こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週の水曜日、わが同盟教団の元理事長である故・吉持章先生の合同お別れ会が千葉県印西市にあるTCUチャペルで行われました。
東京くらいだと新幹線でさっと行こうかなという気持ちになりますが、千葉となると、東京から先がまた遠いのですね。
水曜祈祷会もあるし、どうしようかなと思っていましたが、結局妻の勧めもあり、新潟−成田間を運行している飛行機で行きました。
ところが一日一便なので、水曜午後1時からのお別れ会に出るために、わざわざ前日、火曜日の午後2時の便で行かなければなりません。
夕方には予約したホテルのある駅に着いたので、早めの夕食を済まそうと近くのショッピングモールをぶらつきました。
すると、すれ違った、ひとりのご婦人から声をかけられました。失礼ながら、お顔に見覚えがありません。
「どなた様ですか」と聞くと「小林の妻です」という答え。ああ!二年前に帰天された小林高徳先生の奥様でした。
聞くと、二年前にご主人を亡くされたあと、インターネットでご主人の名前を検索していたときに、当ブログの記事を見かけたそうです。
http://toyosakakyokai.sblo.jp/article/181532570.html
http://toyosakakyokai.sblo.jp/article/181700515.html
一度メールをしたかったのですが、ということでした。なんという偶然、いやいや、神が与えてくださった邂逅でしょうか。
じつはこのような経験は初めてではなくて、5年前に石川弘司先生が亡くなられたときにも、私自身は葬儀に出席できなかったのですが、
「葬儀に出席してくださった方から近先生のブログ記事のコピーを見せていただいた」と、
ご遺族の方(現・鹿児島いずみ教会の牧師夫人、瓜生園子先生)が後日挨拶してくださったことがありました。
ブログを7年続けてコメントは25件(うち半分は私からの返事)しかなくても、見ておられる方はいるのですね。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』9章1-22節
1.
今日は、救いは神の恵みであるという話をしたいと思います。
これには、二種類の意味を込めています。ひとつは、救いを経験する本人にとって、恵みであるということ。
そしてもうひとつは、ひとりの人の救いにあたって、神はまわりのクリスチャンもその救いの目撃者、協力者、当事者としてくださるという恵み。
さて、サウロという青年がいました。彼はユダヤ人として英才教育を受けた人でした。
そして自分の知識と信仰に照らして、クリスチャンこそは偽りの教えを信じている、神の敵と信じ込んでいました。
クリスチャンを見つけては捕まえて牢に入れ、クリスチャンをこの地上から消し去ることに自分の全エネルギーを注ぎ込んでいました。
それでも彼は良心の呵責をおぼえることはありませんでした。なぜなら、クリスチャンを滅ぼすことが神の与えられた使命だと信じていたからです。
サウロは、クリスチャンが逃げた先であるシリヤのダマスコにまで追いかけていくための紹介状を得るために、しもべたちと道を進んでいました。
しかしそのときに、イエス・キリストは、まばゆい光としてサウロの前に突如現れたのです。それは彼に見えぬ光、彼にしか聞こえない声でした。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と。その経験こそ、多くの画家が描き残している、「サウロの回心」と呼ばれる出来事です。
もしサウロがこの時救われなかったら、キリスト教はここまで成長していなかっただろうと、多くの歴史家が口を揃えて言います。
しかし神は、サウロの能力にほれて突然救ったのではありません。この世界が造られる前から、サウロは救いに定められていたのです。
神にはじめから選ばれていた者でありながら、サウロはそのようなことはまったく知らず、良心の呵責もおぼえずに教会を迫害していました。
そう考えてみると、救いというのはなんと不思議なのでしょうか。
この人は救われるはずがないと、クリスチャンがため息をつくような人でさえ、はじめから神に選ばれているかもしれないのです。
その人の心がいまはどうであろうとも、救われる希望はあらゆる人から取り去られてはいません。
サウロはクリスチャンをこの世から抹殺しようとしていました。しかし神はこのサウロを救われました。救いは、ただ一方的な、神のみわざです。
だからこそ、私たちには希望があります。もし救いが人に左右されるものであるとしたら、それは恵みではありません。
しかしたとえその人の心がどれだけ頑なに見えたとしても、神が働いてくださる時、その人は変わるのです。私たちもそうだったのではないでしょうか。
でも、確かに救われました。それは、私たちの救いを信じて、あきらめずに福音を伝えてくれた誰かがいたからです。
もしあなたが先に救われた者であれば、今度はあなたがあきらめずに福音を伝える誰かになるべきです。
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2019.7.14「散らされてこそ生きる」(使徒8:4-8、26-40)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の冒頭で触れている、不思議な生き物、プラナリア。
私は説教の中に登場する事物について、週報の表紙に掲載することが多いのですが、さすがにこの生き物は掲載できませんでした。
確かに割りとかわいい顔をしてはいるのですが、やっぱり、こういうの苦手な人もいますしね。




クリックすると、Amazonの商品ページに飛びますが、突然課金されたりはしませんのでご安心ください。
ちなみに変な生き物の能力を使える人たちが火星でゴ○ブリと対決するという壮大なマンガ『テラフォーマーズ』では、
13巻にプラナリアの詳しい解説がありますので、興味があったら読んでください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』8章4-8、26-40節
1.
