こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風19号で被害を受けた方々の上に、創造主なる神の励ましがありますように祈ります。
明日はいよいよ教会バザーです。
最近、長すぎるとお叱りを受けている礼拝説教も、礼拝後のバザー準備があるので短くするようにという厳命を受けています。
先日、教団の研修会に参加したとき、5分でプレゼンを頼まれていたのですが、当日になって、持ち時間が3分に減らされました。
5分という時間がどれだけ貴重かということを思い知らされました。説教も、もっと緊張感をもって臨めば、濃縮された時間となるはずです。
昔は何を語ればよいかわからず、とにかく20分を持たせるのが大変だなあと思っていたのですが。
説教の長さで苦しむ日が来るとは考えもしませんでした。週報は
こちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』9章46-50節
46 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、
48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
49 ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」
50 しかしイエスは、彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」
序.
かつてお昼に放送されていたテレビ番組に、視聴者からの電話の悩み相談に対して、出演者がそれにアドバイスするというのがありました。
その時間帯に電話できるという人はほとんどが専業主婦なので、内容はだいたい夫婦関係の悩みに限定されているのですが、
その中に60代の主婦からこんなのがありました。先日、夫が定年退職になりました。
会社で働いていたときには、毎日スーツを着こなし、夜でも携帯が鳴り仕事の指示を出したり、たまに部下を家に連れてきたり、
頭は少し薄くなっていたけれども、ああ、この人は立派なんだ、会社にとっても家族にとっても必要な人なんだ、と尊敬していました。
ところが定年になったとたん、昼近くまで布団に潜り込むわ、起きたと思ったら寝巻姿で新聞を読みながらご飯を食べるわ、
ゴミの分別も知らないわ、ご近所さんの顔と名前も一致しないわ、私がいちいち教えなければ何もできないわ、教えても反発するわ、
そもそも何度教えてもおぼえないわ、・・・・あとは省略しますが、100年の恋も冷めた私はどうしたらいいのでしょう、という質問内容でした。
じつはイエス様が「このような子ども」と言われたのは、年齢の低い幼子ではなくて、こういうご主人のことなのだと言ったら驚くでしょうか。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語には子どもを表す言葉として、「テクノン」と「パイディア」という言葉があります。
「テクノン」というのは文字通り子どもを表すのですが、「パイディア」というのは躾や訓練を必要としているという意味でのこどもです。
だからパイディアというのは、子どもだけではなく、奴隷、部下、家来、という言葉にも訳されることがあります。
そして今日の箇所で、「子ども」と訳されていることばは、このパイディアです。
もしかしたらイエス様が手を取ってご自分のそばに立たせられたのは、小さな子どもでなくて、そこにいた奴隷のひとりであったのかもしれません。
1.
この箇所で、イエス様がまず弟子たちに語ろうとされたのは、次のようなことでした。
あなたが自分よりも下に見ている者、私がしつけなければならない者、訓練しなければならない者、そのように考えている相手に対して、
キリストの名のゆえに、「敬意をもって」受け入れなさい、と。それができる人こそが、喜んで自分の小ささを誇ることができる人です。
そして、そのような人こそが、あなたがたすべてのなかでいちばん偉い人なのです、と。
ここでイエス様が、幼子のような者が偉い、と言っているのではないことに注意しましょう。
それは別の箇所で語られているので混同しやすいのですが、
ここでは、幼子のような者を、わたしの名によって受け入れることができる人が偉い、と言っています。
「一番小さい者」とは幼子のような人のことではなく、幼子のような者をも尊敬し、受け入れる者、ということです。
人間というのは、自分よりも優れているという人のことは尊敬し、受け入れることができるのですが、
人の助けを借りなければ何もできない、自分がいなければ生きていけない、そういう人を受け入れることはたいへん難しいのです。
さっきみたいなご主人を受け入れるのは大変なことです。しかしこういうご主人こそがパイディア、訓練を必要としている人ということです。
定年を迎えた夫婦だけではないですね。ある教会で、若いお母さんたちの悩みを語り合う場を提供しているのですが、
お母さんたちがふだんの生活で怒りをおぼえる場面はどんなときか、アンケートを採ったら、みごとにふたつに集約されたそうです。
ひとつは、子どもがさっさと準備しないこと、もうひとつは、夫がそれを見ながらまったく手伝わないこと。どちらも躾と訓練が必要なパイディアです。 イエス様が、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れなさい、というのは、決して幼子だけを指しているのではありません。
あなた自身を基準としたら、受け入れることは難しい、いや、受け入れることは不可能です。しかし、わたし、キリストを基準としなさい、と。
自分自身も、イエス・キリストにとっては幼子のような者のひとりにすぎないのだ、ということを自覚する、
それがわたしの名のゆえに受け入れなさい、ということです。
自分を基準にしたら、そこに到達しない人、子どもに限らず、大人でもそうです、彼らは教えて、しつけなければならない相手です。
そこに、「わたしの名のゆえに」という、新しい基準を設けよ、と。私もイエス様に教えられなければならない幼子なのだ、と。
私もまた、イエスの御名の下に、同じようにしつけと訓練を必要としている弟子のひとりにすぎないのだとへりくだることができるのです。
そのとき、自分よりも下に見ていた人からも多くのことを学びます。その人を従わせるのではなく、その人の声や姿に耳を傾けます。
相手の人格を心から受け入れ、屈服・矯正する相手としてではなく、ともに成長していくものとして見ることができます。
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