こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』4章32節−5章11節
1.
32節、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」。
教会は、当時の社会では想像できないような、自由な世界でした。奴隷も主人もない世界。異邦人もユダヤ人もない世界。
どんな人間も、それこそ肌の色でも、あるいは人格でもなく、ただイエス・キリストを救い主として信じたことで、すべてを分かち合える世界。
それが教会でした。信じる者たちは、ただ自発的な意思に基づいて、仲間のためにささげていました。
ささげたからといってみなの前でほめられることはありません。ささげなかったからといってみなの前で糾弾されることもありません。
ただ自発的な意思に基づいて、すべての恵みを共有できる国。それが教会でした。
その力の源はどこにあったのでしょうか。続く33節にはこう書いてあります。
「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」。
力の源はみことばでした。財産が目減りしていく不安をかき消したのは、やがて天の御国でいただける希望でした。
みことばを通して、彼らは地上の財産に比べられない、大きな恵みを与えられていました。
使徒たちは力強く証ししました。イエスはよみがえられた。そして私たちも、たとえ死んだとしてもイエスと共によみがえるのだと。
地上のものに対する執着を、みことばはイエスに対する執着へと変えました。
人種、国籍、職業、血筋、すべての壁がこわされ、そこにあるのはキリストの復活を信じる者というひとつだけ。
その恵みへの感謝として、静かに使徒の足もとに財産をささげ、乏しい者がひとりもいない。そこには完全な自由がありました。
自分だけが自由であればよいという混沌じみた自由ではなく、隣人を顧みて、何をすべきかを考えていく秩序立った自由がありました。
私たちに自由を与えるのは教会の居心地のよさではありません。自由を与えてくださったイエス・キリストとそのことばをかみしめることです。
この世では何をどれだけ持っているかということが大切にされます。しかし教会ではそのような誇りは何の役にも立ちません。
生まれた時からすり込まれてきた価値観がみことばによって砕かれるとき、そこには自由があります。
自由は、人を変えます。自由は、変わることを恐れません。真の自由は、一人ひとりがみことばをかみしめていくことでもたらされていきます。
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最近の記事
(02/02)2025.2.2主日第二礼拝のプレミア公開
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
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2016.6.16「この御名以外に救いなし」(使徒4:1-12)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週の月〜火にかけて、教団の退職金委員会があって、東京・幡ヶ谷の教団事務所で一泊してまいりました。
火曜の夕方、会議も滞りなく終わり、いざ帰ろうとしたら、教団総主事のSO田先生から「村上おめでとうございます」と言われました。
献堂式は一年くらい前に終わっているので何か違和感をおぼえながら、とりあえずお礼を言って帰って来たのですが、
乗り継ぎの待ち時間やらに時間がかかって、教会に着いたのは夜の10時前でした。
帰宅の感謝を妻と一緒に祈り、牧師館の書斎に戻ってパソコンを立ち上げたところ、すぐに大きな揺れが!!
物が落ちたり壊れたりというのはなかったのですが、しばらくしてニュースを確認したら、県内では村上の被害が大きいということ。
経費節減に努めてなんとか建てた村上の新会堂が頭をよぎりました。しかし後で主任牧師にメールで確認したら、無事だったということ。
「村上おめでとうございます」という時機を逸したような挨拶は、まさかこのことだったのか、と一瞬思いましたが、たぶん気のせいですね。
あるいはエスパー?とりあえずお祈りくださった県外の皆様、ありがとうございました。週報はこちらです。
アメリカの次期国防長官もエスパーだそうです。名字が。
聖書箇所 『使徒の働き』4章1−12節
1.
