有名な戦場カメラマンであったロバート・キャパの名言に「私(戦場カメラマン)の夢は永遠の失業である」というものがあります。
つまり、戦場カメラマンなど必要のない、争いのない平和な世界を求めながら彼は戦っていたということなのでしょう。
私自身も、牧師の夢は永遠の失業ではないかと考えています。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:33,34)しかし現実には、共依存的な牧師と信徒の関係がまかり通っているような教会が多いのです。
あまり詳しく書くと、豊栄教会のことを言っているのではないかと邪推されるので、具体的な言及は避けますが、
牧会の目的は、信徒が牧師の手を借りなくても自立できるように養育し、訓練するというところにあります。
「牧師にしかできないことは牧師が、信徒にもできることは信徒が、
そして牧師にしかできないと思っていたことが信徒もできるようになることを証する」、そんな教会を目指しながら。
説教や聖礼典が牧師以外でもできるようになる、という意味ではありませんのでお間違えのないように。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』4章14-30節
1.
私は中学生、高校生の頃、鏡を見るのが苦手でした。自分の顔が気に入らなかったのですね。
今では何気なく使われている「朝シャン」という言葉。
「朝にシャンプー」という意味ですが、これが流行語大賞になったのが昭和62年。私がまさに高校に入る頃の時代でした。
しかし朝シャンどころか、顔を洗う、歯を磨く、髪型を整える、全部いや。鏡を見なければいけないから。ずいぶんばっちい高校生でした。
しかし先日、実家に泊まったとき、たまたま当時のアルバムを発見しました。そしてつくづくこう思いました。いやあ、いい男だなあ、と。
眉も今の二倍きりっとしています。どうして自分の顔があんなに嫌いだったのか、今となっては不思議でたまりません。
じっくり見ていると、松○潤みたいです。なぜ私の姉が、弟の写真をジャ○ーズ事務所に送らなかったのか、と首をかしげるばかりです。
どこまで本気で、どこまで冗談なのかと、みなさんのほうが首をかしげると思いますが、
当時、自分の顔が嫌いだったというのは、自分自身が嫌いだったからでした。
いわゆる、セルフイメージ、自分自身をどのように見ているか、ということが極めて低かったのかもしれません。
「ありのままでいい」とか「世界にひとつだけのオンリーワン」とか「君は愛されるために生まれた」とか、まるで聞いたことがない時代でした。
鏡というのは、左右が逆に映るというのは別として、ありのままの姿を映し出します。
いま鏡を覗くと、47歳という年齢相当の顔が映ります。頭に白いものが混じり、目の下の皺も目立ちます。
しかし自分の顔を見ていやだなあと思うことはもうありません。年を取って変わったのではなく、信仰を持ってから少しずつ変わってきました。
それは、神さまが私をこのままの姿で愛してくださっているんだということを、自然と受け入れるようになったからです。
ここで、私は改めて「礼拝とは何か」ということを考えます。礼拝とは何か。それは「その人を映し出す鏡」と言うことができるでしょう。
神に期待せず、礼拝に出ているだけということであれば、礼拝は、そんなあなたを映し出す鏡であり、礼拝は無味乾燥なもので終わります。
しかし神に期待して礼拝に加わっているならば、どんなに整っていない礼拝であろうとも、礼拝はあなたの期待そのものを映し出す鏡となります。
あなたは、今日どのような思いで、この礼拝の場に与っているのでしょうか。もちろん全員が、それぞれの期待をもって集っていることと信じます。
礼拝は、「自分を映し出す鏡」であると同時に、広く言われているのは「礼拝そのものが神へのささげものである」ということです。
期待をもって礼拝に集うとき、それは私たちの喜びを映し出す鏡となります。
同時に、神様も心から喜んで、その礼拝を最上のささげものとして受け入れてくださいます。
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