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2019.1.27「礼拝はあなたを映す鏡」(ルカ4:14-30)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
有名な戦場カメラマンであったロバート・キャパの名言に「(戦場カメラマン)の夢は永遠の失業である」というものがあります。
つまり、戦場カメラマンなど必要のない、争いのない平和な世界を求めながら彼は戦っていたということなのでしょう。
私自身も、牧師の夢は永遠の失業ではないかと考えています。
 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:33,34)
 しかし現実には、共依存的な牧師と信徒の関係がまかり通っているような教会が多いのです。
あまり詳しく書くと、豊栄教会のことを言っているのではないかと邪推されるので、具体的な言及は避けますが、
牧会の目的は、信徒が牧師の手を借りなくても自立できるように養育し、訓練するというところにあります。
「牧師にしかできないことは牧師が、信徒にもできることは信徒が、
そして牧師にしかできないと思っていたことが信徒もできるようになることを証する」、そんな教会を目指しながら。
説教や聖礼典が牧師以外でもできるようになる、という意味ではありませんのでお間違えのないように。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』4章14-30節 


1.
 私は中学生、高校生の頃、鏡を見るのが苦手でした。自分の顔が気に入らなかったのですね。
今では何気なく使われている「朝シャン」という言葉。
「朝にシャンプー」という意味ですが、これが流行語大賞になったのが昭和62年。私がまさに高校に入る頃の時代でした。
しかし朝シャンどころか、顔を洗う、歯を磨く、髪型を整える、全部いや。鏡を見なければいけないから。ずいぶんばっちい高校生でした。
 しかし先日、実家に泊まったとき、たまたま当時のアルバムを発見しました。そしてつくづくこう思いました。いやあ、いい男だなあ、と。
眉も今の二倍きりっとしています。どうして自分の顔があんなに嫌いだったのか、今となっては不思議でたまりません。
じっくり見ていると、松○潤みたいです。なぜ私の姉が、弟の写真をジャ○ーズ事務所に送らなかったのか、と首をかしげるばかりです。
 どこまで本気で、どこまで冗談なのかと、みなさんのほうが首をかしげると思いますが、
当時、自分の顔が嫌いだったというのは、自分自身が嫌いだったからでした。
いわゆる、セルフイメージ、自分自身をどのように見ているか、ということが極めて低かったのかもしれません。
「ありのままでいい」とか「世界にひとつだけのオンリーワン」とか「君は愛されるために生まれた」とか、まるで聞いたことがない時代でした。
 鏡というのは、左右が逆に映るというのは別として、ありのままの姿を映し出します。
いま鏡を覗くと、47歳という年齢相当の顔が映ります。頭に白いものが混じり、目の下の皺も目立ちます。
しかし自分の顔を見ていやだなあと思うことはもうありません。年を取って変わったのではなく、信仰を持ってから少しずつ変わってきました。
それは、神さまが私をこのままの姿で愛してくださっているんだということを、自然と受け入れるようになったからです。
 ここで、私は改めて「礼拝とは何か」ということを考えます。礼拝とは何か。それは「その人を映し出す鏡」と言うことができるでしょう。
神に期待せず、礼拝に出ているだけということであれば、礼拝は、そんなあなたを映し出す鏡であり、礼拝は無味乾燥なもので終わります。
しかし神に期待して礼拝に加わっているならば、どんなに整っていない礼拝であろうとも、礼拝はあなたの期待そのものを映し出す鏡となります。
あなたは、今日どのような思いで、この礼拝の場に与っているのでしょうか。もちろん全員が、それぞれの期待をもって集っていることと信じます。
礼拝は、「自分を映し出す鏡」であると同時に、広く言われているのは「礼拝そのものが神へのささげものである」ということです。
期待をもって礼拝に集うとき、それは私たちの喜びを映し出す鏡となります。
同時に、神様も心から喜んで、その礼拝を最上のささげものとして受け入れてくださいます。

