最近の記事

2019.4.21「復活−恐ろしさから喜びへ」(マルコ16:1-8)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週はブログを更新することを忘れていました。我ながらこのモティベーションの低さ。継続が危ぶまれます。
さて、もう明日に迫ってしまいましたが、今年もNBIバザーで茶会をやります。
今回のポスターは、フォントは「エヴァ文字」で有名なマティスEBを縦110%、横90%で雰囲気を出してみました。
茶会のイメージは、歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」からです。許可をとっていませんが。
てなわけで、来てね。週報はこちらです。
2019tyakai.jpgコピーライトマークコーエーテクモホールディングス

聖書箇所 『マルコの福音書』16章1−8節



1.
 イースターおめでとうございます。「あけましておめでとうございます」ではありませんが、
いつか日本中でイースターおめでとうございますという挨拶が飛び交うようになればよいと思いながら、いつもこの時期を迎えていました。
しかし少しずつですが「イースター」という言葉が、日本でも知名度を上げて来たように思います。
数年前ですが、スーパーで妻がプリンを買ってきたら、かわいいウサギの絵が描いてあって、「イースター」と書いてありました。
何でも卵をウサギが運んでくるからだそうです。
じつは聖書の中ではウサギもたまごもほとんど出てこないのですが、まあ良しとしましょう。
ウサギはともかく、卵は、いのちがその中に詰まっているものであり、古来よりキリストのよみがえりの象徴とされてきました。
 イースターとは、キリストのよみがえりのことです。
そしてキリストのよみがえりは、キリストの十字架と表裏一体、どちらが欠けても救いは成り立ちません。
イエス様は、私たちが受けるべき罪の罰の身代わりとなって、十字架の上で私たちのために死んでくださいました。
私たちは「死」が当たり前の世界に住んでいるので、死の本質に気づかないかもしれません。
聖書は、死は罪の報酬であると言っています。
ひらたくいうと、私たちは生まれつき罪人であるがゆえに、生まれたときすでに死に囲まれています。
しかしキリストは死んで三日目によみがえり、墓の中から出てこられました。
それは、キリストが死を打ち破ったこと、ひいては死の根源である罪を打ち破ったことを意味しています。
きょうは、イースターであると同時に、私たちの教会にとっては、先に天に召された信仰者の方々をおぼえる日でもあります。
愛するあの方々は、確かに死んでいきました。私が葬儀をしたのです。
しかし肉体は死にましたが、信仰によって今も生きています。
 イースター、それは私たちが信じたイエス・キリストが、確かに十字架で罪を打ち破り、確かに復活で死を克服したことを表すものです。
そしてこのキリストを救い主として信じる者は、死んでも生きるのです。そのことを私たちは改めて信じましょう。

続きを読む
posted by 近 at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.4.14「パラダイスはどこにある」(ルカ23:32-49)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の礼拝では、役員就任式・CS教師任命式・子ども進級式(祝福式)を行いました。礼拝後は恒例の記念撮影です。
DSC01232.JPG
こういうのって、目線入れたりとかモザイクかけるべきなんでしょうか。ちょっとわかりません。
外部から来ている子どもは含まれていないので、いいのかわるいのか。
一脚だけ誰も座っていない椅子が気になりますが、人によってはイエス様が見えるかもしれません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』23章32−49節



序.
 遠藤周作の『沈黙』という小説を原作として作られた「サイレンス」という映画の中に、印象深い場面が登場します。
主人公である外国人司祭が、幕府の役人に捕らえられて、みずぼらしい牢屋のようなところに入れられてしまいます。
するとすでにそこにはやはり同じように捕らえられた日本人の信徒たちがいました。そしてその中のひとりが主人公にこう尋ねてくるのです。
「司祭様、私たちが殉教したあとに行くパライソは素晴らしいところなのですよね?」
「パライソ」とは、「天国」を意味するポルトガル語です。
そしてこの言葉は、新約聖書に三回だけ出てくる、「パラダイス」というギリシャ語から派生した言葉です。
「パライソは素晴らしいところなのですよね?」と聞かれたとき、この外国人司祭は、しばし何と答えて良いかわからず、沈黙します。
なぜ彼はしばらく言葉が出なかったのか。それは、彼らはパラダイスを死んだ後に行くところとは教えていなかったからです。
パラダイスは、信じた者にすぐに起こる新しい生き方です。死んだ後ではなく、信じたときに生まれる、新しいいのちそのものです。
しかし日本人の信者たちはパラダイスを浄土真宗で言う「極楽」と混同して受け止めていました。
遠藤周作がこのやりとりの中に含めたメッセージは、たいへん辛辣なものであると言えるでしょう。
いまも日本のクリスチャンは、彼らと変わらないのではないか。パラダイスを死んだ後に行く世界と考えているのではないか。
むしろ信じたときに確かに起こる、人が内側から変えられる奇跡そのもの、それが「きょう、パラダイスにいます」という言葉のまことの意味です。


続きを読む
posted by 近 at 18:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.4.7「見よ、善きかな、楽しきかな」(詩133、134篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』133、134篇



