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2019.3.31「主を待ち望む」(詩130、131篇)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』130、131篇


1.
 星野富弘さんという方をご存じの方も多いと思います。
若い頃、小学校の教師でしたが、不慮の事故により首から下の自由を失いました。人生に絶望し、何度も死を考えたそうです。
しかし数年間の苦しみの果てに、イエス・キリストを信じた富弘さんは、口に絵筆をくわえて花の姿を描くようになりました。
富弘さんが1981年に出した、はじめての詩画集のタイトルが、今日の聖書のみことばにもある、「愛、深き淵より」というものです。
その本のまえがきで、富弘さんがこう書いています。
「今、もう一度振り返ってみると、深き淵には、澄んだ美しい水が湧き出ていたような気がします。この本は新しい私の出発点です。」
聖書の中には、「深き淵」という言葉が繰り返し出てきます。そのほとんどが、神との断絶を表す、絶望を指しています。
富弘さんもまた、この詩人と同じように、深い淵から神を呼び求めました。
その中で、神が叫びに耳を傾けてくださる愛の方であることに気づかされたのです。
130篇の1節、そして2節をもう一度お読みします。
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」
この深い淵の中に満たされている水の黒さは、じつのところ、自分自身の心の中にある闇の色です。
苦しみの中で、私たちは自分自身の本当の心と出会い、そこにうごめいている、自分自身の罪と向き合うことになります。
しかしその経験があって、はじめて、神の愛がいかに底のないもので、私たちの想像を超えているほどのものだということに気づくのです。
3節をお読みします。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と。
「不義」とは「罪」と言い換えることができます。ある人は、自分にも罪はあるかもしれないが、あの人に比べたら少ない、と言うでしょう。
自分はまったく罪を犯したことがない、と言い張る人さえいるかもしれません。
しかし聖書は、私たちは生まれながらに罪人である、と言います。ただ自分では気づかず、見えないだけなのです。
罪は、私たちが考えている以上に、心の中にうごめいています。
そして罪は、どんなに他人にはうまく隠しているつもりでも、確実に自分を傷つけ、周りを汚し、腐らせていきます。

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posted by 近 at 18:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