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posted by 近 at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.1.20「誘惑への必勝法」(ルカ4:1-13)

 こんばんは、最近は戦国の時代小説にはまっている、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
「秀吉がその才(才能)を恐れた男」というと、以前大河ドラマにもなった黒田官兵衛が有名です。
しかしもうひとり、利休七哲(千利休の七人の直弟子)にして熱心なキリシタンであった、蒲生氏郷という大名がいました。
 ある人が秀吉に「信長様と、氏郷殿がそれぞれ軍を率いて戦わせたら、どちらが勝つか」と聞いたそうです。
すると秀吉は「御館様(信長)が勝つ」と答えました。その理由がまた面白いのです。
「たとえ御館様方の兵を九割方倒したとしても、御館様のことだ、ご自分は必ずうまく戦場を脱けておられることだろう。
しかし氏郷方の兵を五、六騎も倒せば、必ずその中に氏郷も混じっている」
つまり、蒲生氏郷は常に兵の先頭に立って戦っていたということです。決して弱いという意味ではありません。
ヨシュアを彷彿とさせますね。
民の戦いを背後で祈りをもって支えたモーセと、自ら先頭に立って戦いに臨んでいたヨシュア。どちらも優秀な指導者でした。
そろそろ各地の教会から人事異動の噂が聞こえてくる頃です。
次に来る牧師は、モーセ型か、ヨシュア型か。それぞれの教会にふさわしい牧会者が導かれるように。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』4章1-13節 


序.
 吸血鬼には十字架。狼男には銀の弾丸。口さけ女にはポマード。人間が考えた魔物には、決定的な弱点が存在します。
しかし悪魔は、人間が考え出した魔物ではなく、最初の人間が造られた時からすでに存在していたことが『創世記』には触れられています。
そして悪魔には、これをかざせば逃げていくとか、これを唱えれば消えてしまう、といった決定的な弱点は存在しません。
悪魔は神を恐れません。それどころか神殿の頂へイエス様を連れて行きます。
聖書のことばを唱えれば、逃げていくということもありません。むしろ下手なクリスチャンよりも、よほど聖書をおぼえています。
悪魔は、聖書にこう書いてあります、とイエス様を誘惑し、それに対してイエス様も、いや、こうも書いてある、というやりとりが三度続きます。
どうせならイエス様も指先から雷でも出して悪魔を消し去ってくれたらいいのに。映画化しても盛り上がりそうにない、地味な戦いです。
 しかしこの地味な戦いこそ、もっとも読み落としてはならないところでしょう。
イエス・キリストは悪魔に対抗するにあたり、神としての特別な力はいっさい用いません。用いたのはただ聖書のみ。
釈迦に説法ならぬ、神に聖書。都合のよい聖書の引用で惑わしてくる悪魔に対して、イエス様も聖書のことばで戦い、そして勝利しました。
悪魔に対して有効な武器は、この聖書以外にはありません。
しかし聖書を紙に映して扉に貼っておけば悪魔は入ってこれない、というような生やさしい相手ではないことは確かです。
だからこそ、私たちは聖書を少しずつ心の中に貯えていきます。
聖書は、ひとつだけ取り出して自分の考えに都合よく当てはめていくものではありません。
聖書66巻に込められている、一つ一つのことばをより広く、より深く学びながら、聖書全体を実現する人生を歩んでいくこと、
ぜひそれを忘れないでください。

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posted by 近 at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.1.13「遥かなる時の果てに」(ルカ3:21-38)

