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2018.11.18「故郷へ帰ろう」(ルツ1:1-22)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、当ブログについて「説教はともかく前フリがくだらない」というお叱りを身内から受けました。
昔はいきなり「週報はこちらです」だったんですけどね。
それだけだと味気ないかなあと思って、前フリにいろいろ書いてるんですが、そうか、そうですか。バキっ←何かを蹴る音
 小学生の頃に学研の『学習科学』か何かで、秋田の伝統行事「なまはげ」の写真を見たことがありました。
出刃包丁を握りしめて、どこかの茶の間に陣取るなまはげ二人組。隣で私と同じくらいの年のイガグリ坊主が泣いています。
それは、今の私を形成する原風景の一つとなりました。これは、はたして自分の生きている時代に繋がっているものなのか、と。
写真の中に、古くさいテレビはあるけれど(おそらくナショナル)、番組は映っていないので昭和30年代かもしれない。
日めくりカレンダーはあるけれど、いつの年かは小さくて見えない。
男の子(イガグリくん)は映っているが、どてら姿で時代不明。もしかしたらもういい大人になっているかもしれない。
鬼(なまはげ)なんて嘘だと信じたい。自分の時代と繋がる何かがあれば、嘘だと安心できる。
しかしこれが現代のものだと特定できるものが、何一つ写真の中にはない。それが不安をかき立てる。
 大人にとって、「時代から切り離されたもの」はノスタルジックで良いものです。しかし子どもにとっては、恐怖の対象でしかありません。
教会に対して、日本人が抱いている敷居の高さというのは、あの時の感覚に繋がっているのではないでしょうか。
自分が今まで触れたことのないもの、教会、牧師、宗教、それは、あの時の私のように怖さを感じるものかもしれません。
というわけで、ちょっとくだらないと言われそうな文章も入れて、敷居を低くしてるんですよ
今ではなまはげは大好きなもののひとつです。
わが同盟教団の悲願、秋田開拓が実現した折にはぜひ「秋田なまはげキリスト教会」と名づけてほしいと願っています。
なまはげ同様、教会も実際には決してこわいところではないので、安心して来てください。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルツ記』1章1-22節 


1.
 新約聖書の最初の本、『マタイの福音書』には、のっけからイエス・キリストの系図が載っており、モアブ人「ルツ」という名前が出てきます。
イスラエルに敵対し、偶像と不品行の民であったモアブ人の中から、いかにしてルツのような女性が生まれたのか。
そしてルツがいかにしてイスラエル人に加えられ、ダビデ王家、ひいてはイエス・キリストへと繋がる血筋となったのか。
それが描かれているのが『ルツ記』です。しかしその導入は、罪に陥った家族の姿から始まります。
 ユダのベツレヘムで大ききんが起こりました。そこでエリメレクという人が、妻のナオミ、そして二人の息子を連れて、モアブの地に滞在しました。
「滞在」という、ずいぶんやわらかな言葉を使っていますが、実際のところは逃げ出した、ということです。
イスラエルにおいては、土地というものは神の祝福そのものであり、簡単に売り買いすることもできないものでした。
ききんが起きたから、土地を離れて外国へ移るというエリメレクの行い、それは相続地を与えられた神に対する、れっきとした反抗なのです。

 問題が起きたとき、逃げるということはひとつの手段です。しかし、逃げる方向を間違えてはなりません。
ウサギがキツネに、シカがライオンに襲われるとき、彼らは敵に対抗する牙や爪がありませんから、逃げ出すことしかできません。
しかし闇雲に逃げることはありません。自分の巣、あるいは自分の属する群のほうへと逃げていきます。
私たちも、時と場合によっては逃げてもよいのです。いや、逃げるしか道がないときさえあります。
しかし、私たちはそのときに逃げる方向を間違えてはなりません。神さまのほうに向かって逃げなければなりません。
エリメレクは逆でした。たとえどんなききんが起きても、そこが神の約束の場所であれば、何も恐れる必要はありませんでした。
しかし彼はむしろ神の約束の地を、とりあえずとは言え、見捨て、モアブに逃げてしまいました。
モアブに逃げたからこそルツが与えられたのではないか、というのはあまりにも都合の良すぎる解釈でしょう。
神が与えられた土地から逃げ出したことそのものが肯定されているわけではないのです。