プラナリアという生き物をご存じでしょうか。日本でも、川や池で見つけることができる、長さ3センチくらいの生き物です。
形はヒルに似ていて気持ち悪いのですが、よく見るとマンガみたいなどんぐり眼があって、だんだんかわいく見えてくるので不思議です。
このプラナリアの驚くべき再生能力が、近年、医学の分野で大変注目されています。
長さ3センチのプラナリアを頭から尻尾までメスで切って10こに分けると、なんとそれぞれに脳や内臓ができて10匹になったそうです。
一応雄と雌がいるようですが、別に相手がいなくても問題ない。
ある程度成長すると、からだの真ん中がくびれてきて、ぷつっと切れてしまう。そしてそれぞれが成長して、二匹に増えるのです。
ステパノの殉教から始まった大迫害によって、エルサレムから散らされていったクリスチャンたちは、まさにこのプラナリアのようでした。
ひとりひとりのクリスチャンは、その散らされた場所、ユダヤ、サマリヤなどでみことばを伝え、そこに信じる者の群れが生まれていったのです。
プラナリアのからだが切れ端から再生する以上に、神のからだは、どんなにばらばらに引きちぎられても、決して死ぬことはないのです。
振り返ってみると、迫害によってクリスチャンがエルサレム教会から散らされていくことは、はじめから計画されていた神のみこころでした。
イエス様は天に上る前に、弟子たちにこう約束しておられたからです。
聖霊を受けるとき、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、および地の果てにまで私の証人となる、と。
しかしペンテコステの出来事からしばらく経っても、宣教はエルサレムの外にはなかなか進んでいきませんでした。
神のカレンダーは、今こそめくられたのです。この迫害こそが、神の用意しておられた、そのときだったのです。
エルサレムにいた信者たちは無我夢中で、取るものも取りあえず、町の外に逃げ出していったはずです。
これからどうなるのか、という不安があったでしょう。どうして神はこのようなことを許されるのか、と叫んだことでしょう。
しかしギリシャ語で「散らされる」という言葉は、直訳すると「種が撒かれる」という意味です。
イスラエルの農業では、種を植えるとか苗を植えるという発想はありません。種を袋から取り出して勢いよくまき散らします。
まさにこれが神のやり方です。神は、世界に向かってクリスチャンという種をまき散らすことで、祝福を広げていくのです。
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今回の説教の冒頭で触れている、不思議な生き物、プラナリア。
私は説教の中に登場する事物について、週報の表紙に掲載することが多いのですが、さすがにこの生き物は掲載できませんでした。
確かに割りとかわいい顔をしてはいるのですが、やっぱり、こういうの苦手な人もいますしね。
クリックすると、Amazonの商品ページに飛びますが、突然課金されたりはしませんのでご安心ください。
ちなみに変な生き物の能力を使える人たちが火星でゴ○ブリと対決するという壮大なマンガ『テラフォーマーズ』では、
13巻にプラナリアの詳しい解説がありますので、興味があったら読んでください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』8章4-8、26-40節
1.
