所の冒頭にあります。
21節、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」。
エルサレムに行かねばならない、多くの苦しみを受けねばならない、殺されねばならない、そして三日目によみがえらねばならない。
「ねばならない」はよみがえりだけにかかっているのではありません。
都に行くこと、苦しみを受けること、殺されること、よみがえること、すべてにかかる、「ねばならない」です。
しかし、エルサレムに行くことはいいとして、苦しみを受けなければならない、殺されなければならない、
その言葉のショックは、最後の「よみがえなければならない」ということをかき消すには十分すぎるものでした。
神の子が殺される。それは、ペテロが思わずいさめずにはいられなかったほどに、決してあり得ない、いや、あってはならない話だったのです。
「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」。
 しかしその言葉に対するイエス様の怒りは、今まで聞いたこともないような激しいものでした。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」。
なぜイエス様はそれほどまでにペテロの言葉に憤ったのでしょうか。
その理由は、続くイエス様のことばが語っています。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

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posted by 近 at 21:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.9.9「教会はこの岩(ペトラ)の上に」(マタイ16:13-20)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
北海道胆振(いぶり)東部地震の犠牲者のご遺族、また被災者の方々に慰めと励ましが与えられるように祈ります。
北海道の教会について、被災状況などはこちらをご参照ください。
日本同盟基督教団 緊急災害情報掲示板
北海道クリスチャン宣教ネットワーク(ホクミン)災害緊急支援本部

同盟教団の教会に関しては、教会員やその家族に人的被害はないということですが、
厚真町から近い苫小牧の教会では、人工透析を受けておられる方がおられるのでお祈りくださいとのことでした。
神学校の友人が「(本土の)台風は北海道に抜けました」と報道されるたびに道民としては悲しくなると言っていましたが、
いま北海道の教会のために何ができるのか、何をしなければならないのかを考えていきたいと思います。
ちなみに先週報告した「飛ばされない葉っぱ」は、まだ洗面所の窓のそとで手を振っていますのでご安心ください。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』16章13-20節 


1.
 「あなたは、生ける神の子キリストです」。このように告白したシモン・ペテロに対して、イエスさまはこのように言われました。
18節前半、「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」。
「岩」はギリシャ語でペトラと言います。人の名前であるペテロと音の響きが似ていますが、決して同じ意味ではありません。
イエスは、ペテロとペトラという言葉を並べることで、教会がペテロという人ではなく、ペトラ、つまり岩の上に建つということを強調しておられます。
ペテロは自他共に認める、イエス様の一番弟子でした。しかし人は必ず失敗するものであって、教会の土台はそこにはありません。
では教会の土台である岩とは何でしょうか。その答えは、「あなたは神の御子キリストです」という告白です。
しかし人間が頭で考えての告白ではありません。イエス様が次のように言われたとおりです。
「バルヨナ、シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
イエス様は、ペテロというひとりの人のリーダーシップにではなく、神が示されたこの告白の上にわたしの教会を建てると言われます。
その告白こそ、「あなたは生ける神の子キリストです」。この方以外に、私たちが望みをおくことのできるものは決して存在しません。

 わたしの教会、つまりそこがキリストの教会である証拠は、看板に「キリスト」や「教会」ということばが入っていることではありません。
建物の上に十字架が立っていることでもないし、オルガンや燭台のような内装が示すわけでもありません。
ましてや、牧師や信徒の人間的魅力だとか、教会のアットホームな雰囲気だとか、−まあ、あれば良いに越したことはありませんが−、
そのこと自体が、その教会がキリストの認める「わたしの教会」であるしるしではありません。
人間的な欠点や、組織的な欠陥がたとえどれほど詰まっているような教会であろうとも、その教会が教会であるしるしは次のことです。
すなわち、「イエス・キリストこそ神のひとり子であり、ただ一人の救い主である」と告白する教会なのか、そうでないか、です。
それは単に主日礼拝といった公の集会の中で、イエスこそ神の御子であると告白している、ということではありません。
一人ひとりのクリスチャンは、それらの礼拝や祈祷会から、それぞれの家庭や社会、すなわち世に遣わされています。
その中で、イエスこそ神の御子であると、大胆に喜びをもって告白しているかどうか、ということを自分自身に問いかけていきましょう。

