こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日、自民党の総裁選が行われ、安倍首相(現総裁)と石破茂氏の一騎打ちとなりました。
結果は、安倍さんが810の有権者数のうち7割に当たる553票を得ての、いわば圧倒的勝利でした。
しかしその810は、国会議員票405および党員・党友による地方票405で構成されており、
安倍さんは前者では8割にあたる329票を得たものの、後者では224対181という辛勝だったという報道でした。
参考 朝日新聞記事
「安倍首相が自民党総裁3選 石破氏は810票中254票」 安倍さんはともかく、石破氏の主張などもしばしば問題を感じることは多いのですが、
彼がかつての教会指導者のひとり、
金森通倫(※注)のひ孫にあたるプロテスタント信者であるのは有名な話です。
そして何かと失言の多い麻生太郎氏も
敬虔な(と知り合いの神父さんが言ってた)カトリック信者であるということも。
でもこの二人、大変仲が悪いようです。安倍さんよりも麻生さんのほうがずっと石破氏を嫌っているみたいです。
それが単に政策の違いでそうなのか、それとも人間的にそうなのか、はたまた教派的にそうなのか、わかりませんが、
二人が仲良くしてくれたら安倍さんも変わり、日本の政治も変わるかもというのは言い過ぎでしょうか。
そういえば、安倍さんの奥様、昭恵さんもクリスチャンである
森永太一郎氏のひ孫にあたると聞きました。
(※)棄教を宣言したり、再入信したり、また脱会したりと
まあいろいろあったようですが、戦前のキリスト教史を語る上で外せない人物です
でも
ここだけの話、牧師同士でも仲の悪い人たちっているんですよね。
そして講壇からどんなにりっぱな説教を語ることができても、信徒は牧師同士が愛し合えない姿に最もつまずきをおぼえるのでしょう。
伝道、伝道という前に、まず指導する立場にある者たちがお互いに愛し、敬い合う・・・・自戒としていきます。
週報は
こちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』16章21-28節
21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
1.
「私、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。」
映画は見たことがなくても、この前口上はどこかで聞いたことがあるという平成世代もいるのではないでしょうか。
教会に来なくても、イエス・キリストという名前は聞いたことがあるという日本人は多いと思います。
しかし、「姓は車、名は寅次郎」ではありませんが、「姓はキリスト、名はイエス」。
名字がキリスト、名前がイエス、生まれも育ちもアメリカかヨーロッパ。イエス・キリストをそのように考えている人もまた多いかもしれません。
クリスチャンは、イエス・キリストのキリストが、名字ではなくて救い主という意味であることを知っています。
しかし世の中には、うちの教祖こそ救い主だと主張するあまたの宗教で満ちております。
ではキリスト教もその海千山千の一つにすぎないのでしょうか。その答えが、今日の聖書箇所の冒頭にあります。
21節、「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」。
エルサレムに行かねばならない、多くの苦しみを受けねばならない、殺されねばならない、そして三日目によみがえらねばならない。
「ねばならない」はよみがえりだけにかかっているのではありません。
都に行くこと、苦しみを受けること、殺されること、よみがえること、すべてにかかる、「ねばならない」です。
しかし、エルサレムに行くことはいいとして、苦しみを受けなければならない、殺されなければならない、
その言葉のショックは、最後の「よみがえなければならない」ということをかき消すには十分すぎるものでした。
神の子が殺される。それは、ペテロが思わずいさめずにはいられなかったほどに、決してあり得ない、いや、あってはならない話だったのです。
「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」。
しかしその言葉に対するイエス様の怒りは、今まで聞いたこともないような激しいものでした。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」。
なぜイエス様はそれほどまでにペテロの言葉に憤ったのでしょうか。
その理由は、続くイエス様のことばが語っています。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
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