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2021.1.24主日礼拝説教「人の剣を捨て、神の剣を取れ」(ルカ22:24-38)
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1.
今日のメッセージには、「人の剣を捨て、神の剣を持て」というタイトルをつけました。どんな人間も、手に見えない剣を握っています。
いつもその剣を使って人の上に立ち、人を支配しようと狙っています。もちろん、だれもが「自分はそんな人間ではない」と言うでしょう。
しかし自覚していないだけです。この剣がなければ、人は自分が丸裸で立っているという不安に押しつぶされるしかありません。
剣とは何でしょうか。家庭、職場、社会において、何ものかであること、あるいは何ものかとして見られるために必要なものです。
人はそれがなければ、まったくの空っぽです。外側も内側もまったくのむき出しの裸です。
そして裸では生きていけない、それがアダムとエバが神から離れて以来、私たちを常に不安にさせている原罪の一つの結果です。
イエスが十字架にかかられる前の、最後の晩餐の席で、弟子たちがだれが一番偉いかで議論を始めた。
それを聞くと、いったいこの大事なときに何をくだらないことを論議しているのか、と私たちは第三者として呆れることでしょう。
しかし聖書は、私たち罪人の姿を映し出す鏡です。
相手より少しでも上に立ち、一つでも多くの物を持たなければ、対等の関係を築けない。それが、剣に寄りかかって生きている私たちです。
何ものでもない、道端の石ころのようにだれにも気づかれない、必要とされない、そのような生き方に甘んじることが私たちはできません。
かけがえのない者と言われたいのです。あなたには価値があると言ってほしいのです。何ものかでなければならないのです。
だから人は、人の剣をふるわずにはいられない。外見、内面、財産、肩書、評価。あらゆるものが剣になります。
クリスチャンでさえ、信仰が人間的努力にすり替えられ、信仰歴や、献金・奉仕の実績、その剣がなければ安心できないことも起こり得ます。
あなたには、「たとえ人は私を正しく評価してくれなくても、私にはこれがある」というものを、神さま以外に持っていませんか。
もし持っているようであれば、信仰でさえ、私という人間を、だれかに認めさせるためにふるう、人の剣になり得るのです。
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2021.1.17主日礼拝説教「最後の晩餐、最初の聖餐」(ルカ22:14-23)
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1.
もし自分のいのちが残り一日しかないとわかったら、私たちはその24時間をだれと過ごすでしょうか。どんな言葉を残そうとするでしょうか。
まさにイエス様は、いまご自分が、この地上で十字架にかかられて死なれるまで、最後の24時間を切ったことを知っておられました。
十二弟子のひとりに裏切られ、違法の裁判で死刑に定められ、朝には十字架にかけられることもすべて知っておられました。
もう一度同じことを質問しますが、もしあなたの人生の残り時間があと24時間と知っていたら、何をしようと思うでしょうか。
イエス様にとって、その24時間で必ず成し遂げるべきこと、それは弟子たちと一緒に過越の食事をすることでした。15節をお読みします。
「イエスは彼らに言われた。わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」
「切に願っていました」は、これ以前の聞き慣れた翻訳では「どんなに望んでいたことか」となっており、そちらのほうがしっくり来ます。
しかしここでイエス様が言う「願っていた」とか「望んでいた」という言葉は、聖書ではもっぱら悪い意味、情欲とか執念を指している言葉です。
つまり、それほどまでに、なりふりかまわず。まるでアルコール依存症の人がアルコールを泣きながら、暴れながら求めずには得られないかのように、
イエス様は弟子たちに対して、あなたがたと過越の食事をこうして一緒にすることを私はどれだけ願っていただろうか、と語っておられるのです。
イエス様は、ご自分の33年の人生でやり残したことがあるとすれば、あなたがたと最後の過越の食事を迎えることだ、と弟子に伝えました。
それほどまでに、イエス様にとって弟子たちはただの弟子にとどまらず、愛すべき友であり、その友と過ごす、この過越の食事は特別のものでした。
今もイエス様は私たち、このイエス・キリストを信じて弟子になった者たちに、まるで叫ぶように、語りかけておられるのです。
わたしは苦しみを受ける前に、あなたといっしょに、この過越の食事を過ごしたいのだ。わたしを受け入れて、ともに味わってほしい、と。
しかしイエス様が使われている言葉は「あなた」ではなく「あなたがた」です。
もしあなたがいま、自分は一人だと感じ、自分は交わりから切り離されていると思う状況にあるならば、なおさらのこと、
イエス様は、「あなた」だけではなく、「あなたがた」全員と一緒に、私は過越の食事を守りたいのだ、と語りかけておられるのです。
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2021.1.10主日礼拝説教「すべてを見通すイエスの目」(ルカ22:1-13)
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1.