少し前に、ある教会を訪問したことがありました。そこはできたばかりの教会堂で、まだ木の香りが漂うような、すばらしい造りでした。
しかし新しい会堂へのねたみでは決してありませんが、ひとつだけ、どうしても違和感をおぼえずにはいられなかったものがありました。
それは会堂正面の十字架です。ちょうど皆さんから見たら、私の後ろに見える、壁のこの十字架です。
その十字架が、壁に固定されておらず、三方から太い針金で固定されていたのです。これだけはとても残念なことでした。
みなさんが他の教会に出席してみるとわかりますが、どこの教会でも十字架は壁に取り付けられていると思います。
教会によっては、壁そのものに十字架の模様が刻まれていたり、壁が十字架のようなデザインの扉になっているところもあります。
これは神学的背景があるのです。十字架はこの世界にしっかりと打ちつけられ、動かざるもの、という信仰告白が表れているのです。
十字架の縦棒は神と私との関係、十字架の横棒は私と他人またはこの世界との関係を表しています。
縦棒のほうが長いのは、神と私との関係が回復することがまず必要だからです。それができて、横棒つまり他者との関係も祝福されます。
この十字架は空中に浮かんでいるものでは世を変えることができません。この世界に、しっかりと打ちつけられなければならないのです。
とはいえ、この世界は、あまりにも地盤が脆すぎて、十字架が打ち立てられてもそれを受け止めることができないというのも確かなことです。
地盤とは文字通りの意味ではなく、人々の心です。「空気を読め」と言われます。長いものに巻き付き、杭が打たれないように身をひそめ、
平均的な高齢者世帯の収入が毎月5万円不足しているという報告は、はじめから見なかったことにされます。
矛盾をオブラートに包み、危機を先送りする世界。学校、家庭、職場、地域、あらゆる場所で、クリスチャンは傷つき、悩みます。
しかしまずこのことを忘れないでください。私たちの持っている福音は、世の矛盾をえぐり出すのです。
人々が触れてほしくない矛盾、隠しておきたい罪、悪と知っていてもそれをなあなあにしてしまう慣例、そのようなものを福音はえぐり出します。
今日の聖書箇所である、使徒ペテロのことばは、まさにそのような戦いの中で告白されたものなのです。
続きを読む
今週の月〜火にかけて、教団の退職金委員会があって、東京・幡ヶ谷の教団事務所で一泊してまいりました。
火曜の夕方、会議も滞りなく終わり、いざ帰ろうとしたら、教団総主事のSO田先生から「村上おめでとうございます」と言われました。
献堂式は一年くらい前に終わっているので何か違和感をおぼえながら、とりあえずお礼を言って帰って来たのですが、
乗り継ぎの待ち時間やらに時間がかかって、教会に着いたのは夜の10時前でした。
帰宅の感謝を妻と一緒に祈り、牧師館の書斎に戻ってパソコンを立ち上げたところ、すぐに大きな揺れが!!
物が落ちたり壊れたりというのはなかったのですが、しばらくしてニュースを確認したら、県内では村上の被害が大きいということ。
経費節減に努めてなんとか建てた村上の新会堂が頭をよぎりました。しかし後で主任牧師にメールで確認したら、無事だったということ。
「村上おめでとうございます」という時機を逸したような挨拶は、まさかこのことだったのか、と一瞬思いましたが、たぶん気のせいですね。
あるいはエスパー?とりあえずお祈りくださった県外の皆様、ありがとうございました。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』4章1−12節
1.
少し前に、ある教会を訪問したことがありました。そこはできたばかりの教会堂で、まだ木の香りが漂うような、すばらしい造りでした。
しかし新しい会堂へのねたみでは決してありませんが、ひとつだけ、どうしても違和感をおぼえずにはいられなかったものがありました。
それは会堂正面の十字架です。ちょうど皆さんから見たら、私の後ろに見える、壁のこの十字架です。
その十字架が、壁に固定されておらず、三方から太い針金で固定されていたのです。これだけはとても残念なことでした。
みなさんが他の教会に出席してみるとわかりますが、どこの教会でも十字架は壁に取り付けられていると思います。
教会によっては、壁そのものに十字架の模様が刻まれていたり、壁が十字架のようなデザインの扉になっているところもあります。
これは神学的背景があるのです。十字架はこの世界にしっかりと打ちつけられ、動かざるもの、という信仰告白が表れているのです。
十字架の縦棒は神と私との関係、十字架の横棒は私と他人またはこの世界との関係を表しています。
縦棒のほうが長いのは、神と私との関係が回復することがまず必要だからです。それができて、横棒つまり他者との関係も祝福されます。
この十字架は空中に浮かんでいるものでは世を変えることができません。この世界に、しっかりと打ちつけられなければならないのです。
とはいえ、この世界は、あまりにも地盤が脆すぎて、十字架が打ち立てられてもそれを受け止めることができないというのも確かなことです。
地盤とは文字通りの意味ではなく、人々の心です。「空気を読め」と言われます。長いものに巻き付き、杭が打たれないように身をひそめ、
平均的な高齢者世帯の収入が毎月5万円不足しているという報告は、はじめから見なかったことにされます。
矛盾をオブラートに包み、危機を先送りする世界。学校、家庭、職場、地域、あらゆる場所で、クリスチャンは傷つき、悩みます。
しかしまずこのことを忘れないでください。私たちの持っている福音は、世の矛盾をえぐり出すのです。
人々が触れてほしくない矛盾、隠しておきたい罪、悪と知っていてもそれをなあなあにしてしまう慣例、そのようなものを福音はえぐり出します。
今日の聖書箇所である、使徒ペテロのことばは、まさにそのような戦いの中で告白されたものなのです。
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2019.6.9「願いを託された者たち」(マタイ28:16-20)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日は(といっても現在の時点で六日前ですが)ペンテコステ特別礼拝でした。
教団が派遣している数組の国外宣教師家族からのビデオレターを視聴し、メッセージを語りました。
ビデオレターに関しては、宣教地が特定されると危険な場合があるかもしれませんので、アップを控えさせていただきます。
それと、もう明日に迫りましたが、TCU新潟地区支援会の特別講演会を行います。来てね!