 こんばんは、明日が原稿〆切の総会資料(牧会目標)がまだできていない、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 さて、今から10年以上前ですが、篠原涼子さん主演の「ハケンの品格」というドラマがありました。
水曜夜10時ということで、祈祷会が終わった後に妻と一緒に仲良く視聴していました。教会員にはナイショですが
派遣社員でありながら毎回ごとに資格を披露する、現代の水戸黄門のようなキャラクターを篠原さんが好演していました。
 しかし私にとってこのドラマはもう一つの楽しみがありました。
なんと、篠原さんの職場にいる正社員の一人に、「近」というネームプレートをつけた人がたまに出てくるのです!
後で、演じていた俳優さんが上地雄輔さんだったと知りましたが、原則、完全な脇役扱いです。
ネームプレートには「近」という漢字一文字が見えるものの、劇中で同僚からも名前を呼ばれることがほとんどありません。
果たして彼は「ちか」なのか「こん」なのか。残念ながら「こん」でした。チッ
今日の説教の導入では、そのように同姓同士でも気を抜けない「近」の名字のルーツについて触れています。
 ちなみにわが同盟教団の教職者名簿は、名字をローマ字のイニシャルで並べた索引がついていますが、
「C」のところは、私(Chika)と、次期理事長の呼び声高い、招待キリスト教会の趙南洙先生(Cho)の二人だけです。
だからどうしたと言われそうですが、不思議な一体感。しかも順番は私が先なので、ちょっと優越感。どうもすみません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』3章21-38節 


1.
 私が初対面の方に自己紹介をするとき、「近という名字は珍しいですね」と、よく言われます。
日本には少なくとも約10万種類の名字があるそうです。インターネットで調べたら、近(ちか)または近(こん)は10万中、2890位。
数字が大きいのでいささかピンときませんが、上位3%の中に入っていますので、決して珍しい名字ではありません。
とはいえ日本で一番多い名字である佐藤さんが全国に200万人いるのに対して、近(ちか)または近(こん)は5000人。
上位3%に入っているとはいってもトップと400倍の開きがありますので、やはり珍しい、という印象を与える名字かもしれません。
小学生の頃、父に泣きついたことがありました。近なんて名字だからからかわれる、佐藤とか鈴木みたいな普通の名字がいい、と。
すると父が「そんなことを言ったら由緒正しい名字が泣くぞ」と言って、祖父から聞いたという名字のいわれを教えてくれました。
なんでも近藤さんの家来であったうちのご先祖様が、ある日の戦で、敵の大将を討ち取るという大手柄を立てたそうです。
そこで喜んだ主君が褒美として、わが先祖に恐れ多くも近藤の近(こん)の字を名乗ることを許した、
というたいへんうさんくさいありがたい話でした。だったら近(ちか)じゃなくて近(こん)だろ、と心の中で思ったものです。
しかしうちの家紋をインターネットで調べてみたら、近藤家と同じ「鹿角紋」というものでした。
実際にそれと近いことがあったのかもしれません。近だけに。
 聖書の中には、しばしば家系図が登場します。
今日の箇所もまたそのひとつですが、なんでこんなの聖書に必要なの、と思われる方もいるかもしれません。
しかし日本人一億二千万の中に10万の別々の名字があり、それぞれにエピソードがあります。
ましてや神に選ばれた約束を先祖から連綿と引き継いできたユダヤ人にとって、自分が属する家系を示すものは何よりも大事なことでした。
それが聖書の中に、頻繁に家系図が登場する理由です。
そして新約聖書には、このルカ福音書3章とマタイ福音書1章に、イエス・キリストについての家系図が記録されています。
マタイ福音書のほうは、おそらくみなさん必ず読んだことがあるでしょう。
なぜなら新約聖書を開くと最初にこれが書いてあるので、どうしても一度は読まざるを得ないからです。
そして多くの方が、その長ったらしい家系図につまずいて、そこから聖書を読み続けることに挫折します。
そのマタイ福音書の系図は、ユダヤ人の先祖アブラハムから始まり、王ダビデを経由して、救い主イエスの誕生へとつながっていきます。
ところがこのルカ福音書の系図は、マタイのものよりもはるかに大きなスケールでイエス・キリストの血統を描きます。
イエスの父ヨセフから始まり、やはりダビデを経由して、アブラハムの先を超えて、なんと人類の先祖、神の子アダムにまで遡るのです。

