こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の中で、原稿にはなかった、童謡「おおブレネリ」をアドリブで紹介しています。(05:00頃)
「おおブレネリ あなたの仕事は何」「わたしの仕事は羊飼いよ おおかみ出るのでこわいのよ」
得意げに「これがまさに古今東西、羊飼いのイメージです」みたいなことを言っていますが、
あとで調べたら、この歌詞は原曲にはなく、訳詞者(元大阪YMCA主事・松田稔氏)の創作らしいです。
とはいえ、YMCAといえばキリスト教に関係も深く、松田氏も聖書の羊飼いのイメージを織り込んだのかもしれません。
それにしても「わたしのおうちはスイッツランド(=スイス)よ」という台詞には「範囲広すぎだろ!」とクラスのみんなでツッコんだものです。
「わたしのお国は」ならわかりますが。自宅を特定されたくなかったのでしょうか。とりあえずスケールのでかさは幼心にも伝わりました。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-20節
1.
マイナビという、就職情報を提供している会社が、新社会人300人を対象にこんなアンケートをとりました。
「会社から内定の通知をもらったときに、その喜びを一番最初にだれに伝えましたか?」
あえて下の方から紹介すると、3位が友だち、全体の10%。2位が恋人、11.4%。
1位は、おわかりですね。そう、親です。300人中200人の、65.5%。意外性も何もない、回答でした。
子どもは、人生の中でそう何度もないであろう、とっておきの嬉しいことを、まず親に伝えたいと願います。
そして神さまは、気の遠くなるような時のあいだ、ずっと伝えたかったとっておきの良い知らせ、救い主があなたがたのために生まれた、
これを親ならぬ、羊飼いたちに真っ先に伝えました。
羊飼いは、当時のユダヤでもっとも貧しく、見下されていた者たちでした。彼らは羊の所有者ではなく、羊を預けられていた人たちです。
じつは彼らのいのちは羊よりも軽いものでした。もし羊が狼に襲われそうになったら、自分の身を差し出してでも守れ。
当時の慣習では、預けられた羊を狼に食べられたしまった羊飼いは、羊の耳たぶを取り返すことで、罰から免れたと言います。
そのとき、ベツレヘムの町は、住民登録のためにやってきた人々でごった返していました。
しかし神は、その普通の人々にではなく、この軽んじられていた羊飼いたちに「すばらしい喜び」を最初に伝えました。
なぜでしょうか。御使い自身がこう言っています。「この民全体のためのすばらしい知らせ」と。羊飼いこそ、「この民全体」の代表者でした。
私たちは、この羊飼いたちこそが「民全体の代表」として、神様に見られていたのだということをまずおぼえたいと思います。
羊飼いたちは、決してこぎれいな人々ではありません。生活に余裕のある人々ではありません。
むしろ人々がなんとなく避けたいと思うような人たち。羊一匹のためにいのちを張らなければ自分が食べていけない人たち。
でも、それが神の目には民全体を表している人たちです。彼ら羊飼いの姿、それがあらゆる人間の共通の姿として、神の目には映っています。
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最近の記事
(02/02)2025.2.2主日第二礼拝のプレミア公開
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
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2018.12.16「私たちは買い戻された花嫁」(ルツ4:1-22)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教原稿の中では「ひとつひとつ見ていく余裕はない」と言っている、
イスラエル人(旧約聖書)にとっての「相続地の大切さ」ですが、実際の説教の中では、いくつか例を挙げています。
・エフタの娘は、自分がいけにえにされることよりも、相続地を継承できないことのほうを悲しんだ(士師11章)
・ナボテは、アハブ王に反抗すれば危険にさらされることを知りつつも、相続地の売却はあり得ないと言った(T列王21章)
他にも多くの事例がありますが、地上の相続地に対してこれほど彼らが執着したのであれば、天上の相続地に対して私たちはどうなのか、
それが今回の説教のテーマの一つです。まさに「神の国とその義を求めよ」ということばに尽きるかと思います。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルツ記』4章1-22節
1.
