こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
今回の説教は、私が今まで語ってきた約二千篇の説教(祈祷会含む)の中でもとくに物議を醸すものかもしれません。
何しろ、99匹の羊を野に置いて1匹の羊を捜しに行ったのは、
羊飼いではないと言い切ってしまっているからです。
はるか昔から、このたとえ話は「良い羊飼い」という解釈が定着していますので、世が世なら異端審問にかけられても不思議ではありません。
おそらくオリゲネスかクリュソストモスあたりが「これは羊飼い」と語って以来、イメージが定着してしまったのではないでしょうか。
説教では説明を割愛しましたので、このたとえが羊飼いを表しているのではないという根拠をいくつかの点からまとめておきます。
1.「羊飼い」を「羊を持っている人」と表現している例は、新約聖書の他の箇所には見られないこと。当時の羊飼いは貧しい人々であり、羊の所有者ではなく、羊をゆだねられていたに過ぎません。
「持っている(ギリシャ語エコー)」には「飼う」という意味はなく、その意味では羊飼いは一匹も羊を持っていません。
またギリシャ語で羊飼いを表す言葉は「牧する(ポイマイノー)」の分詞形である「ポイメーン」であり、これは「牧者」とも訳されます。
「飼う」を意味するギリシャ語は他にも「ボスコー」がありますが、ルカは「持っている」という言葉で明らかに差別化を図っています。
たとえ話とはいえ、聞き手であるパリサイ人・律法学者こそ富裕層であり、「羊を百匹持っている人」という表現に当てはまります。
2.ルカの場合、明らかにパリサイ人・律法学者に対する文脈のなかで「あなたがた」と呼びかけていること。マタイの場合は、弟子たちに語りかけている文脈ですが、代わりに銀貨と放蕩息子は出てきません。
パリサイ人たちは職業的な羊飼いではありませんが、旧約聖書では王・祭司・長老・預言者などは「イスラエルの牧者」と呼ばれていました。
ルカの意図は、パリサイ人たちが本来、イスラエルの牧者として社会的弱者を彼ら自ら牧会すべきはずなのに一切交わろうとしなかったこと、
そしてこのような人々と食事を共にしていたイエスへの批判に対するアイロニー(皮肉)がこめられています。
パリサイ人たちがイスラエルの宗教的・政治的指導者を自任するのであれば、彼ら自身が失われた羊を捜しに行くことが求められているのです。
3.第一のたとえを「よき羊飼い」とした場合、第二のたとえとの繋がりが生きてこないこと。古来より多くの説教者・画家・讃美歌作者がこのたとえ話を、イエスがヨハネ伝で語られた「良い牧者」と重ね合わせ、混同してきました。
しかしここで良い牧者が羊を捜す理由が慈しみだとすれば、次のたとえ話で女性が銀貨の金銭的価値を惜しむという文脈は逆行します。
女性は銀貨を人格的に愛しているわけではなく、むしろここは、羊の所有者もこの女性も、財産の一部として惜しんでいるのです。
それでも、そのように愛を動機としていなくても、人はこれほどまでに失われたものの回復を喜ぶ。
だとすれば、ましてや神が愛とあわれみをもって失われたものを取り戻すとき、どれほどの喜びが天にはあるのだろうか。
そのようなメッセージのクライマックスとして、第三のたとえ話として語られた、放蕩息子の帰還が生きてきます。
4.羊を取り戻した後、近所の人を呼び集めて一緒に喜ぶという姿は、当時の羊飼いの状況とはそぐわないこと。前述したように、当時の羊飼いは、経済的だけではなく、社会的にも低い位置にありました。
彼らは町や村で一般的な生活をしていたのではなく、もっぱら荒野で生活しながら、独特のコミュニティを築いていました。
「友だちや近所の人たちを呼び集め」る姿は、現実の羊飼いの生活とは繋がらないものであり、聞き手は違和感をおぼえたことでしょう。
もっともそれを言うならばパリサイ人たちが「一緒に喜んでください」と言うことのほうが違和感満載と言われるかもしれません。
しかし彼らでさえ一匹の羊を取り戻したとき、いつもの木で鼻をくくるような態度を忘れ、喜びを共有しようとするではないか。
ましてや、天での喜びはいかほどであろうか、というメッセージとして解釈するほうが自然に思われます。
第一のたとえをよき羊飼いとして教えられてきた身にとって、穿ちすぎた解釈に聞こえるでしょう。私自身がそうでした。
しかし聖書を読む喜びは、
それまで学んできたことさえも白紙に戻して、目の前にある神のことばに教えられることに尽きます。
そして「これは羊飼いではない」と考えたからといって、決して神の愛を矮小化するのではなく、むしろさらに恵みにとどまらせます。
羊や銀貨でさえ、人がこれほど「なりふり構わず」取り戻そうとするのであれば、
神はいったいどれほどの情熱をもって、私たちを取り戻そうとしておられるのだろうか、と。週報は
こちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』15章1-10節
1さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。2すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、6家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。7あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。8また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。9見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。10あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
聖書 新改訳2017

2017 新日本聖書刊行会
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