プラナリアという生き物をご存じでしょうか。日本でも、川や池で見つけることができる、長さ3センチくらいの生き物です。
形はヒルに似ていて気持ち悪いのですが、よく見るとマンガみたいなどんぐり眼があって、だんだんかわいく見えてくるので不思議です。
このプラナリアの驚くべき再生能力が、近年、医学の分野で大変注目されています。
長さ3センチのプラナリアを頭から尻尾までメスで切って10こに分けると、なんとそれぞれに脳や内臓ができて10匹になったそうです。
一応雄と雌がいるようですが、別に相手がいなくても問題ない。
ある程度成長すると、からだの真ん中がくびれてきて、ぷつっと切れてしまう。そしてそれぞれが成長して、二匹に増えるのです。
ステパノの殉教から始まった大迫害によって、エルサレムから散らされていったクリスチャンたちは、まさにこのプラナリアのようでした。
ひとりひとりのクリスチャンは、その散らされた場所、ユダヤ、サマリヤなどでみことばを伝え、そこに信じる者の群れが生まれていったのです。
プラナリアのからだが切れ端から再生する以上に、神のからだは、どんなにばらばらに引きちぎられても、決して死ぬことはないのです。
振り返ってみると、迫害によってクリスチャンがエルサレム教会から散らされていくことは、はじめから計画されていた神のみこころでした。
イエス様は天に上る前に、弟子たちにこう約束しておられたからです。
聖霊を受けるとき、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、および地の果てにまで私の証人となる、と。
しかしペンテコステの出来事からしばらく経っても、宣教はエルサレムの外にはなかなか進んでいきませんでした。
神のカレンダーは、今こそめくられたのです。この迫害こそが、神の用意しておられた、そのときだったのです。
エルサレムにいた信者たちは無我夢中で、取るものも取りあえず、町の外に逃げ出していったはずです。
これからどうなるのか、という不安があったでしょう。どうして神はこのようなことを許されるのか、と叫んだことでしょう。
しかしギリシャ語で「散らされる」という言葉は、直訳すると「種が撒かれる」という意味です。
イスラエルの農業では、種を植えるとか苗を植えるという発想はありません。種を袋から取り出して勢いよくまき散らします。
まさにこれが神のやり方です。神は、世界に向かってクリスチャンという種をまき散らすことで、祝福を広げていくのです。
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2019.7.7「ステパノのように」(使徒6:1-15、7:51-8:3)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
恒例のアイスクリームパーティのご案内です。恒例と言っても、去年からですが。

楽しそうな様子が伝わるでしょうか。去年の牧師のコスプレは画家でしたが、今年はさらにスケールアップ!
パ○レ○ツ・オ○・カ○ビ○ンです。何かイベントがあるたびについコスプレをしてしまうんですが、悪い病気でしょうか。
とりあえずご期待ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』6章1-15、7章51-8章3節
1.
信仰のゆえに迫害を受けて命を落とすことを殉教と言います。
初代教会は、この6章に至るまで、小さな迫害は受けていましたが、まだだれも殉教者は出していませんでした。
それどころか、先週の礼拝説教の最後の部分にあったように、ガマリエルという人物の口添えによって、安全が保証されていたのです。
ところが、じつは神様のご計画は、このまま教会が安全に宣教を進めていくということではなかったのです。
このステパノの殉教をきっかけとして、ガマリエルの仲裁を無視した、徹底的な迫害、弾圧、そして殺害が起こっていきます。
そしてこのステパノの殉教から約300年間のあいだ、教会は絶え間ない迫害の中に投げ込まれていくことになるのです。
今日のステパノの殉教から学ぶことのできることは、たくさんあります。
まず、ステパノは使徒ではなく、執事でした。今日の言葉で言えば、牧師ではなく、役員であったと言えるでしょうか。
今日は、ひとりの求道者の方の洗礼試問会を行います。牧師がどんなに丹念に学びを行い、何年ぶりの受洗者であるとしても、
もし役員会が、この方の授洗はまだ早いのではないかと言えば、それは改めて学び、欠けを満たした上で受けなければなりません。
そんな大きな責任があるのだったら、役員は遠慮したい、と考える人もいるでしょう。
しかしもし受洗者が教会を離れてしまったとき、それでもその人は確かに救われている、と言えるのは、役員会の諮問を経ているからです。
父、御子、聖霊の御名によって洗礼を授けることができるのも、それは役員会の諮問があってのことです。
牧師は、一般の信徒には話すことができないような事柄でも、役員とは共有します。
牧会が誤った方向に進むとき、それを指摘し、場合によっては辞職を勧めるのも、役員の務めです。
それほどまでに、聖書では執事、すなわち役員は大きな責任と使命が与えられているのです。
その筆頭がステパノをはじめとする、選挙で選ばれた七人の執事でした。
およそどの教会の役員も、このステパノの姿を模範としながら歩んでいくべきです。
ステパノのように、命を引き換えにしてでも福音に最後までしがみつく生き方を役員が示す教会は、決して地上から消えることはありません。
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恒例のアイスクリームパーティのご案内です。恒例と言っても、去年からですが。

楽しそうな様子が伝わるでしょうか。去年の牧師のコスプレは画家でしたが、今年はさらにスケールアップ!