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posted by 近 at 21:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.1.6「悔い改めは喜びへの扉」(ルカ3:1-20)

 こんにちは、暖冬がいつまで続くのかと逆に落ち着かない、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 さて、多くのプロテスタント教会では、通常の主日礼拝は「前奏」「招詞」という流れで始まるかと思います。
ある教会の礼拝に出席したとき、「招詞」が「序詞」になっていたことがありました。
悪くはないかもしれませんが、礼拝が「招かれざる者を招いてくださる恵み」であるという点で「序詞」では少しぶれます。
礼拝はささげるものですが、ささげることができるのは、私たちが神に近づくことのできる者とされているがゆえです。
罪人を義と認め、御子を十字架につけた者をわが子と呼んでくださる方から招かれている恵みが「招詞」という用語には込められています。
 さらに言うならば「前奏」は心を落ち着ける時というよりは、悔い改めの中で招きのことばを待ち望む時となります。
そういう意味では前奏よりも適切な表現があるかもしれません。「黙奏」?「悔奏」?「悛奏」?「望奏」?
英語ではだいたい「Prelude」なのでこだわる必要はありませんが、「前奏」「後奏」から一歩進んで、うまい表現があればと思います。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』3章1-20節 


1.
 刑務所に収監されている人々に、定期的に訪問したりお話を聞いたりする、教誨師という仕事があります。
私の先輩の牧師に、かつてその教誨師をされていた方がおられました。
その方が受刑者の方々に、「私もあなたも罪人です」という話をしたとき、ほとんどの方がこう言うそうです。
「いや、おたく(牧師!)は確かに罪人かもしれないけれど、俺は違うよ。罪を犯したんじゃなくて、ちょっとへまして捕まっただけなんだよ」
初犯に限らず、前科何犯、という自称歴戦の勇士たちも、自分は罪人じゃない、というそうです。あいつのほうがもっと悪いことをした、と。
 ほんとかな、と思いますが、しかし人間の本質とは案外、そういうものかもしれません。
「罪がわかる」というのは、頭でわかるのではなくて、心の中に神からの光が差し込んだときに初めて認めることができると聖書は伝えています。
私は教誨師の経験はありませんが、いままでの個人伝道のなかで、やはりこんな経験をしてきました。
まず初めに、神の話をします。神は愛であり、ただ一人のお方であり、私たちを含めてすべてのものを造ってくださったお方だということを話します。
ここで拒絶されるということは、あまりありません。心の中では、誰もが神という存在をどこかで受け入れている、ということがあります。
しかし問題はここからです。次に、私たちは誰もが罪人であり、イエス・キリストを十字架にかけた張本人だという話をします。
すると、そこでたいていの人がまず首を振るのですね。神の存在はいい、だが私が罪人だなんて許せん。お天道様に誓ってもあり得ない。
 その意味で、救いを受け取るための最大の障害は、「私は罪人である」ということをその方が受け入れられるかということになります。
神の愛を伝えるのに言葉はいらない、と言った人がいます。
確かにただ寄り添い、耳を傾け、無言で抱きしめるだけで神の愛が伝わることもありましょう。
しかし自分が罪人であることがわかるためには、人は神のことばが聖霊の光とともに語られることが必要です。
だからこそ、バプテスマのヨハネのような預言者が必要でした。罪を語る者がいなければ、世は罪がわかりません。
罪がわからなければ、救いもわかりません。

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posted by 近 at 17:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2018.12.30「乏しいことだらけのあなたへ」(詩23:1-6)

