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2019.5.19「賛美の祝福」(詩29:1-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、村上福音キリスト教会での説教奉仕のため、説教代理者として、新発田キリスト教会の田中敬子伝道師をお迎えしました。
当ブログの熱心な読者の方には、すでにおなじみですね。説教映像をアップするとどーんとアクセス数が跳ね上がります。悔しいわ。
じつは当日の礼拝に、先日天に召されました長谷部芳江姉のご遺族の方が出席してくださるという連絡がありました。
もちろん葬儀で顔を合わせているのですが、せっかく礼拝に来られてもお会いできないのは少し残念。
そこで週報の表紙は、芳江姉が好きだったというコスモスの花を選びました。
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週報の私物化?いいえ、牧会的配慮です
ちなみに田中先生にちょくちょく説教代務を依頼するのも、元奉仕神学生なので頼みやすいからではなく、牧会的配慮です
大切なことなので二回言いました。
「風つよし それより勁(つよ)し 秋桜」。芳江姉のご生涯にぴったりの俳句でした。
田中先生の説教、「賛美の祝福」も、心なしかこの句に合っているような気がします。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』29篇1−11節



posted by 近 at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.12「神の都を待ち望む」(黙21:22-22:5)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
高校から社会人時代にかけて、私の信仰を導いてくれた、元牧師夫人がさる5月9日深夜に急逝しました。満79歳でした。
ある事情で、半年前から豊栄教会の礼拝に出席していましたが、その背後にはとてつもなく深刻な事情があったことを聞いています。
どちらかというと口数の少ない人でしたので、誤解されることもあったでしょう。しかしその少ない言葉には重みがありました。
多くの教師たちが晩節を汚す言動を繰り返す中で、最後まで主にさばきをゆだねて自らは多くを語らない、立派な生涯でした。
葬儀は先日、私が司式をさせていただきました。いずれ、写真と共に詳しく報告させていただきます。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの黙示録』21章22節−22章5節


1.
 客会員としてこの半年間、ご主人と一緒に礼拝に出席されていた長谷部芳江姉が、先週の半ば、天に召されました。
夜中にご主人から電話を受け、急きょ搬送先の病院に駆けつけましたが、すでに息を引き取られた後でした。
ご本人および遺族の要望により、私が葬儀の司式を行わせていただくこととなり、山の下福音教会の先生方からも了解を頂きました。
先週の日曜日には、いつものように礼拝に出席され、お気をつけて、また来週、と声をかけて送り出した姉妹の亡骸を前にしたとき、
もちろんそういうことは、人並みに生きていれば、必ず経験することなのですが、あまりにも突然すぎて、涙も出てきませんでした。
 以前、長谷部姉から、もし私が亡くなったときには、葬儀は近先生か、長女の夫である下山田先生に司式してほしいと言われました。
それは次女である長谷部愛実先生がまだ山の下の牧師であったときのことだったので、愛実先生でいいのでは、と冗談でかわしましたら、
愛実は情が深いのでおそらく号泣してしまって司式にならない、だから近先生か下山田先生が適任だろう、と言われました。
私も下山田先生も、情のない牧師に見られているのかと思いましたが、それが彼女のユーモアだったのだろうと思います。

 さて、イエスさまはかつて弟子たちに、「わたしの父の家には住まいがたくさんあります」と言われました。
このヨハネの黙示録の最後には、私たちに約束されている神の国がひとつのイメージとして示されています。
イメージ、と言ったのは、永遠無限の神にふさわしい都は、決して人間の常識や感覚で捉えきれるものではないからです。
それでもあえて計算してみるならば、この神の都は、一辺が約2200キロメートルの角砂糖のような形と記されています。
ここに地球の総人口よりやや多い、100億人が入ったら、一人あたりの居住スペースはどれくらいになるでしょうか。
計算したら、幅1キロ、奥行1キロ、天上までの高さ1キロのワンルームに住める計算になります。しかしこんな計算は意味がありません。
永遠無限の神にふさわしい都が、人間が計算できるような枠にとらわれることは決してないからです。
都の大きさにせよ、その城門や土台を彩るさまざまな種類の宝石にせよ、それは現実のものというよりも、ある一つの真理を伝えています。
神の都は、神の子どもとされた私たちのために、神があらゆる富を惜しみなく使って用意した、永遠無限の愛が溢れたところなのです。
そしてイエス・キリストを信じた者たちには、この永遠の都に入る資格が与えられています。
どんなに自分をこの都にふさわしくないと思っても、キリストが私の身代わりとなったゆえに、私たちは神の都の住民票が保証されているのです。