icatch.jpgなまはげ太鼓団体「男鹿っ鼓」様のHPより。ほとんどA○Bのノリですね

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posted by 近 at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.11.11「勝った、勝った!」(士師7:1-25)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
牧師をある程度長くやっていると、同じ聖書箇所からメッセージを語るということが何度かございます。
他の教会であれば何も問題ありませんが、自分の教会だとドキドキです。
信徒は遠慮して言いませんが、「そこ、前も語ったよね」と奥様から指摘されたことのある牧師先生方もさぞ多いことでしょう。
内容が同じだと「手抜き」と言われるし、かといって違ったりすると「先生、前はこう言ってたのに・・・・」と不信感を生みかねません。
 今回の説教は、約二年前にも同じ聖書箇所から(『成長』のせいです)語ったことがありました。
しかし我ながらなんと大胆な。内容を翻して「今はそうは思っていません」と説教の中で言い切ってしまいました。
これを潔いと呼ぶか、変節漢と呼ぶかは人それぞれ。しかし説教とは常に成長し続けるもの。
狙ったわけではありませんが、新旧どちらのメッセージでも、なぜか戦国大名・北条氏康にまつわるエピソードを紹介しています。
二年前のメッセージと、今回のメッセージ。どこらへんが違うのか、ぜひ自らの目で、耳で、比べて、吟味してください。
2018_11_15-21-28-32-230.jpgコピーライトマークコーエーテクモゲームス
30年以上の歴史を持つ歴史ゲーム『信長の野望』での北条氏康の顔グラフィックの変遷。
最近のものは「顔に大きな刀傷があった」という伝承が反映されています。
説教というものも、このように常に新しいものを取り入れて変わり続けていくものだと思っています。
週報はこちらです。

聖書箇所 『士師記』7章1-25節 


序.
 神学生として千葉で学んでいた頃、人に頼まれて、東京のある教会に届け物をすることがありました。
その教会は、あえて名前を伏せますが、大変に有名な教会です。
日本の福音派の指導者として活躍された先生方によって牧会されて、その教会で訓練を受けられる神学生は幸せ、みたいな感じでした。
しかし教会は有名でも、そこへの行き方がわかりません。そこで友人である、その幸せ者の奉仕神学生に行き方を尋ねました。
そしたら、「渋谷駅行きのバスに乗って、ナントカとかいうバス停で降りて、環七通りをそのまま進んでいけばそのうち着くよ」
なんとも大雑把な説明と、それでも簡単な地図を書いてくれました。
そこで言われたとおり、ナントカというバス停で降りて、てくてく歩いて行くと、右手にりゅーとぴあみたいに大きい、荘厳な教会が見えてきました。
おお、あれが○○教会か。さすが日本で一番有名な教会だけはある。ところがどうも地図とその場所は違っています。
もう少し歩いてたら、狭い路地があって、その前に案内看板がありました。それに従って歩いてくと、やがて本物の教会に着きました。
しかし確かに母教会より大きい教会ではあるのですが、先ほどりゅーとぴあみたいな教会を見ているので、どうしても見劣りがします。
チャイムを押して、伝道師に届け物をしたあと、さきほどの建物について聞いてみました。立正佼成会の東京大聖堂だそうです。
「いやあ、よく間違われるんですよ」と伝道師は言っていましたが、建物の大きさからいえば、比べものにならないなあと思いました。

1.
 もし、宗教の建物の大きさ、収容人数などが、その教えの正しさを図るモノサシだとしたら、日本の教会はまったくランク外でしょう。
あの立正佼成会の大聖堂と、そのキリスト教会がもし並んで立っていたら、人々はまず大聖堂をもつあちら側に軍配をあげるに違いありません。
じつは私たちの中にも、そのような視点というのがあります。
正しい教えならば、それだけ人が集まってくるはずではないか。人が少ないのは、何かが足りないからではないのか、と。
しかし聖書は、神さまが戦いのために必要としているのは数の多さではなく、勝利のために必要なのは武器の強さでもないと教えています。
 いま、イスラエルとミデヤン人の戦いが始まろうとしていました。
聖書の記録によれば、ミデヤン軍の数は少なくとも13万人。それに対して、ギデオンの下に集まった兵士たちは全部かき集めても3万人あまり。
すでに4倍の開きがあります。しかし神は、それでさえ「多すぎる」と言われるのです。そして二回のテストを通して、300人にしぼりました。
 私たち人間は、目に見えるものに頼りやすいものです。
あるものが信頼できるかどうかを「これだけの人に支持されているから」という基準で判断することがあります。
いまはネットで商品を買う人が増えていますが、デザインや価格よりも、どれだけレビュー、よい感想を集めているのかを参考にするそうです。
しかし人が見るように、神は見ません。神の戦いに必要なのは数ではありません。武器の質でもありません。ただ信仰です。
人が集まっているからそれは正しい、ということではありません。聖書、神のことばを通して、私たちは何を信じ、何を選び取るかを学ぶのです。
人は間違えます。大勢の人が集まると、思考が止まり、吟味する暇もないままに突き進んでしまうことさえも起こるのです。
しかしどんなに数が少なくとも、その中心に神のことばがあるならば、私たちは決して恐れることはありません。

