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2018.9.2「聖餐は闇を飲み尽くす」(マルコ14:17-31)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風21号および北海道地震の被災者の方に励ましが与えられるように祈ります。
同盟教団の災害連絡室からの情報では人的被害を受けた教会はないようですが、ライフラインが一日も早く復旧しますように。

 台風に関しては、関西地方のような直撃はありませんでしたが、豊栄でも強風が吹き荒れました。
築ウン十年の牧師館もガタガタ揺れて眠れない夜を過ごした翌朝、洗面所に立つと窓の向こう側から誰かが手を振っています
びっくりして目をやると、か細いクモの糸に繋がった枯れ葉が一枚、さかんに風に揺られて動いていました。
上下左右に激しく動いていので、誰かが外で手を振っているように見えたのですね。
びっくりしたと同時に、あの強風の中で、よく飛ばされなかったものだと感動しました。
芥川龍之介が「蜘蛛の糸」を書きたかった気持ちがよくわかります。肝心のクモはどこへ行ってしまったのでしょうか。
ともあれ、主のいなくなった枯れ葉は、その後も飛ばされることなく、今日も洗面所の外から元気に手を振っています。
外から写真を撮ってみたのですが、糸は細すぎて映りませんでした。
IMG_20180906_131113_1.jpg
というか、窓ぎわにこれでもかと並べられている洗剤やら化粧品やらのほうが気になります
自分のうちなのに。お恥ずかしい。空になっても捨てないで放置しているとこうなります。週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』14章17-31節 


1.
 茶道には様々な流派がありますが、まず薄茶から始めて、徐々に濃茶に進んでいくことはおおむね共通しているようです。
薄茶、濃茶とは文字通り薄いお茶と濃いお茶のことです。
原則、薄茶は一人ひとりに別の茶碗があてがわれ、濃茶は回し飲みをする流派が多いようです。
この回し飲みを作法として完成させた千利休は、一説では当時のカトリック教会の聖餐式で行われていた杯の回し飲みに触れたと言われます。そしてそこに込められている恵みの共有という教えからも影響を受けたのだ、と。

 こんなエピソードがあります。関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に敗れた石田三成の親友に、大谷吉継という武将がいました。
二人の出会いは、彼らがまだ若かりし頃に行われた、豊臣秀吉の大茶会だったそうです。
大谷吉継は有能な武将でしたが、あの旧約聖書に出てくるナアマンのように、うみやただれを生じる重い皮膚病を患っていました。
そのため茶会ではどの武将も近くに寄ろうとしなかったところ、石田三成は彼の隣に自分から座りました。
ところが濃茶の回し飲みがこの大谷のところに来た時、あってはならないことですが、茶碗の中に膿が落ちてしまいました。
しかし石田三成は慌てる大谷からその茶碗をつかみ取ると、膿の入った茶ごと全部飲み干したというのです。
これ以来、吉継は三成のために死ぬことこそ本望と言い、関ヶ原の戦いでは三成を逃がすために壮絶な最期を迎えたとのことです。

 私たちの教会では、聖餐の杯を回し飲みするということはしません。
しかし聖餐式が茶道に影響を与えたとすれば、次のことを改めて心に刻みつけたいものです。
この杯に注がれているのはまぎれもなくキリストの血潮であり、兄弟姉妹とともに、喜びも苦しみも飲み干す場にあずかっているのだ、ということを。
しかし一方で、同じように聖餐にあずかっても喜びが沸き起こるクリスチャンもいればそうでない者もいるという違いはどこにあるのでしょう。
次のことがらをおぼえるべきです。聖餐は私たちが当然のごとく参加できる権利ではありません。
だからこそ、バプテスマを受けていなければ、どんなに熱心な方でも聖餐にあずかることが赦されていないのです。
聖餐の本質、それは受けとる資格のない者に与えられる恵みです。
本来招かれるはずもない罪人を、ただキリストの十字架によって永遠の大茶会に招いてくださった神の恵みです。
それは決してあたりまえのことではありません。聖餐は恵み以外の何物でもないのです。

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posted by 近 at 10:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