いま、私たちの生きている社会は、先が見えない混乱の中にあります。政策は二転三転し、住む所や食べる者を失った人々も多くいます。
しかし私たち、神を信じる者たちの励ましは、この世界がどんな混乱の中にあっても、イエス様にはすべてが見えているということです。
1節をご覧ください。過越の祭りが近づいていました。イエス・キリストの地上での最後の一週間が始まろうとしています。
イエス様の時代からさらに1300年ほど前、ユダヤ人はエジプト人の奴隷となっていましたが、モーセに率いられて、エジプトから解放されました。
過越の祭りは、その解放を記念する国民的な祭りであり、わずか一キロ四方の小さな都エルサレムに、なんと200万人が集まります。
イエス様はローマ帝国からの解放者として群衆に期待されていましたので、うかつに群衆の前で捕らえるとたいへんな騒ぎになります。
そこで祭司長たちは、ねたみからイエスを殺そうとしていたにもかかわらず、この祭りのあいだはイエスには手を出さないことを決めていました。
そこに、イスカリオテのユダが、イエスを売り渡す話を持ってきたのです。彼らは喜んで、銀貨30枚を報酬として渡すと約束しました。
しかし私たちは、これらのできごとの本質を見失ってはなりません。
もともと祭司長、律法学者たちにも、これからどうなるかは見えていなかったのです。しかしイエス様には、すべてが見えていました。
ユダにサタンが入ってイエスを売り渡すことも、ご自分がこの過越の祭りのあいだに十字架にかかることも、イエス様にはすべてが見えていました。
祭司長や、ユダには、もともと先のことは見えていませんでした。彼らはその場の流れに乗っかって、ことを進めているだけです。
しかしイエス様にはすべてが見えていました。そして十字架への苦しみの道を選び取り、裏切られる悲しみさえも乗り越えていかれたのです。
じつはこれこそ、私たちにとって、本当の平安です。たとえこれから、私たちにどれだけ苦しみが待っていても、神にはすべてが見えています。
だから苦しみの中でも、私たちには平安があります。なぜならば、イエス・キリストだけが、これからのすべてのことを見通しておられるからです。
イエスに従う道は、この世ではむしろ失うもののほうが多いかもしれません。しかしその分、天には見えない宝が積まれていきます。
この世で宝を積むことと、天で宝を積むことのどちらを願いますか。両方とも受け取ることはできません。どちらかを選ぶのです。
願わくは、一人でも多くのクリスチャンが、この世で苦しみを受けてでも天に宝を積むことを選び取る信仰を与えられますように。
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2021.1.3主日礼拝説教「時代に捨てられる覚悟」(ルカ17:20-37)
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1.
今日の聖書箇所は、特徴のある組み立てになっています。はじめと終わりに注目してください。
最初のところで、パリサイ人が神の国について「いつ来るのですか」とイエス様に尋ねるところから始まり、それにイエス様が答えられる。
そして終わりのほうでは、今度は弟子たちが神の国は「どこで起こるのですか」と質問し、それにイエス様が答えられる。
みなさんは「神の国」という言葉から、何を連想しますか。光輝く天国でしょうか。救われた者の心に生まれる、神の平安でしょうか。
どちらも間違いではありません。しかし正しい答えでもありません。
神の国は、いまの罪の時代の中でも、信じた者たちの中に生まれているもの。そして静かに成長を続け、やがて完全に現れるもの。
神の国は、信者の心の内側にある目の見えないものであるとと同時に、いまは見えなくてもやがて万人に見える形で世に現れるもの。
そして神の国は、ハゲタカが腐肉に集まる光景に重ねられた、あらゆる罪のさばき、それに先立つ苦しみと争いを経て、現れるもの。
イエス様は、「神の国は、目に見える形で来るものではない」と言われました。
ところがその一方で「見なさい。神の国はあなたがたのただ中にある」とも言われています。
見えないものなのに、見なさい。肉眼ではなく心の目で見るのかと思えば、それは稲妻のように、すべての人に明らかに見えるものである、と。
考えれば考えるほど、わからなくなる。それが神の国だ、と言うことさえできるかもしれません。
しかし大事なことは、神の国の到来について、「いつ」「どこに」「どのようにして」、そんなことに目を留めるのはやめなさい、ということなのです。
神の国は、人間の努力や、社会や科学の発達によって生まれるものではありません。ただ父なる神のご計画により、現れるものなのです。
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