パ○レ○ツ・オ○・カ○ビ○ンです。何かイベントがあるたびについコスプレをしてしまうんですが、悪い病気でしょうか。
とりあえずご期待ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』6章1-15、7章51-8章3節
1.
信仰のゆえに迫害を受けて命を落とすことを殉教と言います。
初代教会は、この6章に至るまで、小さな迫害は受けていましたが、まだだれも殉教者は出していませんでした。
それどころか、先週の礼拝説教の最後の部分にあったように、ガマリエルという人物の口添えによって、安全が保証されていたのです。
ところが、じつは神様のご計画は、このまま教会が安全に宣教を進めていくということではなかったのです。
このステパノの殉教をきっかけとして、ガマリエルの仲裁を無視した、徹底的な迫害、弾圧、そして殺害が起こっていきます。
そしてこのステパノの殉教から約300年間のあいだ、教会は絶え間ない迫害の中に投げ込まれていくことになるのです。
今日のステパノの殉教から学ぶことのできることは、たくさんあります。
まず、ステパノは使徒ではなく、執事でした。今日の言葉で言えば、牧師ではなく、役員であったと言えるでしょうか。
今日は、ひとりの求道者の方の洗礼試問会を行います。牧師がどんなに丹念に学びを行い、何年ぶりの受洗者であるとしても、
もし役員会が、この方の授洗はまだ早いのではないかと言えば、それは改めて学び、欠けを満たした上で受けなければなりません。
そんな大きな責任があるのだったら、役員は遠慮したい、と考える人もいるでしょう。
しかしもし受洗者が教会を離れてしまったとき、それでもその人は確かに救われている、と言えるのは、役員会の諮問を経ているからです。
父、御子、聖霊の御名によって洗礼を授けることができるのも、それは役員会の諮問があってのことです。
牧師は、一般の信徒には話すことができないような事柄でも、役員とは共有します。
牧会が誤った方向に進むとき、それを指摘し、場合によっては辞職を勧めるのも、役員の務めです。
それほどまでに、聖書では執事、すなわち役員は大きな責任と使命が与えられているのです。
その筆頭がステパノをはじめとする、選挙で選ばれた七人の執事でした。
およそどの教会の役員も、このステパノの姿を模範としながら歩んでいくべきです。
ステパノのように、命を引き換えにしてでも福音に最後までしがみつく生き方を役員が示す教会は、決して地上から消えることはありません。
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2019.6.30「いのちのことばを握りしめて」(使徒5:17-42)
こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
わが同盟教団は、教団の公式ホームページの中に「緊急災害情報掲示板」というページがあります。
災害が起きると、教会が自発的に書き込んで安否を報告するというものなのですが、パスワード認証がかかっていません。
つまり、だれでも見れちゃいます。おそらく緊急の時には教会員の誰でも書き込めるようにということなのでしょう。
ただ、機関紙の閲覧にはパスワードが必要なのに、こちらはダダ漏れというのはいささか違和感をおぼえます。
先日の新潟北部地震の際についテンションが上がった私がうっかり書き込んでしまった、
「(築50年の)教会が無事ならば、どの家も無事ですよと役員から言われた」なんてコメントも外部の方にダダ漏れ。
新潟弁で言うと、しょうしいわ(=恥ずかしいです)。だったら最初から書くなよ、と言われそうですが。
気になるのは今回、九州南部を襲った水害に関しては、まったく誰も書き込んでおらず、今も放置状態であること。
毎日チェックしているのですが、開拓二年目の鹿児島いずみ教会は無事だったのでしょうか。
実際に掲示板に書き込んでみて思ったのですが、匿名でないので、最初に投稿するのは結構気を使います。
震度4くらいで書き込んでしまうと「これくらいで大騒ぎするなよ」と言われないだろうか、とか余計なことを考えてしまいます。
だから教団総主事なり社会局長なりが最初にスレッドを立ててくれると助かるのですね。ご検討ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』5章17-42節
1.