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posted by 近 at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2019.5.5「闇が闇でなくなる日」(詩139:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私のパソコンには「G-DATAインターネットセキュリティ」というウイルス対策ソフトが入っているのですが、最近ブログを更新しようとすると、
不正コードが含まれているのでアクセスをブロックしました」というメッセージが出て、操作ができなくなってしまいました。
それで「さくらのブログ」の運営会社が対応してくれるのを待っていたのですが、ウンともスンとも。
どうもG-DATAのほうの誤検出のようで、ただでさえ一週間遅れの更新がさらに遅くなってしまいました。
こんなブログでも更新を心待ちにしてくださっている全国10人くらいの方々(推測)、たいへん申し訳ありません。
「さくらのブログ」はたぶん無実ですので、とりあえず安心してご閲覧ください。
「ドイツ生まれの、世界が認めたG-DATA」(某電気カミソリのキャッチコピーみたい)という宣伝文句に惹かれて信じていたのですが、
まことの神様以外には頼ってはならないということでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』139篇1−12節


1.
 新しい元号(げんごう)に入りました。
「令和」ということばは万葉集からとったそうですが、じっとこの漢字を見つめていましたら、すごい発見をしました。おそらく私が日本で最初です。
まずメガネをとります。そうすると令和という文字が、なんと「全知」、すべてを知るという二文字に見えてくるのです。それだけです。
しかしどうせ元号を探すならば、日本人しかわからない、というか、日本人でもほとんど知らない万葉集ではなくて、
世界共通のベストセラー、聖書を通読してそこから元号をとればよいのに、と思わされます。とりあえず私の中では、今年は全知元年です。

 さて、今日の説教のテーマはもちろん「神の令和」ではなくて、「神の全知」です。
神の全知とは、「神はすべてを知っておられる」という、まことの神が持っておられる特質を表すことばです。そしてそれは祝福に満ちています。
たとえこれからどんなことが起ころうとも、神がすべてを知っておられるというこの事実は、私たちが平安を受け取ることができる基盤です。
人生にはなぜ、どうして、理解できない、そんなことが数多く起こりますが、私にはわからなくても、主はそのすべてを知っておられるのです。
クリスチャンでも、いな、クリスチャンだからこそ、神さまの守りを実感できないような孤独と疑いの中での戦いも経験します。
しかし神は次に起こることをすべて知っておられます。そして私たち、神の子どもとされた者たちを決してないがしろにすることはありません。
どんな苦しみも、そこには意味があります。地上に起こるいかなる事柄も、神にとって想定外、などということは一切存在しません。
「主はすべてを知っておられる」。この「全知」という二文字からなる神のご性質は、冷たい神学用語ではなく、血の通ったことばです。
どんなにお手上げの事態の中でも、神が私たちの知らないところで、とっくに御手を動かしてくださっていることを確信、期待することができます。
だからこそ、クリスチャンはどんなに絶望的な状況の中でも、安心して悩むことができます。心ゆくまで悲しむことができます。
三浦綾子さんだったか、遠藤周作さんだったか忘れましたか、「安心して絶望できる」という状況が確かにあります。
reiwa_zenchi.jpg並べて書くとこんな感じ。ちなみにフォントは龍神改。


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posted by 近 at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ

2018.4.28「賛美がのろいを飲み込んだ」(詩137:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日のニュース記事に「ホリエモンロケット、打ち上げ成功 民間単独で国内初」という見出しが躍っていました。おめでとうございます。
ホリエモンは青年時代にアニメ「オネアミスの翼」を見て以来、ロケットの打ち上げを夢見ていたと聞いたことがあります。
彼と同年代である私も高校生のとき、新潟市の映画館で5回これを観て、人生が変わったと言っても過言ではありません。
ただしホリエモンがロケット発射へのストーリーに注目したのに対し、私は別のところに影響を受けました。
ネタバレ注意ですが、主人公であるシロツグ(声:森本レオ)が路傍でリイクニという少女からいわゆるトラクトを受け取ります。
求道者を装いつつ、その子目当てに教会(?)に入り浸る中、ロケット打ち上げ計画に巻き込まれていく・・・・
(というか、彼女に良いところを見せようと自分から言い出しっぺになる)ストーリーが、当時の私にとって他人事と思えませんでした。
シロツグとリイクニはその後あれやこれやありましたが、結局、思いが結ばれることなく、危険な打ち上げへと向かいます。
信仰をカモフラージュしているように見えた彼でしたが、最後にはロケットの中で、人類に対する赦しと守りを「神」に祈るシーンが印象的です。
(といっても死んでしまうわけではなく、エンディングのラフ画からすると、ちゃんと帰還したようです)

音楽はあの坂本龍一、制作は後にエヴァンゲリオンで社会現象を起こした面々ですので、紛れもない名作です。
ふだんアニメなど見ないクリスチャンの方に一度は観て頂きたいと思いますが、感想には個人差があるでしょう。
しかし少なくともホリエモンと私はこの作品で人生が変わりました。勝手に友だちのように扱ってしまってすみません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』137篇1−9節


1.
 県外から友人が来たときに一番困るのは、新潟市の観光名所に連れて行ってくれと頼まれることです。
もと新潟市職員の私が言うのも何ですが、新潟市の名所って何だろ、と本気で悩んでしまいます。
マリンピア日本海、新潟ふるさと村、朱鷺メッセ、他にもいろいろありますが、平成になってできたものばかりです。歴史的名所とは言えません。
豊栄に住むようになって、河川蒸気というお菓子を知りました。そのパッケージに、川を悠々と進む蒸気船が書いてあります。
聞いたら、戦後しばらくまでは、こんな光景が新潟の川にはあったそうで、とくにむかし新潟市の中心部には、堀が張り巡らされていたそうです。
ところが昭和39年の新潟国体の前に、堀を全部埋め立てて、道路にしてしまった、と。なんと勿体ない。
堀を残しておけば、それだけでりっぱな観光資源になり、県外から来た友人も小舟に乗ってご満悦、となったのではないかと思います。
 じつはバビロンという町も、水路が張り巡らされた都市であったと言われています。
1節をお読みします。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」。
異国の町、柳の木が植えられた水路のそばで竪琴を奏でる人々の姿、何かロマンチックな場面に思えますが、そこには痛みがありました。
エルサレムの人々は、このバビロン軍に町を滅ぼされて、このバビロンに強制的に移住させられていました。
そしてエルサレムから連れてこられたひとりであるこの詩人は、バビロンの人々から、故郷の歌を歌ってみろと言われたのでしょう。
しかしシオンの歌、つまりイスラエルの歌は神をほめたたえる賛美です。それは神にささげられるために作られ、歌われたものです。
決して宴会の余興で歌えるようなものではない。そこで詩人は、木に竪琴をかけて、歌を拒絶し、バビロンの人々は彼を嘲りました。
 しかし詩人は、彼らの前では歌うことを拒みましたが、その一方で、決して神への賛美を忘れまいと心に誓いました。
5節から6節にはこうあります。「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右の手がその巧みさを忘れるように。
もしも私がお前を思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」
イスラエルの人々は、故郷エルサレムとはまったく風土の違うバビロンという異国で、まるで奴隷のように明日の見えない生活を過ごしていました。
その中で、唯一彼らの心の支えになっていたものは何でしょうか。それは、エルサレムに対する、たぎる思いでした。
エルサレムという町そのものをほめたたえるのではありません。エルサレムを神の都として建ててくださった、神への賛美。神への感謝です。

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posted by 近 at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