週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』28章16−20節
1.
今、それぞれの宣教師家族からのビデオレターをご覧いただきました。
私たちが所属する、この日本同盟基督教団が、最初の海外宣教師を送り出してから、今年で55年になります。
ずいぶん昔のように思われるかもしれませんが、戦前から続く同盟教団の歴史に比べたら、始めるまでに時間がかかりました。
それは、今も聞こえてくる、クリスチャン自身の狭い考えにとらわれていたことは否めません。
国内宣教でさえ、まだ1%しか進んでいないではないか。海外に宣教師を送る予算と人材があれば、まず国内宣教に力を注ぐべきだ。
それが確立して余裕が生まれたら、海外宣教師を派遣すべきだ。
しかし55年前の教団理事たちは先見の明がありました。余裕が生まれるのを待っていたら、いつまで経っても派遣できなかったでしょう。
最初の派遣まで時間がかかったとは言え、55年にわたって着実に海外宣教師を送り、支えてきた、この教団の歩みを感謝します。
国外宣教は、すでに二千年前から、イエス様が私たちにゆだねられた働きです。
さきほど、司会者に呼んで頂いた聖書のなかで、イエス様はこう語っておられます。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。
これは日本語では「大宣教命令」、英語では「the Great Commission」と呼ばれます。
Greatは「大」ですが、じつはCommissionには命令という意味はありません。
「委託」です。本来自分がする仕事を誰かに代わりにしてもらうということです。
このイエス様の言葉は、じつは命令ではないのです。ご自分がしたいと願っていることを、私たちに分けてくださったのです。
私は、救われたばかりの頃にこのみことばが大宣教命令と言うのだと知りました。
最初は、「命令」という言葉に心が震え、背筋がシャンとするのを感じました。しかしそのうち面倒くさくなり、背筋も丸くなりました。
なぜでしょうか。「命令」を果たせるだけの熱意も賜物も自分にはない、とあきらめてしまったからです。
代わりに、牧師や宣教師の皆さん頑張ってください、と考えて、献金を少し増やしました。
イエス様は、私の命令は重荷にはなりませんと聖書のどこかで約束しておられますが、実際重荷に思った人が実際いたわけです。
しかしイエス様は弟子たちに、命令ではなく、委託として宣教を任せられました。
「委託」という言葉は、「命令」に比べると、どうしても弱っちい響きがあります。
しかし「委託」には、それをやり遂げる力をはじめから認められているゆえの約束事というニュアンスがあります。
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本日は(といっても現在の時点で六日前ですが)ペンテコステ特別礼拝でした。
教団が派遣している数組の国外宣教師家族からのビデオレターを視聴し、メッセージを語りました。
ビデオレターに関しては、宣教地が特定されると危険な場合があるかもしれませんので、アップを控えさせていただきます。
それと、もう明日に迫りましたが、TCU新潟地区支援会の特別講演会を行います。来てね!

週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』28章16−20節
1.