「使徒の働き」という、現代訳での書名は、明治時代に出版された文語訳聖書では「使徒行伝」と訳されていました。
その時代のある牧師は、これは使徒行伝ではない、聖霊行伝であると言いました。
まさに、この書に書かれている出来事は、はじめから終わりまで、聖霊に導かれて初代教会が成長していった姿を描いています。
この5章では、まだ迫害は起きていませんが、ペテロたちがユダヤ人当局ににらまれ、宣教を禁じられる場面が記されています。
しかし私たちは、このような状況さえも、すべては聖霊なる神のご計画の中にあったのだということを忘れないで読んでいきたいと願います。
まずこれらの聖書箇所から私がみなさんにお伝えしたいことは、世の中に神の知らないトラブルなど起こりようがないということです。
人の目にはトラブルと見えることが突然起こります。しかしそれは私たちが何かに気づかせるために、神が計画し与えられたものです。
その「何か」とは、多くの場合、自分の中に抱えていたが、がんとして認めようとしなかった、さまざまな事柄です。
トラブルの中で、人は気づき、悔い改めへと導かれることをよく経験します。
あるいは、私たちの信仰をさらに高みへと引き上げるために、神がトラブルを与えることもあります。それは聖書では試練とも呼ばれています。
初代教会にとって、サドカイ派の有力者たちに宣教を禁じられることは、彼らの信仰をより強めていくために、神が与えられた機会でした。
みなさんの生活や人間関係の中に、いま何らかのトラブルが起きていたとしても、それ自体は何ら恐れる必要はないものです。
しかし気をつけなければならないのは、そのトラブルにだけ目と心が向いてしまい、その背後に隠れている神から目を離してしまうことです。
神は、使徒たちがサドカイ人に捕らえられて投獄されたとき、御使いを遣わして彼らを解放しました。
しかしただ牢屋から解放するだけであれば、わざわざ御使いを遣わす必要はありません。遣わしたのは、次のことばを彼らに伝えるためでした。
それが20節のみことばです。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」。
ただ「行って」ではありません。「行って、宮の中に立ち」と言われています。「宮」とは言うまでもなく、神殿のことです。
この投獄の出来事を通して、神は次のことを使徒たちにお示しになりました。
本来、宮で神の言葉を語るはずの祭司、つまりサドカイ人たちはその役目を果たせなくなっているという事実です。
祭司たちが神殿で神に民のとりなしの祈りをささげるよりも、議会で使徒たちを罠にかける相談に時間を費やしていました。
宮から離れるべきでない祭司たちが、逆に守衛長から宮に呼び出されて、宮で使徒たちが説教している姿を聞く、なんと皮肉なことでしょうか。
宮も、宮で仕える働きも捨てていた祭司たちに対し、教会は神にこう命じられました。あなたがたが宮に立ち、いのちのことばを語りなさい、と。
そして神の命令は、今日も同じです。宮、すなわちこの礼拝をまず第一にするということ。そこから教会のすべての活動が始まっていきます。
クリスチャンはこの礼拝を通して、神のことばを受け取り、それを自分を養い、他の人々に祝福を与える力として用いていきます。
求道者は、この礼拝の中にあなたが求めている人生のまことの答えがあることをおぼえてください。
この礼拝の中に、クリスチャンであるかないかを問わず、神が与えようとしておられる祝福が凝縮されています。
この宮の中で、いのちのことばが語られ、聞かれ、心に受け止められ、そして実際の行動へと変えられていきます。
使徒たちが牢から解放して向かった先が神殿であったように、私たちもまず礼拝に向かうのです。そして今ここに集まられているのです。
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わが同盟教団は、教団の公式ホームページの中に「緊急災害情報掲示板」というページがあります。
災害が起きると、教会が自発的に書き込んで安否を報告するというものなのですが、パスワード認証がかかっていません。
つまり、だれでも見れちゃいます。おそらく緊急の時には教会員の誰でも書き込めるようにということなのでしょう。
ただ、機関紙の閲覧にはパスワードが必要なのに、こちらはダダ漏れというのはいささか違和感をおぼえます。
先日の新潟北部地震の際についテンションが上がった私がうっかり書き込んでしまった、
「(築50年の)教会が無事ならば、どの家も無事ですよと役員から言われた」なんてコメントも外部の方にダダ漏れ。
新潟弁で言うと、しょうしいわ(=恥ずかしいです)。だったら最初から書くなよ、と言われそうですが。
気になるのは今回、九州南部を襲った水害に関しては、まったく誰も書き込んでおらず、今も放置状態であること。
毎日チェックしているのですが、開拓二年目の鹿児島いずみ教会は無事だったのでしょうか。
実際に掲示板に書き込んでみて思ったのですが、匿名でないので、最初に投稿するのは結構気を使います。
震度4くらいで書き込んでしまうと「これくらいで大騒ぎするなよ」と言われないだろうか、とか余計なことを考えてしまいます。
だから教団総主事なり社会局長なりが最初にスレッドを立ててくれると助かるのですね。ご検討ください。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』5章17-42節
1.
