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2019.8.25「上着を捨てたバルテマイ」(マルコ10:46-52)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
当教会では3週に一度のペースで、牧師にも教会学校のお話しが回ってきます。
今回はパウロがローマに行く途中で難破したけどいろいろあって助かった、あのお話し(使徒27-28章)。
今日も今日とて『成長』の視覚教材にパソコンでせっせと色をつけ、背景を別の画像からレイヤーで貼り付けたりと大忙し。
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ところが作っているうちに、なんとなくデジャビュ。あれ、前も同じような紙芝居を作ってなかったっけ。
そこでパソコンのフォルダを探してみた。すると2016.06.25という日付で確かにこんなのがありました。
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3年前のものはすでに引退された山田画伯の絵柄ですが、どう見ても同じ話ですね。妙な生きものも書き加えられていますが。
そもそもパウロの遭難の話を子どもたちに3年ごとに繰り返す必要があるんでしょうか。どうなんだ、成長。
恐ろしいことに、『成長』の9月のカリキュラムは、なんと毎週パウロ書簡から一書まるごとです。
一書説教なんて、牧師だって礼拝で躊躇するのに、教会学校でいけるのか。どうなんだ、成長。しつこい。
とまあ、さんざん文句をたれるわりには、いまだに『成長』を手放すことができないのも確かなんですが。
豊栄キリスト教会は『成長』を応援しています。週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』10章46-52節


1.
 妻と結婚して16年になりますが、新婚旅行に向かった先は北海道でした。途中、道南にある登別クマ牧場というところに行きました。
クマたちが観光客の姿を認めると手を振ったり、大開脚のポーズをとったりして、何とか自分に注目をひきつけてエサを投げてもらおうとします。
クマが愛想をふりまく挙動があまりにも面白くて、ずっとクマばかりを撮っていたら、いつのまにか妻がいなくなっています。
新婚旅行という目的を忘れてしまった私の責任で、帰りの道は平謝りでしたが、ある意味楽しい経験ではありました。
 クマたちは、客がいないときはもっぱら寝そべったりしているのですが、客の姿を認めるとやおら起き上がり、自己アピールを始めます。
人間の注目を少しでも多く惹きつけたものがエサを投げてもらえることを知っているのです。
バルテマイもまた、人々にどんなにたしなめられても、イエスのおられるかもしれない方向に向かって叫ぶことをやめませんでした。
彼は目が見えない物乞いであったとあります。物乞いは、ふだんは声を上げません。
ただ黙って、道行く人がいくらかの銅貨を投げ込んでくれるのをひたすら待っています。
今日もバルテマイは、そのようにだまり込んだまま、人々のあわれみにすがりながら一日を過ごすはずでした。
しかし彼は、今目の前を歩いている集団の中に、ナザレのイエスが混じっているということを耳にしました。
そして今までの沈黙が嘘のように、ひたすら「ダビデの子よ、あわれんでください」とひたすら声を上げて叫び続けたのです。
 クマとバルテマイを一緒にするのは失礼ですが、自分の持てる力を使い切る覚悟で、注目を集めようとしたことは同じです。
クマたちは、親が見たら泣くような大開脚ポーズで、まさにヒグマのプライドを捨ててまで観光客の注目を惹きつけようとしていました。
バルテマイは、まわりの人々にどれだけたしなめられましょうとも、叫び続けました。
目の見えないバルテマイには、前を歩いている人々のどこにイエスがおられるのかわかりません。
だからひたすら、あらゆる方向に向かって大声で叫び続けたのでしょう。イエスの目を惹くためです。
しかしクマとバルテマイは明らかにひとつの点で違っていました。
クマは、観光客が投げるエサを巡っての競争に敗れても、次の機会があります。
しかしバルテマイは、この機会を失ったら、自分の人生を変えるチャンスはないということを知っていました。
だから彼は死に物狂いで叫び続けたのです。

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posted by 近 at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