今、それぞれの宣教師家族からのビデオレターをご覧いただきました。
私たちが所属する、この日本同盟基督教団が、最初の海外宣教師を送り出してから、今年で55年になります。
ずいぶん昔のように思われるかもしれませんが、戦前から続く同盟教団の歴史に比べたら、始めるまでに時間がかかりました。
それは、今も聞こえてくる、クリスチャン自身の狭い考えにとらわれていたことは否めません。
国内宣教でさえ、まだ1%しか進んでいないではないか。海外に宣教師を送る予算と人材があれば、まず国内宣教に力を注ぐべきだ。
それが確立して余裕が生まれたら、海外宣教師を派遣すべきだ。
しかし55年前の教団理事たちは先見の明がありました。余裕が生まれるのを待っていたら、いつまで経っても派遣できなかったでしょう。
最初の派遣まで時間がかかったとは言え、55年にわたって着実に海外宣教師を送り、支えてきた、この教団の歩みを感謝します。
国外宣教は、すでに二千年前から、イエス様が私たちにゆだねられた働きです。
さきほど、司会者に呼んで頂いた聖書のなかで、イエス様はこう語っておられます。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。
これは日本語では「大宣教命令」、英語では「the Great Commission」と呼ばれます。
Greatは「大」ですが、じつはCommissionには命令という意味はありません。
「委託」です。本来自分がする仕事を誰かに代わりにしてもらうということです。
このイエス様の言葉は、じつは命令ではないのです。ご自分がしたいと願っていることを、私たちに分けてくださったのです。
私は、救われたばかりの頃にこのみことばが大宣教命令と言うのだと知りました。
最初は、「命令」という言葉に心が震え、背筋がシャンとするのを感じました。しかしそのうち面倒くさくなり、背筋も丸くなりました。
なぜでしょうか。「命令」を果たせるだけの熱意も賜物も自分にはない、とあきらめてしまったからです。
代わりに、牧師や宣教師の皆さん頑張ってください、と考えて、献金を少し増やしました。
イエス様は、私の命令は重荷にはなりませんと聖書のどこかで約束しておられますが、実際重荷に思った人が実際いたわけです。
しかしイエス様は弟子たちに、命令ではなく、委託として宣教を任せられました。
「委託」という言葉は、「命令」に比べると、どうしても弱っちい響きがあります。
しかし「委託」には、それをやり遂げる力をはじめから認められているゆえの約束事というニュアンスがあります。
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2019.6.2「敵は本能にあり」(ロマ7:14-25)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の説教題は、だれもが思いつきそうなネタで申し訳ありません。お恥ずかしい限りです。
日曜日がちょうど6月2日(本能寺の変の当日)と重なる日を狙っていたのですが、
今回を逃すと次は2024年になってしまいますので、明智光秀と同じようにためらいながらも決行しました。
歴史の授業ではイスカリオテのユダと並んで裏切り者の代名詞のような光秀氏ですが、近年再評価が進んでいるようです。
聖書箇所 『ローマ人への手紙』7章14節−25節
1.
今から約440年前の、ちょうど今日6月2日、日本の歴史で外すことのできない、「本能寺の変」という出来事が起こりました。
今日の説教題は、そのとき織田信長を裏切った家来、明智光秀の言葉、「敵は本能寺にあり」をもじったものです。
なんか思いつきで説教を作っているのかと言われそうですが、決してそんなことはなく、今日の説教は構想に何年もかけております。
これ以前に6月2日が日曜日だったのが2013年。それから6年間、本能寺の変と日曜日が重なる日を待ち続け、今日を迎えました。
なぜ「本能寺の変」が起きたのか、つまりなぜ明智光秀が織田信長を裏切ったのか。これは日本史最大のミステリーと呼ばれています。
私が子どもの頃、本で読んだのは、織田信長という人間は有能だが、短気な性格で、光秀もいじめられていたから、というものでした。
ところが、近年の研究で明らかになったのは、信長は短気どころか、あの徳川家康も及ばないほど、忍耐深い人であったという事実です。
こんな狂歌を聞いたことはないでしょうか。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。これは織田信長の性格を指したものだと言われます。
それに対して、徳川家康が「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。
でもじつは家康は、子どもの頃から信長を兄のように慕っていて、「鳴くまで待とう」は信長をそのまま真似ていたのだというのです。
忍耐がなかったら、信長も秀吉も家康も、だれであろうとも、天下を取ることはできないのですね。
よかった、聖書とつながりました。一に忍耐、二に忍耐、忍耐してこそ、約束のものを手に入れることができるのです。
このように信長のイメージがずっと誤解されてきたように、信仰の世界にもずっと誤解されてきた言葉があります。
それは、「律法」です。律法とは、旧約時代に神がイスラエルに与えられたさまざまな命令を指します。
この「律法」から「律法主義」という言葉が生まれました。神の命令を完全に守ることで救われるという、間違った考えです。
でも律法と律法主義はまったく異なるのです。律法は、恵みの反対語ではなく、律法そのものが神の恵みのひとつです。
14節をご覧ください。パウロはこう語っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています」。
「霊的」とは、神から来たもの、という意味です。神は私たちに幸いを与えるために律法を与えられた。それを実行するならば確かに救われる。
ですがこの言葉には続きがあります。パウロはため息交じりにこう語ります。「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」。
私、これはすべての人間、と読み替えてください。律法がどんなによいものであったとしても、それを行う力がない、それが私たちなのです。
続きを読む
今日の説教題は、だれもが思いつきそうなネタで申し訳ありません。お恥ずかしい限りです。
日曜日がちょうど6月2日(本能寺の変の当日)と重なる日を狙っていたのですが、
今回を逃すと次は2024年になってしまいますので、明智光秀と同じようにためらいながらも決行しました。
歴史の授業ではイスカリオテのユダと並んで裏切り者の代名詞のような光秀氏ですが、近年再評価が進んでいるようです。
・側室を持つことが当たり前の時代、正室しか持たず、最後まで添い遂げた個人的には25年前の大河ドラマで村上弘明さんが演じた光秀の誠実なイメージが印象に残っています。週報はこちらです。
・娘はクリスチャンになった(明智玉子=細川ガラシャ)
・信長からキンカ頭(禿?)とあだ名をつけられたが、我慢し続けた
聖書箇所 『ローマ人への手紙』7章14節−25節
1.
