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2018.10.21「いのちの便(びん)に乗り遅れるな」(第一ヨハネ1:5-10)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。教会バザーも無事に終了しました。お祈りをありがとうございました。
 33年前、14歳の時に骨肉腫を発症して以来、私は半年に一度、大学病院で定期診断を受けており、今日はその日でした。
ちょうど一年前の説教で、最初の手術以来30年以上にわたって私の主治医をしてくださっているA先生のことを話しました。
今日、整形外科の診察室に入るとA先生はおられず、代わりに弟子?にあたるB先生が見てくださいました。
三十数年来、腫瘍外来一筋で豊富な臨床経験を持つA先生でしょうから、学会発表などで忙しいのかもしれません。
A先生よりずっと気さくな雰囲気を持つB先生に何気なく「A先生っておいくつになられたんでしょうかねえ」と聞きました。
すると「62歳ですが、・・・じつは先日、亡くなられました」という答えが返ってきました。長らく持病を抱えておられたのだそうです。
そしてB先生が続いてこう言われました。
「私は近さんとほぼ初対面ですが、じつは近さんはうちの整形医のあいだでは有名人なんですよ。
近さんは、この大学病院で扱った骨肉腫の患者の中で、治療後も長く生きている初めての方なんです。
(=当時、若年性骨肉腫の生存率は極めて低く、発見された時には手遅れということも普通だった)
だからA先生は、私たちによく『あの近さんは、自分たちの治療路線が間違っていないという希望なんだ』とよく言っていました。」
 私にとってA先生は30年付き合っても無口でとっつきにくい先生でした。
しかしその先生が、私のことをそのように話していたということを聞き、熱いものがこみ上げてきました。
一年前の診察の時に、遅ればせながらひと言ありがとうと言えたことは、今考えてみると、なんと幸いなことだったでしょうか。
 今までの私は、救われた後の人生は「永遠のいのちが保証された後のおまけ」感があり、どちらかというと「死ぬこともキリスト」派でした。
しかし私が一日でも長く生きることで希望を持っていた人がいたと知った今日、「生きることはキリスト」もかみしめています。
 A先生、安らかにお眠りください。先生のご遺族にイエス・キリストの豊かな慰めがありますように。
私も、一日も長く生きていきます。みこころのゆるす限り。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』1章5-10節 
 ▼今回はメッセージ録画はありません。ご容赦ください。

1.
 昨年のことですが、会議が茨城県であるということで飛行機で新潟と成田を往復しました。
新潟と成田のあいだは、なんと一日一便、夕方のものしかありません。
成田に着いたら一泊。翌日の会議が終わるのは夕方なので、また一泊。そして夕方になるのを待って、成田から新潟へ。
たった3時間の会議に二泊三日もかけるというのはどうなのかというのもあったのですが、
早割という飛行機の安い運賃が魅力だったので、そのようなプランになったわけです。
 事件は、帰りの成田空港で起こりました。飛行機が出るのが午後6時。そこで午後4時には成田空港に到着。出発まで二時間あります。
せっかくだから成田空港のレストランで早めの夕食をとりました。ロビーに無料のマッサージ椅子がありましたので、10分くらい利用しました。
それでもまだ一時間はあります。そろそろと思い、出発口に向かいました。
しかし、私はある大変なことを忘れていたのです。いや、むしろ知らなかったといったほうがよいでしょう。
新潟空港の国内線利用者は年間80万人。それに対して成田空港は800万人。
利用者の数が10倍違うというのは、かかる時間もまったく違うということです。
受付があるエスカレーターを登り切ったとき、わが目を疑いました。
新潟では決してあり得ない、およそ100メートルにわたる行列がそこにはありました。北海道、大阪、沖縄、その他もろもろ。
その時間帯の国内路線の乗客たちが二列に並び、最後尾というプラカードをもった空港職員さえ立っています。
 すでに出発時刻まで40分を切っていました。新潟空港であれば余りすぎるくらいですが、成田空港では短かすぎます。
30分、15分、しかし残り時間が5分になっても、目の前にはまだ数十人が並んでいます。
終わった。思わず目を閉じるとまるで走馬灯のように思い出が次から次へと浮かんできました。
ああ、なぜマッサージ椅子に10分も使ってしまったのか。なぜ立ち食いそばでなくて定食屋に入ってしまったのか。
なぜ新幹線ではなく飛行機にしてしまったのか。
しかしそれを選んだのはすべて自分。もう決して取り返すことのできない、自分の選択を憎みました。
 しかしそのとき、遠くから若い女性の声が聞こえました。「新潟」と「近様」という言葉が聞こえます。
地獄で仏、と牧師が言ってはいけませんが、はい、はい、はい!と手を挙げて、その声がするほうへと近づきました。
その後はあまり記憶がありませんが、ひたすら周りの人々に頭を下げながら、行列をすっ飛ばして、予約していた座席に座ることができました。
しかしこんなことはたまたまですので、決して真似をしないでください。