星野富弘さんの詩に、「いのちよりたいせつなもの」というものがあります。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが辛かった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
じつは旧約聖書、つまりイスラエル人のなかにも、私たち日本人にはわからない、「いのちよりたいせつなもの」があります。
それは「土地」なのです。もう少し正確に言うと、「相続地」です。
自分の土地は先祖伝来のもの、そして先祖が神から授けられ、永遠に保証してくださったものなのだ、という信念、
まさにイスラエル人にとって、「いのちよりたいせつなもの」、それが土地であり、国土なのです。
約2000年間、世界に散らばっていたユダヤ人が、現在の場所に再びイスラエル国家を建国したのが今から70年前の1948年のことでした。
自分たちが神から与えられたと信じる土地を取り戻すのを、彼らは2000年間ひたすら待ち続けたのです。
それが現在の中東問題を生み出した原因でもありますが、その忍耐力というか、バイタリティは、驚嘆に値するでしょう。
旧約聖書のあらゆるところに、相続地がいのちよりも大切なものだという教えが残っていますが、ひとつひとつ見ていく余裕はありません。
しかしひとつだけ触れるならば、旧約聖書には次のような、神からの命令があります。
イスラエル人のうちに、もし土地を継がせることのできる子どもがいない者がいたならば、彼の土地はその者の兄弟に継がせよ、
もし兄弟もいなければ、その者の父親の兄弟に継がせよ、そしてその者の名前を土地と共に必ず引き継がなければならない、と。
これが、イスラエルの中で守られなければならない掟であり、この『ルツ記』のクライマックスに出てくる、親戚たちによる買い戻しの場面です。
『ルツ記』は、単にルツの再婚物語ではありません。またナオミが孫を得て幸せな老後を送るという、それだけの物語でもありません。
かつて土地を見捨てた者たちが、再び土地を取り戻す、それを通して永遠の祝福を与えられる、という物語なのです。
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今日の説教原稿の中では「ひとつひとつ見ていく余裕はない」と言っている、
イスラエル人(旧約聖書)にとっての「相続地の大切さ」ですが、実際の説教の中では、いくつか例を挙げています。
・エフタの娘は、自分がいけにえにされることよりも、相続地を継承できないことのほうを悲しんだ(士師11章)
・ナボテは、アハブ王に反抗すれば危険にさらされることを知りつつも、相続地の売却はあり得ないと言った(T列王21章)
他にも多くの事例がありますが、地上の相続地に対してこれほど彼らが執着したのであれば、天上の相続地に対して私たちはどうなのか、
それが今回の説教のテーマの一つです。まさに「神の国とその義を求めよ」ということばに尽きるかと思います。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルツ記』4章1-22節
1.
星野富弘さんの詩に、「いのちよりたいせつなもの」というものがあります。
「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが辛かった いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
じつは旧約聖書、つまりイスラエル人のなかにも、私たち日本人にはわからない、「いのちよりたいせつなもの」があります。
それは「土地」なのです。もう少し正確に言うと、「相続地」です。
自分の土地は先祖伝来のもの、そして先祖が神から授けられ、永遠に保証してくださったものなのだ、という信念、
まさにイスラエル人にとって、「いのちよりたいせつなもの」、それが土地であり、国土なのです。
約2000年間、世界に散らばっていたユダヤ人が、現在の場所に再びイスラエル国家を建国したのが今から70年前の1948年のことでした。
自分たちが神から与えられたと信じる土地を取り戻すのを、彼らは2000年間ひたすら待ち続けたのです。
それが現在の中東問題を生み出した原因でもありますが、その忍耐力というか、バイタリティは、驚嘆に値するでしょう。
旧約聖書のあらゆるところに、相続地がいのちよりも大切なものだという教えが残っていますが、ひとつひとつ見ていく余裕はありません。
しかしひとつだけ触れるならば、旧約聖書には次のような、神からの命令があります。
イスラエル人のうちに、もし土地を継がせることのできる子どもがいない者がいたならば、彼の土地はその者の兄弟に継がせよ、
もし兄弟もいなければ、その者の父親の兄弟に継がせよ、そしてその者の名前を土地と共に必ず引き継がなければならない、と。
これが、イスラエルの中で守られなければならない掟であり、この『ルツ記』のクライマックスに出てくる、親戚たちによる買い戻しの場面です。
『ルツ記』は、単にルツの再婚物語ではありません。またナオミが孫を得て幸せな老後を送るという、それだけの物語でもありません。
かつて土地を見捨てた者たちが、再び土地を取り戻す、それを通して永遠の祝福を与えられる、という物語なのです。
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2018.12.9「イエスの懐に飛び込むならば」(ルツ3:1-18)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今年トヨサカのクリスマス諸集会は、こんな感じで行います。お近くの方はぜひおいでください。

週報はこちらです。
聖書箇所 『ルツ記』3章1-18節
1.