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posted by 近 at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.11.4「反抗期ギデオン」(士師6:11-24)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先月あたりから、再びCS成長センターの『成長』の年間カリキュラムに合わせて、礼拝説教をしております。
『成長』とは直接関係ありませんが、このブログの読者に紹介したいサイトがあります。
banner_kohitsuji.gif 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団教会教育部
凄まじい量の、CS教材の宝庫。
インターネットという名の大海で、ついにひと繋ぎの財宝が隠された小島にたどり着いた、海賊王の気分です。ワンピース!
しかも「教会の働きのために自由にお使いください」という気前のよさ。い○ち○こ○ば社にも見習ってほしいものです。
 わが同盟教団も、過去60年分の教団機関紙をPDF化していますが、現在は教師専用ページからしかアクセスできません。
所属教会には、価格×教会員数の金額を送金することが建前になっているので、ただでは見せられん、ということでしょうか。
バックナンバーくらい他教団の方でも自由に見られるようにしたらいいのに。出版局の方が見ていたら、ご検討ください。
 なお『こひつじ』では運営のための献金も募集しています。私もあとでやっておきます。(←適当)
週報はこちらです。

聖書箇所 『士師記』6章11-24節 


1.
 私は説教のタイトルをつけるのにずいぶんと悩む口ですが、今回はすぐに決まりました。「反抗期ギデオン」。
主の使いが何を語りかけても、ギデオンはことごとく逆らう、まるで反抗期の少年のようだからです。
御使いは開口一番、こう呼びかけました。「勇士よ、主があなたといっしょにおられる」。
ところが彼はこう答えます。「もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか」。
もう少し新潟っぽく訳すと「なんでこんげなん」となるでしょう。万事この調子です。
「主があなたを遣わすのだ」と言えば、「俺みたいなのが、そんなことできるわけねえねっか」。
そして最後には「おめさん、本物だろうな。神さまだったら、しるし見せれや」。

 ただ不思議なのは、神さまが、こんな反抗青年であるギデオンを叱ることもなく、いつまでも、どこまでも譲歩されているということです。
人一倍臆病なくせに、口だけは達者なギデオンになぜ神はここまで執着するのか。
当時のイスラエルは、そこまで人材不足であったのか。
いや、むしろ、私たちがイエス・キリストによって神さまに選ばれたということが、どれだけの恵みであるのか、ということを改めてかみしめます。
ギデオンがどれだけ臆病であろうが、どれだけ自信なさげであろうが、どれだけ近視眼的な人間であろうが、まったく神さまは動じません。
彼がどんな人間性を持っていようが関係ない。
どんな能力があるかないかということも関係ない。
ましてやマナセ部族の中でどのくらいの家柄なのか、本家か分家かという一切関係がない。
私たちもそうです。私たちが神を愛したからではなく、神が私たちを愛したがゆえに、私たちは選ばれました。
私たちがいのちをかけて努力したからではなく、イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったからこそ救われました。
ただ永遠に定められていた神のご計画のゆえに、ギデオン、そして私たちは選ばれたのです。

 だから私たちは、自分の能力や実績で、神との親子関係を疑う必要はないし、決してしてはなりません。
日々の信仰生活の中で、自分自身に失望してしまうときにも、神は私たちに失望していないことを心に刻みましょう。
神は私たちができないことを命じません。
ただ信仰をもって決断さえすれば、後は神がすべてを支え、導いてくださるのです。
神はここでも、ギデオンにめいっぱいあわれみを示されるのですね。
見えるものしか信じられないギデオンは、そんな生き方にふさわしく、かたちから入ります。
贈り物をしますから、しるしを見せてください。
こんな要求に対して、神はそれを叱ることも否定することもなく、「あなたが戻ってくるまで待つ」と言われるのです。

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posted by 近 at 16:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ

2018.10.28「罪人を招くために」(マルコ2:13-17)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、約4年ぶりに新発田キリスト教会の田中敬子伝道師が当教会で説教をしてくださいました。
なお、当教会での田中先生の過去のメッセージは以下で見ることができます。説教者として成長の跡をたどっていくのもまた一興。
2012.7.15「働く信仰 〜神の“みわざ”が私の内に!〜」田中敬子神学生
2012.10.28「幼稚な教えに惑わされず…」田中敬子神学生
2014.8.31「あなたはどう応えますか?」田中敬子姉
かつての奉仕神学生が隣町の教会で伝道師として活躍しておられるのは嬉しい限りです。週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』2章13-17節 



posted by 近 at 09:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