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2020.9.20主日礼拝説教「報われない者の幸い」(ルカ14:7-14)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 このところ、親しく交わらせていただいていた方が、次々と天へ召されていきます。
新潟で長く奉職されたTEAMの引退宣教師、リース先生ご夫妻とマクダニエル先生ご夫妻の四人の方々のうち、
とうとう最後の一人であったペギー・マクダニエル先生が先日、天へと旅立たれました。
以下、TEAMジャパンからのメールを一部引用します。
 ペギー・マクダニエルは2020年9月1日に主のもとに旅立ちました。彼女と亡くなった夫のH.チャーマーズ(別名ダン)は、1951年から1986年まで日本で奉仕しました。彼らは主に日本の新潟での教会開拓に従事しました。ダンは英語のクラス、日曜学校のクラス、伝道の配布などを教えていました。ペギーは家で料理教室を主催することで、日本人女性との関係を築きました。彼女は彼らに西洋料理の作り方を教えたと同時に、そこでの関係は福音に繋がるものでもありました。ペギーは日曜学校も教え、子供たちを育てる手助けをしました:ロバート、ジャニー、ケン。彼女は夫が日本で奉仕した35年間、夫をサポートしました。彼らは1986年に引退しフィラデルフィアに引っ越しました。ペギーは人々を知る素晴らしい賜物があり、彼女は謙虚でした。彼女は人との関わり方に親切を示し、神は彼女を35年間日本人女性とキリストを分かち合うために用いました。
2015年にペギー先生の夫、ダン・マクダニエル先生が召天されたとき、新潟山形宣教区の有志で記念文集を作りました。
ペギー先生や、ご存命のリース先生ご夫妻にも英訳版を送らせていただいたところ、喜んでいただけたと聞いています。
二ヶ月ほど前にリース先生に対する問合せがあり、それを機会にリース先生の記念文集をPDF版でアップしましたが、
今回、2015年に発行したマクダニエル先生の記念文集も同じようにアップしました。お手製のバナーも作成しました。
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トップページにも、リンクバナーを貼っておきました。マク先生たちもマンガ風にできたらよかったのですが。
リース先生ご夫妻、マクダニエル先生ご夫妻、ありがとうございました。天国で会いましょう。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』14章7-14節


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posted by 近 at 21:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

マクダニエル宣教師追悼文集

2015年2月のマクダニエル先生の召天に際し、宣教区の有志に原稿を募って制作したものです。
記念会に間に合わせるためにまず日本語版を大至急作成し、その後英訳してご遺族に贈りました。
日本語版、英訳版それぞれ、以下の表紙画像をクリックするとPDFが閲覧(ダウンロード可)できます。
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<写真>
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2020.9.13主日礼拝説教「生きた信仰、死んだ信仰」(ルカ14:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今回の説教の導入にて、今から35年前に私が大学病院に入院していた頃の経験を記しています。
主治医のさらに上司にあたり、私の骨肉腫の執刀をされた教授に、何も聞かされないまま病室から連れ出されたこと、
気づいたら医学部の大講堂のようなところで、パンツ一丁で切断部位を披露させられたこと。
今では立派なハラスメントですが、当時(昭和)は「これくらい患者は我慢して当然」という、まさに「白い巨塔」の時代でした。

 とはいえ古い記憶なので、あれが本当に大講堂だったのか自信がありません。
ただGoogleマップで確認すると、現在でも病棟から渡り廊下で教室棟が繋がっており、さらにその先には「大講義室」があるようです。
余談ですが、私の手術の際には三名の医学生が献血してくださり、母が「これで頭がよくなるね」と喜んでいたのを思い出します。
今でも鼻血を出すと、心なしか、少しアカデミックな香りがします

 くだんの教授は、退院後も数年間、年一回の定期検診の時に私を診てくださいました。
コワモテの方であり、先の殿中連れ回しの刑の経験もあったので、あまり心を開くことはできませんでしたが、
私が高校生になったときのこと、定期検診が終わった後にその教授がまた例によって、私を別の部屋に連れ出したことがありました。
トラウマがよみがえったのですが、今度は何もない小部屋でした。
そして回りにだれもいないことを確認すると、その教授が真剣にこう聞いてきたのです。
「あなた、敬和学園高校に入ったんだって?あそこはキリスト教の高校なんでしょ。
私はこんな人間だからアレなんだけど、息子はそういうところに入れてあげたいと思っているんだけど、実際どんな学校?」

 大学病院の中で、教授の地位を勝ち取るためには、犠牲にしてきたものも多かったのでしょう。
しかしお子さんは出世や成績競争とは関係ない、自由な校風の中で学校生活を楽しんでほしい、という親の情愛を見ました。
だから、今でもその教授を恨んでいるというわけでは決してありませんので、どうぞお間違えなきように。
むしろ、その教授の執刀のおかげで、骨肉腫が肺に転移してもすぐに取り除くことができたわけで、私の命の恩人です。
とはいえ、もうあんな衆人環視の経験はこりごりですが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』14章1-6節