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posted by 近 at 15:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.10.14「神のやり方に従う」(ヨシュア6:1-21)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
来週日曜は、毎年恒例の教会バザーの日。普段はネコの子一匹寄りつかない教会もこの日だけは近所の人で大わらわ(オイ)
今回のチラシも貧乏教会の救世主、ラクスルさんにお願いしましたが、オンラインデザインなるものを初利用。
すでに用意されているテンプレートをちょこちょこ直していくというものです。
面倒くさいことはイヤだけどWORDで作ったような素人っぽいチラシはもっとイヤというどこぞの牧師先生には最適です。
修正前(左)と修正後(中央)を並べるとこんな感じになります。結局、リスと背景以外はほとんど変えていますが。
OnLineDesign-preview-001.jpg 2018bazaar1.jpg 2018bazaar2.jpg
また今回のチラシの裏面(右)は、ショートメッセージではなく、私(牧師)の救いの証しを入れました。
牧師プロフィールにある出来事を、少し詳しく書き直しました。
県内の方は、よろしければおいでください。県外の方は、来会者が礼拝に繋がりますようにお祈りください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨシュア記』6章1-21節 


1.
 「下手の考え休むに似たり」ということわざがあります。
広辞苑によれば、「よい知恵もないのにいくら考えても、 時間がたつばかりで何の効果もない」という意味です。
私たちにとって、人生に起こるほとんどの問題は未経験なものばかりで、このことわざを本当に痛感することしきりです。
 ところでクリスチャンは、こんなことを経験したことはないでしょうか。
祈祷会で、役員会で、家庭集会で、一つの課題を分かちあい、何人かで心を合わせて祈る。
そのとき、その問題を神にゆだねて祈った。確かにそのように祈り、平安を得た。
しかしお祈りが終わって世間話のような時間のなかで、ふたたびあーだこーだと素人の考えでそれを繰り返してしまうということが。
一度神に祈ったものを再び人の考えの上で蒸し返し、祈りの時間と経験をだいなしにしてしまうということはないでしょうか。
 エリコの戦いは、そんな私たちに対して教えてくれます。
エリコの門を打ち破るという、極めて現実的な問題に対して、イスラエルは神のやり方に従うことで勝利しました。
神のやり方とは、ここでは六日間にわたって神の箱と祭司たちが町を回る、ということです。
そして私たちにとっては、自分の考えややり方であーだこーだではなく、神の御手に完全にゆだねるということです。
私たちは、しょっちゅう神にゆだねます。しかし完全にゆだねることはめったにありません。
一度ゆだねたはずのことを再び自分の手に取り返し、あーだこーだと蒸し返します。
そのような私たちのことを、ヤコブは手紙の中で「二心の人たち」と呼びました。
神にゆだねると言いながら、自分でナントカしようとすることも一応試みる。二心の私たちは、その繰り返しです。
しかし、ゆだねるということは、完全に自分の手から離すこと。それがエリコの戦いです。
みことば、信仰、祈り、この世の人が聞いたらぷっと吹き出されそうなものだとしても、私たちはただそこにだけ従います。
神の手段に徹する者にのみ、門を破るどころか、城壁そのものが崩れ去るという圧倒的勝利が与えられます。
あなたはいかがでしょうか。