「使徒の働き」という、現代訳での書名は、明治時代に出版された文語訳聖書では「使徒行伝」と訳されていました。
その時代のある牧師は、これは使徒行伝ではない、聖霊行伝であると言いました。
まさに、この書に書かれている出来事は、はじめから終わりまで、聖霊に導かれて初代教会が成長していった姿を描いています。
この5章では、まだ迫害は起きていませんが、ペテロたちがユダヤ人当局ににらまれ、宣教を禁じられる場面が記されています。
しかし私たちは、このような状況さえも、すべては聖霊なる神のご計画の中にあったのだということを忘れないで読んでいきたいと願います。
まずこれらの聖書箇所から私がみなさんにお伝えしたいことは、世の中に神の知らないトラブルなど起こりようがないということです。
人の目にはトラブルと見えることが突然起こります。しかしそれは私たちが何かに気づかせるために、神が計画し与えられたものです。
その「何か」とは、多くの場合、自分の中に抱えていたが、がんとして認めようとしなかった、さまざまな事柄です。
トラブルの中で、人は気づき、悔い改めへと導かれることをよく経験します。
あるいは、私たちの信仰をさらに高みへと引き上げるために、神がトラブルを与えることもあります。それは聖書では試練とも呼ばれています。
初代教会にとって、サドカイ派の有力者たちに宣教を禁じられることは、彼らの信仰をより強めていくために、神が与えられた機会でした。
みなさんの生活や人間関係の中に、いま何らかのトラブルが起きていたとしても、それ自体は何ら恐れる必要はないものです。
しかし気をつけなければならないのは、そのトラブルにだけ目と心が向いてしまい、その背後に隠れている神から目を離してしまうことです。
神は、使徒たちがサドカイ人に捕らえられて投獄されたとき、御使いを遣わして彼らを解放しました。
しかしただ牢屋から解放するだけであれば、わざわざ御使いを遣わす必要はありません。遣わしたのは、次のことばを彼らに伝えるためでした。
それが20節のみことばです。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」。
ただ「行って」ではありません。「行って、宮の中に立ち」と言われています。「宮」とは言うまでもなく、神殿のことです。
この投獄の出来事を通して、神は次のことを使徒たちにお示しになりました。
本来、宮で神の言葉を語るはずの祭司、つまりサドカイ人たちはその役目を果たせなくなっているという事実です。
祭司たちが神殿で神に民のとりなしの祈りをささげるよりも、議会で使徒たちを罠にかける相談に時間を費やしていました。
宮から離れるべきでない祭司たちが、逆に守衛長から宮に呼び出されて、宮で使徒たちが説教している姿を聞く、なんと皮肉なことでしょうか。
宮も、宮で仕える働きも捨てていた祭司たちに対し、教会は神にこう命じられました。あなたがたが宮に立ち、いのちのことばを語りなさい、と。
そして神の命令は、今日も同じです。宮、すなわちこの礼拝をまず第一にするということ。そこから教会のすべての活動が始まっていきます。
クリスチャンはこの礼拝を通して、神のことばを受け取り、それを自分を養い、他の人々に祝福を与える力として用いていきます。
求道者は、この礼拝の中にあなたが求めている人生のまことの答えがあることをおぼえてください。
この礼拝の中に、クリスチャンであるかないかを問わず、神が与えようとしておられる祝福が凝縮されています。
この宮の中で、いのちのことばが語られ、聞かれ、心に受け止められ、そして実際の行動へと変えられていきます。
使徒たちが牢から解放して向かった先が神殿であったように、私たちもまず礼拝に向かうのです。そして今ここに集まられているのです。
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