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2018.11.11「勝った、勝った!」(士師7:1-25)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
牧師をある程度長くやっていると、同じ聖書箇所からメッセージを語るということが何度かございます。
他の教会であれば何も問題ありませんが、自分の教会だとドキドキです。
信徒は遠慮して言いませんが、「そこ、前も語ったよね」と奥様から指摘されたことのある牧師先生方もさぞ多いことでしょう。
内容が同じだと「手抜き」と言われるし、かといって違ったりすると「先生、前はこう言ってたのに・・・・」と不信感を生みかねません。
 今回の説教は、約二年前にも同じ聖書箇所から(『成長』のせいです)語ったことがありました。
しかし我ながらなんと大胆な。内容を翻して「今はそうは思っていません」と説教の中で言い切ってしまいました。
これを潔いと呼ぶか、変節漢と呼ぶかは人それぞれ。しかし説教とは常に成長し続けるもの。
狙ったわけではありませんが、新旧どちらのメッセージでも、なぜか戦国大名・北条氏康にまつわるエピソードを紹介しています。
二年前のメッセージと、今回のメッセージ。どこらへんが違うのか、ぜひ自らの目で、耳で、比べて、吟味してください。
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30年以上の歴史を持つ歴史ゲーム『信長の野望』での北条氏康の顔グラフィックの変遷。
最近のものは「顔に大きな刀傷があった」という伝承が反映されています。
説教というものも、このように常に新しいものを取り入れて変わり続けていくものだと思っています。
週報はこちらです。

聖書箇所 『士師記』7章1-25節 


序.
 神学生として千葉で学んでいた頃、人に頼まれて、東京のある教会に届け物をすることがありました。
その教会は、あえて名前を伏せますが、大変に有名な教会です。
日本の福音派の指導者として活躍された先生方によって牧会されて、その教会で訓練を受けられる神学生は幸せ、みたいな感じでした。
しかし教会は有名でも、そこへの行き方がわかりません。そこで友人である、その幸せ者の奉仕神学生に行き方を尋ねました。
そしたら、「渋谷駅行きのバスに乗って、ナントカとかいうバス停で降りて、環七通りをそのまま進んでいけばそのうち着くよ」
なんとも大雑把な説明と、それでも簡単な地図を書いてくれました。
そこで言われたとおり、ナントカというバス停で降りて、てくてく歩いて行くと、右手にりゅーとぴあみたいに大きい、荘厳な教会が見えてきました。
おお、あれが○○教会か。さすが日本で一番有名な教会だけはある。ところがどうも地図とその場所は違っています。
もう少し歩いてたら、狭い路地があって、その前に案内看板がありました。それに従って歩いてくと、やがて本物の教会に着きました。
しかし確かに母教会より大きい教会ではあるのですが、先ほどりゅーとぴあみたいな教会を見ているので、どうしても見劣りがします。
チャイムを押して、伝道師に届け物をしたあと、さきほどの建物について聞いてみました。立正佼成会の東京大聖堂だそうです。
「いやあ、よく間違われるんですよ」と伝道師は言っていましたが、建物の大きさからいえば、比べものにならないなあと思いました。

1.
 もし、宗教の建物の大きさ、収容人数などが、その教えの正しさを図るモノサシだとしたら、日本の教会はまったくランク外でしょう。
あの立正佼成会の大聖堂と、そのキリスト教会がもし並んで立っていたら、人々はまず大聖堂をもつあちら側に軍配をあげるに違いありません。
じつは私たちの中にも、そのような視点というのがあります。
正しい教えならば、それだけ人が集まってくるはずではないか。人が少ないのは、何かが足りないからではないのか、と。
しかし聖書は、神さまが戦いのために必要としているのは数の多さではなく、勝利のために必要なのは武器の強さでもないと教えています。
 いま、イスラエルとミデヤン人の戦いが始まろうとしていました。
聖書の記録によれば、ミデヤン軍の数は少なくとも13万人。それに対して、ギデオンの下に集まった兵士たちは全部かき集めても3万人あまり。
すでに4倍の開きがあります。しかし神は、それでさえ「多すぎる」と言われるのです。そして二回のテストを通して、300人にしぼりました。
 私たち人間は、目に見えるものに頼りやすいものです。
あるものが信頼できるかどうかを「これだけの人に支持されているから」という基準で判断することがあります。
いまはネットで商品を買う人が増えていますが、デザインや価格よりも、どれだけレビュー、よい感想を集めているのかを参考にするそうです。
しかし人が見るように、神は見ません。神の戦いに必要なのは数ではありません。武器の質でもありません。ただ信仰です。
人が集まっているからそれは正しい、ということではありません。聖書、神のことばを通して、私たちは何を信じ、何を選び取るかを学ぶのです。
人は間違えます。大勢の人が集まると、思考が止まり、吟味する暇もないままに突き進んでしまうことさえも起こるのです。
しかしどんなに数が少なくとも、その中心に神のことばがあるならば、私たちは決して恐れることはありません。

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posted by 近 at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