1.
 「あなたにとって、日曜日にはどうしても欠かせないものは何ですか」と聞かれたら、当然ここにおられる方々は「礼拝」と答えるでしょう。
しかし巷では、サザエさんと答える方も多いようです。あるいは平成生まれの世代は「ちびまる子ちゃん」と答えるのでしょうか。
「サザエさん症候群」という、ストレス症候群があるそうです。
日曜日にサザエさんを見終わると、心の中にむなしい風が吹き、ああ、日曜日終わっちゃう、明日から学校かあ、会社かあ、いやだなあ。
そう考えずにはいられないというもの。ドキッとした方もいるのではないでしょうか。
月曜日のことを考えると憂鬱でたまらない現実の人々に比べると、サザエさんの登場人物は気楽でいいよなあ、と思いませんか。
しかしサザエさんを長年にわたって研究している、あるグループによれば、むしろ彼らの方がよほど大変だ、というのです。
この研究グループは、サザエさんの原作本に出てくるすべての会話を調べて、登場人物の年齢を割り出しました。
それによると、一家の大黒柱である波平さんは54歳、お母さんのフネは48歳だそうです。ところが長男のカツオは、まだ小学生。
60歳定年の頃に書かれたサザエさんにおいて、波平さんは子どもを大学に行かせるために、
定年になってもまだまだ仕事を探し続けなければならない、厳しい老後が待っているのだということです。
彼らの生活レベルの鍵を握っているのは、同居するフグ田家の存在。彼らがどれくらい援助してくれるかという、生々しい話が続きます。
 それでも、家族がみな同じ家で生活している、サザエさん、あるいは、ちびまる子ちゃんの世界に、私たちは惹かれます。
家族全員が、同じテーブルに座り、同じ食事をつついている、何気ないけれども今となっては貴重な姿がそこには現れます。
来年、2020年は56年ぶりに東京でオリンピックが開かれます。前のオリンピックの時、東京にやってきた外国人記者たちは、
わずか20坪ばかりの、同じような形の家がずらっと並んでいる、長屋のような日本の住宅街を見て、ウサギ小屋と揶揄しました。
しかしどんなにささやかであっても、人々が自分の家を持とうとした理由、それは家族団らんこそが人生のしあわせだと信じていたからです。
それから半世紀、日本人のライフスタイルは変わりました。家族のすべての世代が、一緒に暮らし、一緒に食事をする家庭は少数派です。
しかしたとえ平成生まれの若い人でも、サザエさんやちびまる子ちゃんのような家族団らんの風景を知っている人がほとんどです。
だから家族がひとつに集まることは、いまの時代では困難なことはあっても、本来は普通のことなのだという感覚は、日本人に共通しています。
しかし、この詩篇の背景である、イスラエルにおいては、家族が共に集まるということは普通どころか、奇跡そのものだったのです。

続きを読む
posted by 近 at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.3.31「主を待ち望む」(詩130、131篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』130、131篇


1.
 星野富弘さんという方をご存じの方も多いと思います。
若い頃、小学校の教師でしたが、不慮の事故により首から下の自由を失いました。人生に絶望し、何度も死を考えたそうです。
しかし数年間の苦しみの果てに、イエス・キリストを信じた富弘さんは、口に絵筆をくわえて花の姿を描くようになりました。
富弘さんが1981年に出した、はじめての詩画集のタイトルが、今日の聖書のみことばにもある、「愛、深き淵より」というものです。
その本のまえがきで、富弘さんがこう書いています。
「今、もう一度振り返ってみると、深き淵には、澄んだ美しい水が湧き出ていたような気がします。この本は新しい私の出発点です。」
聖書の中には、「深き淵」という言葉が繰り返し出てきます。そのほとんどが、神との断絶を表す、絶望を指しています。
富弘さんもまた、この詩人と同じように、深い淵から神を呼び求めました。
その中で、神が叫びに耳を傾けてくださる愛の方であることに気づかされたのです。
130篇の1節、そして2節をもう一度お読みします。
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」
この深い淵の中に満たされている水の黒さは、じつのところ、自分自身の心の中にある闇の色です。
苦しみの中で、私たちは自分自身の本当の心と出会い、そこにうごめいている、自分自身の罪と向き合うことになります。
しかしその経験があって、はじめて、神の愛がいかに底のないもので、私たちの想像を超えているほどのものだということに気づくのです。
3節をお読みします。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と。
「不義」とは「罪」と言い換えることができます。ある人は、自分にも罪はあるかもしれないが、あの人に比べたら少ない、と言うでしょう。
自分はまったく罪を犯したことがない、と言い張る人さえいるかもしれません。
しかし聖書は、私たちは生まれながらに罪人である、と言います。ただ自分では気づかず、見えないだけなのです。
罪は、私たちが考えている以上に、心の中にうごめいています。
そして罪は、どんなに他人にはうまく隠しているつもりでも、確実に自分を傷つけ、周りを汚し、腐らせていきます。

続きを読む
posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