昨日の新発田朝祷会にて、引退された、ある婦人牧師が、次のような証しをしてくださいました。
数か月前に、本屋さんに行ったときのこと、店内で、何か落ち着かない様子の、同年配の方を見かけたそうです。
最初、通り過ぎようとしましたが、そこで内なる声を感じ、声をかけてみました。すると探している本が見つからない、とのこと。
店員さんに聞けば話は早いのですが、この方のためにあなたにできることをしなさい、という内なる声を今一度感じて、その本を探してあげました。
本が見つかった後、その方がこのように言われたそうです。
「わざわざ本を探してくださるような方に出会えたのも偶然とは思えません。どうか私の悩みを聞いてくださらないでしょうか」。
それから別の店で長い時間、ご家族やご自分の健康についての悩みとかに耳を傾けて、そこからその方にちょくちょく付き合うことになりました。
その後、忙しくて連絡があまり取れなくなった日のこと、その方にすぐに連絡を取るようにという内なる声を聞いたような気がしました。
そこでご自宅に電話すると、娘さんが出て、「母はつい先日亡くなりました」と言われたそうです。
突然の死だったため、娘さんも混乱していて納骨もまだ済んでいない、というので、急いでご自宅へ駆けつけて、娘さんとお話をしました。
「先生のことは母からよく聞かされていました。私もひとりで苦しいので、これからも家に来ていただいて、お話を聞いてください」
そして今はその娘さんとの繋がりが生まれているとのことでした。
私と一緒に出席した方々からは、神様がふさわしい時と場所を用いて導いてくださった、という感想が出ました。私も同感です。
ただ、今のような証しはクリスチャンにとって、必ずしも特別な経験ではありません。
神はすべてのクリスチャンを、自分のために生きる者ではなく、他の人のために生きる者となるように、自ら召してくださったからです。
召しというのは私たちが召されたいと思って召されるのではなくて、100%神様の主導権の中で起こる事柄です。
すべてのことに偶然はなく、背後に神のご計画があって、その中で私たちクリスチャンは神のお働きのために用いられます。
ある人は、公に知られる働きに用いられるでしょう。また別の人は、隠れた働きに用いられることがあるでしょう。
しかしどちらも、神様にとっては同じ働きであることは間違いありません。
どのような出来事も、それを用意されたのは神様ご自身です。
そして私たちはその中でさらに神様にふさわしい器として整えられていきます。そのことを信じて歩んでいきたいと思います。
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今年トヨサカのクリスマス諸集会は、こんな感じで行います。お近くの方はぜひおいでください。


週報はこちらです。
聖書箇所 『ルツ記』3章1-18節
1.
