昨年の教団機関紙の中に、こんな文章がありました。(実名部分をA,Bとしています)
あるとき、牧師の私を批判する人が出てきて、とても辛くて相談すると、じっと話しを聞いてくれたあとA先生は言いました。「B先生、その人が教会に来ると緊張するだろう」「はい」「あの人は来ないほうがいい、そう思っているだろう」「・・・はい」「でも、もしB先生がその人を追い出したらな、心配するな。神さまはもっと強力な人を送ってくださるから」このA先生独特の励ましとともに祈っていただいて、それからはただイエスさまの恵みを思ってジーっと忍耐していると、やがてその人の方から教会を移りたいと去っていきました。「B先生」は「A先生」の教会から献身した方で、この文章はA先生の葬儀のときにもお話しされたものでした。(私もその葬儀に出席していました)B先生は私にとっても親しい先輩牧師ではあるのですが、限られた葬儀の場所ではともかく、同盟教団の全信徒が読む機関紙に掲載するものではないな、と思いました。笑いを取ったつもりでも、なんとなく後味の悪さが残ります。
「獅子身中の虫」という言葉があります。もともとは釈迦の言葉だそうですが、教会を含む、様々な組織のなかで「和を乱す者」に対して使われることがあります。しかし以前ある仏教ブログを読んだとき、「この言葉は特定の人を指す言葉ではない。末法の世になると、仏徒全体の中でも教えを軽んじる傾向が生まれ、仏法そのものが崩れていくことを指しているのだ」という趣旨の言葉を読み、なるほどなあと思ったことがありました。
私も以前、牧会の中で起きてしまった、信徒とのトラブルで、大先輩の牧師に相談したことがありました。しかしそのとき、その先生はこう言われました。「(近)先生、もし教会の中で信徒が問題を起こしたら、その責任は100%牧師にあるとわきまえなさい。みことばがしっかりと語られていないからですよ。もし100%を受け止められないようであれば、牧師になるべきではありません」。厳しい言葉でしたが、まさに正論でした。その後、助言のとおりに、みことばをしっかり語ることができたかどうかは疑問ですが、それでも、教会は少しずつ変わってきたようにも思えます。いや、もしかしたら私のほうが少し変えられたのかもしれません。
教会の中で、しっかりとみことばが語られているか。それが欠けているときに、「身中の虫」が生まれます。それはだれかが出ていくとかそういうことで解決されるものでは決してありません。しかし同時にそれは牧師にとって、みことばに対して妥協してきた、牧会のゆがみを悔い改めるチャンスになります。もちろん虫が生まれる前に気づき、修正できたら一番よいのですが。週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章20-26節
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