 あけましておめでとうございます。いつか獅子舞のように激しい説教がしたい、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 さて、牧師によって礼拝説教の長さは違いますが、だいたい20分が理想的、平均は30分と勝手に分析しています。
私の場合、この20〜30分に収めるために、自分の話すスピードに応じて、原稿を3000字前後で作っています。
原稿段階でこの字数を大幅に越えた場合には、何度も推敲して、泣く泣く削り取るということもしています。あたりまえですが。
これだと、計算上は説教が30分を越えることはありません。
 しかし、実際には40分になることはざら、酷いときには50分になってしまうこともあります。
なぜでしょうか。おわかりですね。原稿にない、余計なアドリブを加えてしまうからですね。今回もやっちまいました。
「ある大手寿司チェーンではネタの皿が30分回ったら自動廃棄」(02:40頃)
このくだりは、まったく原稿になかったものでしたが、説教の流れの中で頭に浮かんだのでつい使ってしまいました。
ところが、なんということでしょう。実際は「30分」ではなく「350m」でした。3しか合ってないわ。スシ○○さんごめんなさい。
 ちなみに350mを時間に換算すると、実際に測ったわけではありませんが、秒速5cmとすれば約2時間というところでしょうか。
もし350m=30分として計算したら、秒速20cmになってしまいます。それはそれでゲームセンターみたいで楽しそうですが。
 今年は、なるべく不確かなアドリブを加えないように気をつけます。
しかしこういう失言が楽しみだという人もおりますので、困ったものです。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』23篇1-6節 


1.
 先日、妻から、ある全国チェーンの回転寿司に連れて行ってもらいました。
いや、実際、車で連れて行ったのは私のほうなんですが、経済的には妻に連れて行ってもらったというか・・・。
ちょっと前までは、回転寿司というのは、まさにグルグル回っているレーンの上を、寿司を載せお皿が動いていくというスタイルでした。
お気に入りのネタが自分の前を通り過ぎるときにぱっと取るのですね。
遠くから狙っていたトロの皿が直前で隣の客にとられてしまうこともあり、なかなか緊張感が抜けない戦いでもありました。
まあ、真ん中に職人さんが何人かいるので、トロお願いというとすぐに出してもらえるのですが、気が弱い人はなかなか声がかけづらいのです。
しかし今は、タブレットがそれぞれの座席に置いてあって、タッチパネルで選ぶのです。
すると、リニアモーターカー顔負けのスピードで、寿司を載せたお皿がシュッと目の前にやってきます。
一皿百円なんて当たり前、ラーメンは出るわ、鰻丼は出るわ、デミグラスハンバーグ、フライドポテト、フルーツパフェ、・・・
豊栄に一軒だけある某ファミレスチェーン店より豊富なメニューが並んでいます。
 こんな豊かなニッポンの平成最後の主日礼拝、「わたしは乏しいことがありません」、現実味のないことばに聞こえます。
しかしもし私たちがダビデのように詩篇を作るとしたら、一行目の後半にはこういう言葉を使うでしょう。「私は乏しいことだらけです」。
確かに食べ物は、捨てるほど有り余っています。
ファミレスが一軒もないような町でも、インターネット回線とクレジットカードがあれば、翌日にはどんなものでも届けてもらえます。
しかしどんなにモノに囲まれていても、これで十分だ、ということがありません。
自動車保険、火災保険、地震保険、生命保険、がん保険、ありとあらゆる保険に加入しても、まだ安心できません。
たましいが生き返るどころか、朝起きての第一声が、「ああ疲れた」という人もいます。
不安で眠れぬ夜に欠かすことのできないウイスキーは、杯からあふれています。
いや、私はクリスチャンですから、そんなことはないですよ、と、もちろんあなたは言うでしょう。その根拠は何でしょうか。
言うまでもなく、「主は私の羊飼い」。だから、乏しいことがないのです。自分自身を羊のようなものと認めるとき、乏しいことがないのです。
私たちは羊です。そして永遠の大牧者イエス・キリストが私たちを導いてくださると信じているから、いつまでも平安の中に生きることができます。

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posted by 近 at 16:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2018年のメッセージ