昨日の新発田朝祷会にて、引退された、ある婦人牧師が、次のような証しをしてくださいました。
数か月前に、本屋さんに行ったときのこと、店内で、何か落ち着かない様子の、同年配の方を見かけたそうです。
最初、通り過ぎようとしましたが、そこで内なる声を感じ、声をかけてみました。すると探している本が見つからない、とのこと。
店員さんに聞けば話は早いのですが、この方のためにあなたにできることをしなさい、という内なる声を今一度感じて、その本を探してあげました。
本が見つかった後、その方がこのように言われたそうです。
「わざわざ本を探してくださるような方に出会えたのも偶然とは思えません。どうか私の悩みを聞いてくださらないでしょうか」。
それから別の店で長い時間、ご家族やご自分の健康についての悩みとかに耳を傾けて、そこからその方にちょくちょく付き合うことになりました。
その後、忙しくて連絡があまり取れなくなった日のこと、その方にすぐに連絡を取るようにという内なる声を聞いたような気がしました。
そこでご自宅に電話すると、娘さんが出て、「母はつい先日亡くなりました」と言われたそうです。
突然の死だったため、娘さんも混乱していて納骨もまだ済んでいない、というので、急いでご自宅へ駆けつけて、娘さんとお話をしました。
「先生のことは母からよく聞かされていました。私もひとりで苦しいので、これからも家に来ていただいて、お話を聞いてください」
そして今はその娘さんとの繋がりが生まれているとのことでした。
私と一緒に出席した方々からは、神様がふさわしい時と場所を用いて導いてくださった、という感想が出ました。私も同感です。
ただ、今のような証しはクリスチャンにとって、必ずしも特別な経験ではありません。
神はすべてのクリスチャンを、自分のために生きる者ではなく、他の人のために生きる者となるように、自ら召してくださったからです。
召しというのは私たちが召されたいと思って召されるのではなくて、100%神様の主導権の中で起こる事柄です。
すべてのことに偶然はなく、背後に神のご計画があって、その中で私たちクリスチャンは神のお働きのために用いられます。
ある人は、公に知られる働きに用いられるでしょう。また別の人は、隠れた働きに用いられることがあるでしょう。
しかしどちらも、神様にとっては同じ働きであることは間違いありません。
どのような出来事も、それを用意されたのは神様ご自身です。
そして私たちはその中でさらに神様にふさわしい器として整えられていきます。そのことを信じて歩んでいきたいと思います。
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2018.12.2「御翼(みつばさ)の下からもう一度」(ルツ2:1-23)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。来週の土曜日、教会で子どもクリスマス会を行います。
まあ出席者の半分はおとな(教会関係者)ですけどね。
夏休みのアイスクリームパーティからもう半年近くが経ったなんて・・・・。時間が過ぎるのが早すぎて困ります
前回は地元のふたつの小学校の前で配りましたが、今回は折込チラシで配ります。


来週は大人のクリスマス集会のチラシをアップする予定です。お楽しみに。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルツ記』2章1-23節
1.
今週の週報の表紙には、フランスの画家、ミレーの名作として知られる、「落ち穂拾い」を印刷しておきました。

旧約聖書の教えの中に、外国人、みなしご、やもめなどのために、収穫の際に取りこぼした麦の穂を残しておくというのがあります。
私はミレーがこの聖書の教えをもとに想像して描いたのがこの絵だと思っていましたが、どうも人物の服装が聖書の時代とは合っていません。
ミレーは、この絵について聞かれたとき、「私は見たままを描いただけだ」と答えています。
19世紀初めのフランスでは、実際に旧約聖書の教えに従って、貧しい未亡人などのために落ち穂が残されていたのだそうです。
とはいえ、見るからに腰が痛くなりそうな絵です。
いくらフランスの社会が、キリスト教の国にふさわしく、貧しい人々に配慮していたと言っても、これは決して楽な作業ではなかったでしょう。
ルツは、ナオミのために、その決して楽ではない、落ち穂拾いという行動を始めていきました。
モアブ人であり、貧しいやもめである彼女にとって、何も頼りにできるものはありません。しかし何はなくてもルツは行動を始めました。
彼女の心にあるのは、イスラエルの神は、たとえ私が生粋のイスラエル人ではなくても、信じる者を拒むことはないという信仰でした。
そして彼女は、その信仰のとおりのことを経験したのです。
神はボアズという人をルツのすぐそばに与えてくださり、そしてあらゆる配慮と優しい言葉を尽くして、彼女を守ってくださいました。
これはまさに神が私たちをイエス・キリストによって愛してくださった、ひな型と呼べます。
私たちは何をしたから救われたのでしょうか。何か誇るべきものを持っていたから救われることができたのでしょうか。
まったく何もありません。ただ恵みです。その恵みにとどまるならば、決して欠乏の中でも不安を感じることはないのです。
このボアズとルツは後に結ばれ、そしてその子孫からイエス・キリストが生まれます。
ルツがひたすら神に頼り切ったように、私たちもこのイエス様に信頼するならば、暗やみの人生に光が生まれます。
アドベントの期間、この神の恵みをひたすらかみしめるものとして歩んでいきましょう。
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まあ出席者の半分はおとな(教会関係者)ですけどね。
夏休みのアイスクリームパーティからもう半年近くが経ったなんて・・・・。時間が過ぎるのが早すぎて困ります
前回は地元のふたつの小学校の前で配りましたが、今回は折込チラシで配ります。


来週は大人のクリスマス集会のチラシをアップする予定です。お楽しみに。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルツ記』2章1-23節
1.