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posted by 近 at 21:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.9.6主日礼拝説教「保留の代償」(ルカ13:31-35)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 先日また一人、俳優が違法薬物所持の容疑によって逮捕されました。その代償はあまりにも大きいと言えるでしょう。
しかし薬物はじめ、あらゆる依存症は本人の努力だけでは決して回復できず、周囲の理解と励ましが不可欠です。
心ない言葉で責めるよりも、本人が贖罪を果たし、周囲が回復を支える方向を目指すことができるようにと祈ります。
 彼の逮捕に関連して、上岡龍太郎氏のこんな言葉が間接的に紹介されていました。
「芸人になって一度でも爆笑をとったことがあるヤツはドラッグなんかに手を出さんでしょう。
満員の会場で客席が波打つように笑うあの快感はドラッグ以上ですよ」
「ドラッグ以上」と言ったら失礼ですが、クリスチャンが誰かと関わり続け、その方が信仰へと導かれたときの経験は、まさにそのものです。

 同盟教団の教師試験は、補教師であれ正教師であれ、理事会との最終面接が待ち受けています。
補教師のグループ面接のとき、当時のA江理事長から「あなたがたは人を導いた経験がありますか」と質問されたことがありました。
思わずびびってしまい、「人を導いたこともないような奴が牧師になるな」ということかと意気消沈したものです。
しかし牧師として二十年近く歩み、いま振り返ってみると、あの言葉の真意は、
人を導く喜びを味わったら、もうやめられないよ」ということだったのかもしれないと思います。
多くのクリスチャンは、自分には聖書知識もなく、経験もないと怖(お)じてしまい、人を導くこと(伝道)を避けます。
しかし人を導く喜びを知らなかったら、その人がいくら「信仰生活は喜び」と強調したところでおそらくむなしいだけです。
 伝道(証し)は、ポーカーや麻雀に似ています。配られた手札から始めなければなりません。
与えられた賜物を使い尽くす覚悟で、ひたすら冷や汗を流しながら、人と関わっていきます。その意味では恋愛にも似ていますね。
そしてやがて目の前の人がイエスを受け入れる、その喜びは「満員の会場で客席が波打つように笑うあの快感」さえ及びません(たぶん)。
 「伝道の賜物」など存在しません。どんな賜物も伝道に繋がるのです。
どんな賜物も、本人には大したことがないように映るものです。だから新しい賜物を求めるクリスチャンが多いのは確かです。
しかし今あるものをフル回転させて人と関わるとき、神がその人の心を開いてくださる時がやってきます。
一人でも多くのクリスチャンの方が、人を導く喜びを味わうことができたらよいですね。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章31-35節


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posted by 近 at 17:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ

2020.8.30主日礼拝説教「キリストだけが救いへの門」(ルカ13:22-30)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今日(9/5土)の夕方、ひとりの婦人役員から、教会に一本の電話が入りました。
グループホームに入居中で、コロナが流行する前には毎週訪問させていただいていたTさんが、肺炎のために急逝されたという報告でした。
葬儀は、やはりコロナの影響のために、家族葬で行うとのことでした。
姉妹も涙ぐみ、私も驚きのあまり言葉が続かずに、電話を切った後、涙がこぼれました。

 Tさんは、もともと、十年以上前に亡くなられた教会員、N子姉のお兄さんでした。
生前のN子姉を訪問していたときには、別室でテレビを見ているばかりでほとんど会話もなかったのですが、
N子姉の葬儀を私たちがさせていただいたとき「N子への最高のはなむけだった」と喜んでくださり、それから親しい関係になりました。
Tさんはやがて自宅での生活が厳しくなり、教会の近所にあるグループホームに入居しましたが、
その後も先の役員を含む二人の姉妹が毎週訪問、しばらくして私も合流し、週一回、四人の幸いな時間が続けられてきました。
そのグループホームはそれぞれ一人部屋があてがわれており、童謡を歌ったり、聖書のお話しをさせていただきました。
3月からコロナのために外部からの訪問が禁じられましたが、一日も早く再開するようにと祈り続けていたところでした。

 Tさんは愉快な人でした。ユーモアがあり、人を不快にさせるジョークは一切語らず、いつも和ませてくださいました。
築ウン十年の古民家に住んでいたときには「すきま風ばかり吹くから、絶対に一酸化炭素中毒にはなりませんワ」と笑わせ、
グループホームにいたときには「きょうも首が痛い」。「だいじょうぶ?」と聞くと「借金で首が回りませんワ」。
 洗礼を授けるには至りませんでしたが、ある日の訪問で自分の罪を認め、キリストを信じると告白しました。
つい先日の役員会で、例の婦人役員から「あの時、先生の導きはなんか強引だなと思いましたが、
早く洗礼を受けられるといいですネ」と本気とも冗談ともつかない発言があり、数日間、その言葉がひっかかっていました。
振り返ってみると、たとえ強引と思われても、訪問できなくなる前に信仰決心に至ったことが、神様の恵みでした。
 救いに導く者も、救いに導かれる者も、救いの神が定めた「時」に動かされています。
いつでも語れるチャンスがあるわけでも、いつでも信じるチャンスがあるわけでもありません。
イエスの御霊が心の扉を叩いておられることに気づいたなら、内側から開けなければなりません。
躊躇していたならば、気づいたときには音はやみ、そして二度とないかもしれないのです。

 Tさん、やがて永遠の御国で会いましょう。御国では首が痛むこともありません。
でもきっと肩をすくめながら、あなたは何か面白いことを言うのでしょうね。期待しています。
そしてN子姉にもよろしくお伝えください。お二人に「センセイ」と言われて私は幸せでした。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章22-30節


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posted by 近 at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