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posted by 近 at 09:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.10.7「励まし、励まされ」(ヨシュア1:1-18)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日のメッセージの中で、新聖歌486「雄々しくあれSunday School March)」について述べています。
作詞は中田羽後先生で1957年、作曲は千葉昌邦先生で1941年、編曲がやはり中田先生で1958年です。
千葉先生が1941年に作曲されたメロディーに、中田先生が自分の詞とともに編曲し世に出したということでしょうか。
「千葉昌邦」を検索すると、日本基督教団で補教師の准允を受けた後、新発田教会(隣町!)などで働かれたことがわかります。
准允を受けたのが1944年ですので、ちょうど神学校入学直前にこの曲を作ったことになるのでしょうか。
1941年といえば、太平洋戦争の始まった年。その時期に神学校に行くというのは、いったいどれだけの覚悟がいったでしょう。
もしかしたら自分自身に対するエール(応援歌)として、このメロディが思い浮かんだのかもしれません。
 とはいえ「雄々しくあれ、強くあれ、少年たちよ」はこれぞ昭和!という感じの曲で、CSでもあまり歌われなくなりました。
その継承曲とも言えるのが、山本陽一郎先生の「ぼくのたからもの」ではないかと個人的に思っています。
「ぼくのたからもの」がサビでは「わたしのたからもの」となり、男の子女の子どちらでも歌える曲になっています。

なんでも、松原湖バイブルキャンプから全国の教会に広がっていったのだそうです。SNSもなかったのにすごいですね。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨシュア記』1章1-18節 


1.
 今日の箇所をモチーフとしている賛美歌、新聖歌486番は「雄々しくあれ、強くあれ、少年たちよ」という言葉から始まります。
この曲のタイトルは「Sunday School March」、直訳すると、日曜学校行進曲という、たいへん勇ましい言葉になります。
それもそのはず、作曲が1941年、ちょうど太平洋戦争が始まった年です。そしてあれ?と思いました。
てっきり曲調からいって、19世紀あたりにアメリカで作られたものかと思っていたら、ちょうど戦争が始まるころの日本で作られた歌なのですね。
作曲者は千葉昌邦となっております。この方について調べてみましたら、本職は牧師であり、2007年に93歳で亡くなられています。
つまり逆算すると1914年生まれということになりますので、1941年の作曲当時はまだ27歳ということになります。
この方が牧師になられたのは1944年ですので、戦前の神学校の仕組みはわかりませんが、神学生の頃に作られた歌となるかもしれません。
そしてこの千葉先生は、日本基督教団の新発田教会、そして津川伝道所で働かれていたことがあったそうです。
そう考えてみると、今まで歌っていた讃美歌が、一気に親しみが湧いてくるということはないでしょうか。

 「強くあれ、雄々しくあれ」。いまどき「あれ」などという言葉はめったに使いませんので、子どもたちには通じないこともあるかもしれません。
ヨシュアに対する神のことばは、励ましというよりも、命令です。あなたは強くあらなければならない。雄々しくあらなければならない。
言葉使いも今日の子どもたちには通じませんが、ましてや「命令」というのは、子どもたちにはもっと遠く感じるものでしょう。
私にとって大先輩にあたる、ある年配の牧師が、最近教会に来るようになった青年からこんなことを言われて驚いたと言っていました。
「先生、説教の中で、『○○しなければならない』という言葉は使わないでいただけませんか。
命令されているようだし、信仰が自発的なものよりも義務的のように感じられて、なんかいやな気分になるんです。」
 みなさんも、そんな感覚になることはあるでしょうか。
よく知られた都々逸の中に、「噺家殺すに刃物はいらぬ、あくび一つもあればいい」というのがありますが、牧師殺すに刃物はいらぬ。
先生のメッセージは律法的です」と言えば、それだけで牧師は次にどんな説教をすればよいか迷い、苦しみます。
しかし聖書の中には、神さまが「〜しなければならない」と語っておられる言葉が多く見いだされます。
四の五の言わずに俺に従え。神さまはそう言われるのでしょうか。
いいえ、神さまが「〜しなければならない」と言われるとき、もっぱら義務として行うことではなく、期待を表しています。
たとえそれが「ねばならない」という命令のことばではあっても、神さまはその背後に、愛と恵み、そして期待をいつもたなびかせておられます。