今から約440年前の、ちょうど今日6月2日、日本の歴史で外すことのできない、「本能寺の変」という出来事が起こりました。
今日の説教題は、そのとき織田信長を裏切った家来、明智光秀の言葉、「敵は本能寺にあり」をもじったものです。
なんか思いつきで説教を作っているのかと言われそうですが、決してそんなことはなく、今日の説教は構想に何年もかけております。
これ以前に6月2日が日曜日だったのが2013年。それから6年間、本能寺の変と日曜日が重なる日を待ち続け、今日を迎えました。
なぜ「本能寺の変」が起きたのか、つまりなぜ明智光秀が織田信長を裏切ったのか。これは日本史最大のミステリーと呼ばれています。
私が子どもの頃、本で読んだのは、織田信長という人間は有能だが、短気な性格で、光秀もいじめられていたから、というものでした。
ところが、近年の研究で明らかになったのは、信長は短気どころか、あの徳川家康も及ばないほど、忍耐深い人であったという事実です。
こんな狂歌を聞いたことはないでしょうか。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。これは織田信長の性格を指したものだと言われます。
それに対して、徳川家康が「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」。
でもじつは家康は、子どもの頃から信長を兄のように慕っていて、「鳴くまで待とう」は信長をそのまま真似ていたのだというのです。
忍耐がなかったら、信長も秀吉も家康も、だれであろうとも、天下を取ることはできないのですね。
よかった、聖書とつながりました。一に忍耐、二に忍耐、忍耐してこそ、約束のものを手に入れることができるのです。
このように信長のイメージがずっと誤解されてきたように、信仰の世界にもずっと誤解されてきた言葉があります。
それは、「律法」です。律法とは、旧約時代に神がイスラエルに与えられたさまざまな命令を指します。
この「律法」から「律法主義」という言葉が生まれました。神の命令を完全に守ることで救われるという、間違った考えです。
でも律法と律法主義はまったく異なるのです。律法は、恵みの反対語ではなく、律法そのものが神の恵みのひとつです。
14節をご覧ください。パウロはこう語っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています」。
「霊的」とは、神から来たもの、という意味です。神は私たちに幸いを与えるために律法を与えられた。それを実行するならば確かに救われる。
ですがこの言葉には続きがあります。パウロはため息交じりにこう語ります。「しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」。
私、これはすべての人間、と読み替えてください。律法がどんなによいものであったとしても、それを行う力がない、それが私たちなのです。
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2019.5.26「私を遣わしてください」(イザヤ6:1-8)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週は、新潟山形宣教区の一斉講壇交換でした。
当教会では、前新潟福音教会牧師で、現在ニューヨーク日本人教会への派遣を控えておられる笹川雅弘先生をお迎えしました。
笹川先生から、説教のアップロードを許可していただきましたので、しばらく公開いたします。
説教の後半、パワーポイントによるプレゼンがありますが、カメラが壁面固定式なので音声しか入っていません。残念。
週報はこちらです。
聖書箇所 『イザヤ書』6章1−8節
今週は、新潟山形宣教区の一斉講壇交換でした。
当教会では、前新潟福音教会牧師で、現在ニューヨーク日本人教会への派遣を控えておられる笹川雅弘先生をお迎えしました。
笹川先生から、説教のアップロードを許可していただきましたので、しばらく公開いたします。
説教の後半、パワーポイントによるプレゼンがありますが、カメラが壁面固定式なので音声しか入っていません。残念。
週報はこちらです。
聖書箇所 『イザヤ書』6章1−8節