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54彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。55人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。56すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」57しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。58しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。59それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」60しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。61主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。62そして、外に出て行って、激しく泣いた。

2017 新日本聖書刊行会
1.
戦場カメラマンという職業をご存じでしょうか。常に死と危険が隣り合わせの戦場で、兵士や民の写真を撮影し、世界に紹介する人々です。
かつて、ある戦場カメラマンが、雑誌社からインタビューを受けました。記者からの最初の質問は、こういうものでした。
「あなたは数々の危険な戦場に乗り込み、そして必ず生還していますね。その秘訣は何ですか。勇気ですか。それとも情熱ですか。」
すると彼はこう答えました。「面白い質問ですね。勇気も、情熱も、私にはいっさいありません。
しかしもし私が戦場から無事戻って来れた秘訣があるとすれば、それは、私がだれよりも臆病であることではないでしょうか。
臆病だからこそ、無理はしません。臆病だからこそ、限界を知っています。そして臆病だからこそ、生きのびるための準備を欠かさないのです」。
シモン・ペテロは、捕らえられたイエスの後を追いかけて、敵である大祭司の家に乗り込んでいく勇気もありました。
いざというときはイエスのために死んでみせる、という情熱もありました。しかしこのカメラマンの言葉を借りれば、彼には臆病が足りなかった。
臆病、それは悪い言葉として聞こえるでしょう。しかしこの方が言われる「臆病」は、「謙遜」と言い換えることもできます。
自分を過信してはならないのです。自分は決してイエスを見捨てるようなことはない、と信じたペテロのようであってはならないのです。
弱いのです。いとも簡単に、神も、自分も裏切るものなのです。だからこそ、みことばを必要としているのです。
自分が強いと思っているクリスチャンは、みことばを、自分が持っている力にプラスアルファする程度のものにしか考えません。
しかし真に謙遜な者、つまり自分がゼロの者であることを知っているクリスチャンは、みことばだけに頼ります。
ペテロには臆病さが足りませんでした。自分の勇気や情熱を過信して、大祭司の家へと乗り込んでいきました。
彼はまるで役人や兵士たちの仲間のようなふりをして、中庭の真ん中にあるたき火の前に座り込みました。
もし私だったら、人々の目に触れないような、庭の隅っこや、柱の陰から、イエス様をそっと見つめるかもしれません。ガタガタ震えながら。
しかしペテロは違いました。そんなことをしたらかえって怪しまれ、捕まえられる。こういうときは腹に力を入れて、堂々としているもんだ。
思わずアニキと呼びたくなります。しかし神は、ペテロ、いやアニキが想像もしていなかった、意外な人物を使って、彼の高慢を砕いたのです。
56節、「すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました」。
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