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posted by 近 at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.9.30「私たちはみな罪人(We are all sinners)」(ロマ3:9-18、23-24)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の月〜木まで、同盟教団の伝道懇談会及び研修会のために松原湖へ行ってまいりました。更新が遅れてすみません。
補教師になりたての頃、私はこれらの集会に参加するのが重荷でした。知らない人(=先輩牧師)が多かったからです。
しかし教師になって十数年経つと、だんだんとお互いにお名前や人柄を知ることができて、今はとても楽しいです。
ただ「自分が知らない人が減ってきている」というのは「新しく入ってくる先生が少ない」ということでもあります。献身者が少ないのです。
それでも同盟教団は比較的献身者がいると言われます。毎年10名前後、補教師として准允(じゅんいん)を受けます。
しかしそのうちの四割は韓国人の方、そして残りの六割のうちの半分は知った名字、つまり牧師子弟です。
それが悪いということではありませんが、かつてのように未信者家庭から救われ、牧師になるために勘当も覚悟、というのはもう死語でしょうか。
牧師の生き様と死に様が、教会から献身者を生み出します。自分自身がその模範たり得ていないことを悔い改めて歩んでいきます。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ローマ人への手紙』3章9-18、23-24節 


1.
 「十年後には、町から本屋が消える」。
まさかと思われるかもしれませんが、それほど、いわゆる町の本屋さんの閉店が増えているそうです。
その理由はインターネットで本が買えてしまうようになったからです。買うだけではなく、ネットを通して立ち読みやレンタルもできてしまいます。
これを便利と考えるか、それとも嘆かわしいと考えるかは人によって違うでしょう。しかしよく考えてみれば、自然な流れと言うこともできます。
知識の伝達方法は、口伝えから手書きの本へ、手書きから印刷へ、印刷からインターネットへ、と数千年かけて変わってきたからです。
しかしどんなに時代が変わっても、決して内容が変わらず、売れ行きも下がらない、むしろ上がっている本があります。
何でしょうか。言うまでもありません。この「聖書」です。そして日本では、この「聖書」に関して、世界でも珍しい現象が起こっています。
日本のクリスチャンは、全国民1億2千万人のわずか0.6%程度であり、教会に定期的に通う人もわずかであると言われます。
ところが、国民の中でどれだけの人が聖書について知っているかということに関しては、じつは日本は世界一ではないかと言う人もいます。
いや、アメリカか韓国のようなキリスト教国のほうが高いだろう。だれもがそう思うかもしれません。
しかし、都会は言うまでもなく、どんな田舎に行っても、民家や自動販売機のそばに聖書の言葉を書いた札が貼ってあります。
「豚に真珠」「目からうろこが落ちる」「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」など、聖書の言葉がことわざのように知られています。
インターネット、実店舗かかわらず、ベストセラーのデータが示すのは、じつに多くの人々が聖書を手に取って読んでいるということです。
残念ながら救いの書としてではなくて、知識と教養を深める書物としてですが、それでもこれほど聖書を知っている国民は他にありません。
しかしある青年がこう言っていたそうです。
「聖書の話を聞いてみたいのですが、教会に来ると無理矢理クリスチャンにされそうで、怖くて入れません。
それでも一回だけ礼拝に行ってみて牧師の話を聞いたことがあるのですが、『罪』という言葉が連発されて、もう二度と来るかと思いました。」

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posted by 近 at 18:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