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posted by 近 at 21:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.9.2「聖餐は闇を飲み尽くす」(マルコ14:17-31)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風21号および北海道地震の被災者の方に励ましが与えられるように祈ります。
同盟教団の災害連絡室からの情報では人的被害を受けた教会はないようですが、ライフラインが一日も早く復旧しますように。

 台風に関しては、関西地方のような直撃はありませんでしたが、豊栄でも強風が吹き荒れました。
築ウン十年の牧師館もガタガタ揺れて眠れない夜を過ごした翌朝、洗面所に立つと窓の向こう側から誰かが手を振っています
びっくりして目をやると、か細いクモの糸に繋がった枯れ葉が一枚、さかんに風に揺られて動いていました。
上下左右に激しく動いていので、誰かが外で手を振っているように見えたのですね。
びっくりしたと同時に、あの強風の中で、よく飛ばされなかったものだと感動しました。
芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を書きたかった気持ちがよくわかります。肝心のクモはどこへ行ってしまったのでしょうか。
ともあれ、主のいなくなった枯れ葉は、その後も飛ばされることなく、今日も洗面所の外から元気に手を振っています。
外から写真を撮ってみたのですが、糸は細すぎて映りませんでした。
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というか、窓ぎわにこれでもかと並べられている洗剤やら化粧品やらのほうが気になります
自分のうちなのに。お恥ずかしい。空になっても捨てないで放置しているとこうなります。週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』14章17-31節 


1.
 茶道には様々な流派がありますが、まず薄茶から始めて、徐々に濃茶に進んでいくことはおおむね共通しているようです。
薄茶、濃茶とは文字通り薄いお茶と濃いお茶のことです。
原則、薄茶は一人ひとりに別の茶碗があてがわれ、濃茶は回し飲みをする流派が多いようです。
この回し飲みを作法として完成させた千利休は、一説では当時のカトリック教会の聖餐式で行われていた杯の回し飲みに触れたと言われます。そしてそこに込められている恵みの共有という教えからも影響を受けたのだ、と。

 こんなエピソードがあります。関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に敗れた石田三成の親友に、大谷吉継という武将がいました。
二人の出会いは、彼らがまだ若かりし頃に行われた、豊臣秀吉の大茶会だったそうです。
大谷吉継は有能な武将でしたが、あの旧約聖書に出てくるナアマンのように、うみやただれを生じる重い皮膚病を患っていました。
そのため茶会ではどの武将も近くに寄ろうとしなかったところ、石田三成は彼の隣に自分から座りました。
ところが濃茶の回し飲みがこの大谷のところに来た時、あってはならないことですが、茶碗の中に膿が落ちてしまいました。
しかし石田三成は慌てる大谷からその茶碗をつかみ取ると、膿の入った茶ごと全部飲み干したというのです。
これ以来、吉継は三成のために死ぬことこそ本望と言い、関ヶ原の戦いでは三成を逃がすために壮絶な最期を迎えたとのことです。

 私たちの教会では、聖餐の杯を回し飲みするということはしません。
しかし聖餐式が茶道に影響を与えたとすれば、次のことを改めて心に刻みつけたいものです。
この杯に注がれているのはまぎれもなくキリストの血潮であり、兄弟姉妹とともに、喜びも苦しみも飲み干す場にあずかっているのだ、ということを。
しかし一方で、同じように聖餐にあずかっても喜びが沸き起こるクリスチャンもいればそうでない者もいるという違いはどこにあるのでしょう。
次のことがらをおぼえるべきです。聖餐は私たちが当然のごとく参加できる権利ではありません。
だからこそ、バプテスマを受けていなければ、どんなに熱心な方でも聖餐にあずかることが赦されていないのです。
聖餐の本質、それは受けとる資格のない者に与えられる恵みです。
本来招かれるはずもない罪人を、ただキリストの十字架によって永遠の大茶会に招いてくださった神の恵みです。
それは決してあたりまえのことではありません。聖餐は恵み以外の何物でもないのです。

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posted by 近 at 10:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