今週の週報の表紙には、フランスの画家、ミレーの名作として知られる、「落ち穂拾い」を印刷しておきました。

旧約聖書の教えの中に、外国人、みなしご、やもめなどのために、収穫の際に取りこぼした麦の穂を残しておくというのがあります。
私はミレーがこの聖書の教えをもとに想像して描いたのがこの絵だと思っていましたが、どうも人物の服装が聖書の時代とは合っていません。
ミレーは、この絵について聞かれたとき、「私は見たままを描いただけだ」と答えています。
19世紀初めのフランスでは、実際に旧約聖書の教えに従って、貧しい未亡人などのために落ち穂が残されていたのだそうです。
とはいえ、見るからに腰が痛くなりそうな絵です。
いくらフランスの社会が、キリスト教の国にふさわしく、貧しい人々に配慮していたと言っても、これは決して楽な作業ではなかったでしょう。
ルツは、ナオミのために、その決して楽ではない、落ち穂拾いという行動を始めていきました。
モアブ人であり、貧しいやもめである彼女にとって、何も頼りにできるものはありません。しかし何はなくてもルツは行動を始めました。
彼女の心にあるのは、イスラエルの神は、たとえ私が生粋のイスラエル人ではなくても、信じる者を拒むことはないという信仰でした。
そして彼女は、その信仰のとおりのことを経験したのです。
神はボアズという人をルツのすぐそばに与えてくださり、そしてあらゆる配慮と優しい言葉を尽くして、彼女を守ってくださいました。
これはまさに神が私たちをイエス・キリストによって愛してくださった、ひな型と呼べます。
私たちは何をしたから救われたのでしょうか。何か誇るべきものを持っていたから救われることができたのでしょうか。
まったく何もありません。ただ恵みです。その恵みにとどまるならば、決して欠乏の中でも不安を感じることはないのです。
このボアズとルツは後に結ばれ、そしてその子孫からイエス・キリストが生まれます。
ルツがひたすら神に頼り切ったように、私たちもこのイエス様に信頼するならば、暗やみの人生に光が生まれます。
アドベントの期間、この神の恵みをひたすらかみしめるものとして歩んでいきましょう。
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2018.11.25「救いは完全」(第一ヨハネ2:1-6)
こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
まいど更新が遅くなり申し訳ありません。
以前は当日時間を見つけて更新していたのですが、とうとう土曜更新が常態化してしまいました。
一応、説教原稿はこの時点(夜9時)で終わっていますが、これからクリスマスチラシのデザインにとりかかります。

さいとうたかを・さいとうプロ・リイド社
ふう。・・・・・・・・・・・・・・・師走ですね。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』2章1-6節
▼今回、講壇からリモコンが取り去られていたので録画できませんでした。だれが持っていったのかな
1.
