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2020.3.22「分かち合うために下られた」(ヨハネ13:1-17)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

 新型コロナウイルス対策で、教団理事会から通達が届き、換気だけではなく礼拝時間の短縮に対する提言もありました。
新潟の諸教会の中にも、主日礼拝以外の集会を一切中止しているところもあるようです。
東京ほどではありませんが、新潟でも感染者が増加しております。
そこで明日の第二礼拝は、説教の前後に5分間の換気(黙想)を行うほか、最低限のプログラムで行い、時間の短縮を図ります。

 問題は、その一週間後。4月第一週の聖餐式をどうするか。
当教会含めて、多くの教会では月一回(第一週)聖餐式を実施しています。
この「頻度(回数、間隔)」自体は、明確な聖書的根拠があるわけではありません。
年一回のところもあれば、毎週実施しているところもあります。第何週に行っているかも、教会によってまちまちです。
聖餐式を必ず月一回はしなければならない、というのが単に「伝統だから」ということであればそれに執着する必要はありません。
ウェットティッシュを用意して実施する、というのも、もちろんOKです。
しかしそれでも不安を感じながら聖餐を行うようであれば、あえて中止を選ぶこともありかと思います。
 当教会では、現住陪餐会員の要件として、「過去一年以内」に聖餐に与ることとしております。
しかし毎月はじめに聖餐を受けなければ、その月の歩みが祝福されないという考え方になると危険です。
聖餐は信者にのみ許されたものであり、神からの賜物ですが、「お守り」ではありません。
「最後の晩餐で提示された、主の命令だから」が「伝統だから、決まりだから」と同じ意味合いになってしまうことも避けなければなりません。
パウロは最後の晩餐での宣言に言及しつつも「これを受けるたびに主の死を告げ知らせる」という積極的・宣教的な意味を与えています。
4月に比べて5月がどうなっているかは予想出来ませんが、改めて聖餐の意味についてみなで考えてみるのもよい機会でしょう。

 ところでインフルエンザのほうが死亡率も高いはずですが、なぜ新型コロナウイルスがインフルの影響力を凌駕しているのでしょうか。
それは言うまでもなく、ワクチンが開発されていないからです。
そして無症状の感染者が知らずにインフルエンサーになっている可能性があることも不安を招いています。
言葉を選ぶ必要がありますが、これはまさに、私たち教会がふだん説いている「罪」のメカニズムそのものを彷彿とさせます。
生まれつき人間は、自分が罪人であることがわかりません。しかし着実に、その人だけでなく、家庭や社会をも蝕むのが「罪」です。
 それに対するワクチンはどこにあるのでしょうか。
明日、全国の諸教会で語られる説教を通して、「罪」に対する唯一のワクチンが提示されます。提示されなければなりません。
当教会でも礼拝のネット中継を行います。当教会の会員でなくても見るのは自由。集会献金も不要です。
しかしこのワクチン(福音)を誰かに伝えていく決意の中で、スマホやPCを通して、この礼拝を共有していただけたら幸いです。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』13章1-17節



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posted by 近 at 17:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.3.15「いえす色に染められたい」(ヨハネ12:44-50)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週の礼拝から、ネット中継を始めています。トップに専用ページを作成しました。
以前もUstreamで試験的にやっていたことがあったのですが、その後同社がIBMに買収され、無料での利用ができなくなりました。
今回、Youtubeライブを使っています。字幕をつけられると良いのですが、ライブでは自動字幕は働かないようでした。
明日の礼拝は、午前10:30から。説教は、ヨハネ13:1-17から「分かち合うために下られた」です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章44-50節



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posted by 近 at 16:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.3.8「信じたことは隠せない」(ヨハネ12:37-43)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
新型コロナウイルスの影響が各方面に出ております。
感染者の8割は無症状か軽症ということですが、逆から言えば2割は重症化、最悪の場合には亡くなられてしまうということ。
決して教会として手をこまねいているわけにもいかないのですが、できることは限られています。
まず祈らなければなりません。そして祈るだけでもいけません。それは車の両輪のようなものでしょう。
新潟でも少しずつ感染は広がっていますが、それでも礼拝を休会とするという例は聞いていません。
しかし県外では、そのような苦渋の選択を決断せざるを得ない、他教派の教会もあるそうです。
非常事態宣言が出されれば、どんなに集まりたいと思ってもそれができなくなることもあり得ます。
世の人々からすれば、クリスチャンはどうしてそこまで集まりたいのかと思うでしょう。
それは説明しても理解していただけるものではないかもしれません。
ただ、明日もどうか、一つでも多くの教会で、一人でも多くのクリスチャンが礼拝の恵みにあずかることができるように。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章37-43節



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posted by 近 at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.3.1「光と共に歩もう」(ヨハネ12:27-36)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
いよいよ新潟でも、新型コロナウイルスの感染者が発生しました。そんなわけで私もマスクをつけて説教しています。
「声がデカイ=唾を遠くまで飛ばしたら申し訳ない」という牧会的配慮なのですが、マスクをつけていると、息苦しいのなんの。
逆にいつもより声を張り上げてしまうため、むしろマスクをつけないほうが、拡散の危険を抑えられるかもしれません。

 今回のウイルスが厄介なのは、潜伏期間が長いため、感染していても無症状という場合も多いことではないでしょうか。
だから、自分が知らないうちに、家庭や職場、教会で感染源になってしまうかもしれないという恐怖感があります。
WHOのエライ人たちは、「マスクは防御には効果はない」と警告しますが、いちいち言われなくてもみんな知ってます。
伝染(うつ)されないためにではなく、伝染(うつ)さないために、日本人はマスクをしているのです。見よ、このうるわしゅう同胞愛。
そりゃマスクも足りなくなるわ。一億枚用意しても、全国民が一日で使い果たしてしまいます。
 しかしこのうるわしゅう同胞愛も行きすぎてしまうと、立派な(ほめてない)ハラスメントになってしまいます。
「おれは伝染(うつ)さないように頑張っているんだから、お前も同じように努力しろ」
こんな理屈から始まる、コロハラ(コロナ?ハラスメント)という言葉も生まれました。
電車の中で非マスク乗客を殴ったり、非マスク社員の勤務を拒絶したり。本末転倒です。

 豊栄の教会は、8日と15日は、愛餐会と午後の集会を中止して、礼拝と祈祷会のみを行います。
明日の礼拝も、前回と同じようにマスクをすべきでしょうか。
しかし表情が見えない説教を何週にわたって行うことにも抵抗を感じているのも事実です。
社会の要求に機械的に応じるのではなく、みことばに基づき、みこころを求めながら、ふさわしい形で語りたいものです。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章27-36節



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posted by 近 at 20:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