こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
来週日曜は、毎年恒例の教会バザーの日。普段はネコの子一匹寄りつかない教会もこの日だけは近所の人で大わらわ(オイ)
今回のチラシも貧乏教会の救世主、
ラクスルさんにお願いしましたが、オンラインデザインなるものを初利用。
すでに用意されているテンプレートをちょこちょこ直していくというものです。
面倒くさいことはイヤだけどWORDで作ったような
素人っぽいチラシはもっとイヤというどこぞの牧師先生には最適です。
修正前(左)と修正後(中央)を並べるとこんな感じになります。結局、リスと背景以外はほとんど変えていますが。

また今回のチラシの裏面(右)は、ショートメッセージではなく、私(牧師)の救いの証しを入れました。
牧師プロフィールにある出来事を、少し詳しく書き直しました。
県内の方は、よろしければおいでください。県外の方は、来会者が礼拝に繋がりますようにお祈りください。週報は
こちらです。
聖書箇所 『ヨシュア記』6章1-21節
1 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。 2 【主】はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。 3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。 4 七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。 5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」 6 そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、【主】の箱の前を行かなければならない。」 7 ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、【主】の箱の前を進みなさい。」
8 ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って【主】の前を進み、角笛を吹き鳴らした。【主】の契約の箱は、そのうしろを進んだ。 9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。 10 ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」 11 こうして、彼は【主】の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。
12 翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは【主】の箱をかついだ。 13 七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、【主】の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは【主】の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。 14 彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。 15 七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。 16 その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。【主】がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。 17 この町と町の中のすべてのものを、【主】のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。 18 ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。 19 ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、【主】のために聖別されたものだから、【主】の宝物倉に持ち込まなければならない。」 20 そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。 21 彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。
1.
「下手の考え休むに似たり」ということわざがあります。
広辞苑によれば、「よい知恵もないのにいくら考えても、 時間がたつばかりで何の効果もない」という意味です。
私たちにとって、人生に起こるほとんどの問題は未経験なものばかりで、このことわざを本当に痛感することしきりです。
ところでクリスチャンは、こんなことを経験したことはないでしょうか。
祈祷会で、役員会で、家庭集会で、一つの課題を分かちあい、何人かで心を合わせて祈る。
そのとき、その問題を神にゆだねて祈った。確かにそのように祈り、平安を得た。
しかしお祈りが終わって世間話のような時間のなかで、ふたたびあーだこーだと素人の考えでそれを繰り返してしまうということが。
一度神に祈ったものを再び人の考えの上で蒸し返し、祈りの時間と経験をだいなしにしてしまうということはないでしょうか。
エリコの戦いは、そんな私たちに対して教えてくれます。
エリコの門を打ち破るという、極めて現実的な問題に対して、イスラエルは神のやり方に従うことで勝利しました。
神のやり方とは、ここでは六日間にわたって神の箱と祭司たちが町を回る、ということです。
そして私たちにとっては、自分の考えややり方であーだこーだではなく、神の御手に完全にゆだねるということです。
私たちは、しょっちゅう神にゆだねます。しかし完全にゆだねることはめったにありません。
一度ゆだねたはずのことを再び自分の手に取り返し、あーだこーだと蒸し返します。
そのような私たちのことを、ヤコブは手紙の中で「二心の人たち」と呼びました。
神にゆだねると言いながら、自分でナントカしようとすることも一応試みる。二心の私たちは、その繰り返しです。
しかし、ゆだねるということは、完全に自分の手から離すこと。それがエリコの戦いです。
みことば、信仰、祈り、この世の人が聞いたらぷっと吹き出されそうなものだとしても、私たちはただそこにだけ従います。
神の手段に徹する者にのみ、門を破るどころか、城壁そのものが崩れ去るという圧倒的勝利が与えられます。
あなたはいかがでしょうか。
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