新発田朝祷会という、カトリック、プロテスタントの方々が月に一回一緒に集まって祈る集会があり、そこで面白い経験をしました。
何人かのグループになって、順番に祈っていたのですが、私の二つ前の方が「日曜日の各教会の礼拝が祝福されるように」と祈りました。
それはいいのですが、その方の滑舌が少し悪くて、「日曜礼拝」が「一応礼拝」と聞こえてしまうのです。
「いちおう礼拝」「いちおう礼拝」と連発されるので思わずくすっと笑いがこみあげてきて、「一応、礼拝」ではいけない、と思いました。
そうしたらその方の祈りを受けて、次の方がまた、日曜日の各教会の礼拝の祝福のためにお祈りくださいました。
今度は「日曜礼拝」という言葉ではなく、「主日礼拝」という言葉を使っていたのですが、やはり同じように滑舌がよろしくない。
「しゅじつ礼拝」が「しゅじゅつ礼拝」と聞こえてしまうのです。でも、今度はクスッと笑うことはありませんでした。
ああ、そうだ、いちおう礼拝じゃない、手術礼拝だ。礼拝を通して心の中の悪いものを取り除いていただくのだ、と思わされました。
私たちにとって、礼拝とはどちらでしょうか。「一応」礼拝か、「手術」礼拝か。
一応はさておき、手術という言葉もなんかこわいなあと思う方もいるかもしれません。
しかし礼拝とは、ただほっとする時間、というわけではありません。本当の意味でほっとできるのは、私たちの中に絡みついている汚いもの、
聖書はそれを罪と呼びますが、それをイエス・キリストに取り除いていただく時、それがまさに手術礼拝ならぬ、主日礼拝ではないでしょうか。
だじゃれのような切り出しで申し訳ないのですが、言おうとしていることは大真面目です。
1節で、まずヨハネはこのように書いています。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」。
続きを読む
まいど更新が遅くなり申し訳ありません。
以前は当日時間を見つけて更新していたのですが、とうとう土曜更新が常態化してしまいました。
一応、説教原稿はこの時点(夜9時)で終わっていますが、これからクリスマスチラシのデザインにとりかかります。


ふう。・・・・・・・・・・・・・・・師走ですね。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの手紙 第一』2章1-6節
▼今回、講壇からリモコンが取り去られていたので録画できませんでした。だれが持っていったのかな
1.
新発田朝祷会という、カトリック、プロテスタントの方々が月に一回一緒に集まって祈る集会があり、そこで面白い経験をしました。
何人かのグループになって、順番に祈っていたのですが、私の二つ前の方が「日曜日の各教会の礼拝が祝福されるように」と祈りました。
それはいいのですが、その方の滑舌が少し悪くて、「日曜礼拝」が「一応礼拝」と聞こえてしまうのです。
「いちおう礼拝」「いちおう礼拝」と連発されるので思わずくすっと笑いがこみあげてきて、「一応、礼拝」ではいけない、と思いました。
そうしたらその方の祈りを受けて、次の方がまた、日曜日の各教会の礼拝の祝福のためにお祈りくださいました。
今度は「日曜礼拝」という言葉ではなく、「主日礼拝」という言葉を使っていたのですが、やはり同じように滑舌がよろしくない。
「しゅじつ礼拝」が「しゅじゅつ礼拝」と聞こえてしまうのです。でも、今度はクスッと笑うことはありませんでした。
ああ、そうだ、いちおう礼拝じゃない、手術礼拝だ。礼拝を通して心の中の悪いものを取り除いていただくのだ、と思わされました。
私たちにとって、礼拝とはどちらでしょうか。「一応」礼拝か、「手術」礼拝か。
一応はさておき、手術という言葉もなんかこわいなあと思う方もいるかもしれません。
しかし礼拝とは、ただほっとする時間、というわけではありません。本当の意味でほっとできるのは、私たちの中に絡みついている汚いもの、
聖書はそれを罪と呼びますが、それをイエス・キリストに取り除いていただく時、それがまさに手術礼拝ならぬ、主日礼拝ではないでしょうか。
だじゃれのような切り出しで申し訳ないのですが、言おうとしていることは大真面目です。
1節で、まずヨハネはこのように書いています。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」。
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