こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日のニュース記事に「
ホリエモンロケット、打ち上げ成功 民間単独で国内初」という見出しが躍っていました。おめでとうございます。
ホリエモンは青年時代にアニメ「オネアミスの翼」を見て以来、ロケットの打ち上げを夢見ていたと聞いたことがあります。
彼と同年代である私も高校生のとき、新潟市の映画館で5回これを観て、人生が変わったと言っても過言ではありません。
ただしホリエモンがロケット発射へのストーリーに注目したのに対し、私は別のところに影響を受けました。
ネタバレ注意ですが、主人公であるシロツグ(声:森本レオ)が路傍でリイクニという少女からいわゆるトラクトを受け取ります。
求道者を装いつつ、その子目当てに教会(?)に入り浸る中、ロケット打ち上げ計画に巻き込まれていく・・・・
(というか、彼女に良いところを見せようと自分から言い出しっぺになる)ストーリーが、当時の私にとって他人事と思えませんでした。
シロツグとリイクニはその後あれやこれやありましたが、結局、思いが結ばれることなく、危険な打ち上げへと向かいます。
信仰をカモフラージュしているように見えた彼でしたが、最後にはロケットの中で、人類に対する赦しと守りを「神」に祈るシーンが印象的です。
(といっても死んでしまうわけではなく、エンディングのラフ画からすると、ちゃんと帰還したようです)
音楽はあの坂本龍一、制作は後にエヴァンゲリオンで社会現象を起こした面々ですので、紛れもない名作です。
ふだんアニメなど見ないクリスチャンの方に一度は観て頂きたいと思いますが、感想には個人差があるでしょう。
しかし少なくともホリエモンと私はこの作品で人生が変わりました。勝手に友だちのように扱ってしまってすみません。
週報は
こちらです。
聖書箇所 『詩篇』137篇1−9節
1 バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
2 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
3 それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。
4 私たちがどうして、異国の地にあって【主】の歌を歌えようか。
5 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。
6 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。
7 【主】よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らを思い出してください。
8 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
9 おまえの子どもたちを捕らえ、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。
1.
県外から友人が来たときに一番困るのは、新潟市の観光名所に連れて行ってくれと頼まれることです。
もと新潟市職員の私が言うのも何ですが、新潟市の名所って何だろ、と本気で悩んでしまいます。
マリンピア日本海、新潟ふるさと村、朱鷺メッセ、他にもいろいろありますが、平成になってできたものばかりです。歴史的名所とは言えません。
豊栄に住むようになって、河川蒸気というお菓子を知りました。そのパッケージに、川を悠々と進む蒸気船が書いてあります。
聞いたら、戦後しばらくまでは、こんな光景が新潟の川にはあったそうで、とくにむかし新潟市の中心部には、堀が張り巡らされていたそうです。
ところが昭和39年の新潟国体の前に、堀を全部埋め立てて、道路にしてしまった、と。なんと勿体ない。
堀を残しておけば、それだけでりっぱな観光資源になり、県外から来た友人も小舟に乗ってご満悦、となったのではないかと思います。
じつはバビロンという町も、水路が張り巡らされた都市であったと言われています。
1節をお読みします。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」。
異国の町、柳の木が植えられた水路のそばで竪琴を奏でる人々の姿、何かロマンチックな場面に思えますが、そこには痛みがありました。
エルサレムの人々は、このバビロン軍に町を滅ぼされて、このバビロンに強制的に移住させられていました。
そしてエルサレムから連れてこられたひとりであるこの詩人は、バビロンの人々から、故郷の歌を歌ってみろと言われたのでしょう。
しかしシオンの歌、つまりイスラエルの歌は神をほめたたえる賛美です。それは神にささげられるために作られ、歌われたものです。
決して宴会の余興で歌えるようなものではない。そこで詩人は、木に竪琴をかけて、歌を拒絶し、バビロンの人々は彼を嘲りました。
しかし詩人は、彼らの前では歌うことを拒みましたが、その一方で、決して神への賛美を忘れまいと心に誓いました。
5節から6節にはこうあります。「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右の手がその巧みさを忘れるように。
もしも私がお前を思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」
イスラエルの人々は、故郷エルサレムとはまったく風土の違うバビロンという異国で、まるで奴隷のように明日の見えない生活を過ごしていました。
その中で、唯一彼らの心の支えになっていたものは何でしょうか。それは、エルサレムに対する、たぎる思いでした。
エルサレムという町そのものをほめたたえるのではありません。エルサレムを神の都として建ててくださった、神への賛美。神への感謝です。
続きを読む