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2021.2.21主日礼拝説教「ここに私がいる」(ルカ22:63-71)


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1.
 国民的マンガである『ドラえもん』の中に、ひょんなことからのび太くんが過去の戦争に参加することになってしまうお話しがあります。
そのとき、のび太くんがドラえもんにこう質問します。「どっちの味方をすればいいの?正しい方を助けなくちゃ。
するとドラえもんがこう答えるのです。「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。
大人になって、この言葉がいつも心にのしかかります。私たちが争ってしまうとき、いつも自分の正しさを疑わない、ということを。
戦争だけではありません。人が二人以上集まれば、夫婦関係、親子関係、家族関係、社会関係が生まれます。
そしてそこで争いが起きるとき、だれもが自分の正しさを疑わず、自分の方が間違っているかもしれない、ということを認めません。
すぐに「私が悪かった、ごめんなさい」と言えたらよいのですが、それを認めたくないから、尾ひれをつけてでも、自分の支持者を集めます。
向こうも同じことをしますから、争いがひたすら長引いていきます。そして私たちは、この不毛な渦の中に簡単に巻き込まれてしまうのです。

 ルカは、他の福音書記者と異なり、裁判の前に、イエス・キリストが人々から嘲りや攻撃を受けた姿をまっさきに記しています。
それは、自分が正しい側にいるのだから、罪人には何をしてもかまわないと考えて、正義の暴走に身を任せてしまう人々の姿です。
こんな連中が正義なのか、と思われる方もおられるでしょう。しかし彼らは自分たちが正義だと信じています。だから暴力を振るえるのです。
それは、私たちとは関係ない、野蛮な古代人の姿ではありません。
現代の、信仰者の中にも、世の人々の中にもある、私は正しい側にいる、と必ず考えてしまう、あらゆる人々の姿です。
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コピーライトマーク藤子プロ・小学館

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posted by 近 at 23:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.2.14主日礼拝説教「新しい朝が来た」(ルカ22:54-62)


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1.
 戦場カメラマンという職業をご存じでしょうか。常に死と危険が隣り合わせの戦場で、兵士や民の写真を撮影し、世界に紹介する人々です。
かつて、ある戦場カメラマンが、雑誌社からインタビューを受けました。記者からの最初の質問は、こういうものでした。
「あなたは数々の危険な戦場に乗り込み、そして必ず生還していますね。その秘訣は何ですか。勇気ですか。それとも情熱ですか。」
すると彼はこう答えました。「面白い質問ですね。勇気も、情熱も、私にはいっさいありません。
しかしもし私が戦場から無事戻って来れた秘訣があるとすれば、それは、私がだれよりも臆病であることではないでしょうか。
臆病だからこそ、無理はしません。臆病だからこそ、限界を知っています。そして臆病だからこそ、生きのびるための準備を欠かさないのです」。

 シモン・ペテロは、捕らえられたイエスの後を追いかけて、敵である大祭司の家に乗り込んでいく勇気もありました。
いざというときはイエスのために死んでみせる、という情熱もありました。しかしこのカメラマンの言葉を借りれば、彼には臆病が足りなかった。
臆病、それは悪い言葉として聞こえるでしょう。しかしこの方が言われる「臆病」は、「謙遜」と言い換えることもできます。
自分を過信してはならないのです。自分は決してイエスを見捨てるようなことはない、と信じたペテロのようであってはならないのです。
弱いのです。いとも簡単に、神も、自分も裏切るものなのです。だからこそ、みことばを必要としているのです。
自分が強いと思っているクリスチャンは、みことばを、自分が持っている力にプラスアルファする程度のものにしか考えません。
しかし真に謙遜な者、つまり自分がゼロの者であることを知っているクリスチャンは、みことばだけに頼ります。

 ペテロには臆病さが足りませんでした。自分の勇気や情熱を過信して、大祭司の家へと乗り込んでいきました。
彼はまるで役人や兵士たちの仲間のようなふりをして、中庭の真ん中にあるたき火の前に座り込みました。
もし私だったら、人々の目に触れないような、庭の隅っこや、柱の陰から、イエス様をそっと見つめるかもしれません。ガタガタ震えながら。
しかしペテロは違いました。そんなことをしたらかえって怪しまれ、捕まえられる。こういうときは腹に力を入れて、堂々としているもんだ。
思わずアニキと呼びたくなります。しかし神は、ペテロ、いやアニキが想像もしていなかった、意外な人物を使って、彼の高慢を砕いたのです。
56節、「すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました」。

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posted by 近 at 15:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.2.7主日礼拝説教「裏切りと愛が出会う場所」(ルカ22:47-53)


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序.
 今日も私たちは、神さまが人間に与えられたみことばをタイムマシーンとして、二千年前の弟子たちが見たものを体験することができます。
いま私たちは、エルサレム郊外のオリーブ山上、ゲツセマネの園にいます。
空にかかる月の光が、園の中央にたたずむイエスの顔を照らし出しています。そしてその傍らには、11人の弟子たちの姿があります。
しかし彼らは、大きなオリーブの木の、ごつごつした太い幹によりかかったまま、いまだにとろんとしたまどろみの中にいるようです。
そんな彼らの上に、力強くもどこか温かい、言葉が注がれます。「まだ眠っているのですか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。
しかし彼らが、自分たちが見事に眠り込んでしまったことを恥じるひまもなく、木々のあいだから剣や棒を手にした群衆が現れました。
そしてその先頭には、彼らが三年半ともに過ごした仲間のひとり、イスカリオテのユダの姿がありました。
ユダは笑みを浮かべながらイエスのもとに近づいてきたのに対し、イエスはこわばった表情のまま、ユダにこう尋ねました。
「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか」。そのとき、ぼんやりと夢の続きを見ているようだった弟子たちにもようやくわかりました。
ユダこそ、主が語られていた、裏切る者だったのだ!ユダが裏切ったのは、師であるイエス・キリストだけではありません。
仲間だと信じて、ともに一緒に歩んできたはずの、彼らの三年半の記憶もすべて含めて、彼は裏切ったのです。

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2021.1.31主日礼拝説教「勝利への処方箋」(ルカ22:39-46)


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1.
 イエス様は十字架にかかられる前、「いつものように、いつもの場所に来られた」。今日の聖書箇所の冒頭で、ルカはそのように記します。
イエス様は、いつも、祈りをもって始められました。祈りなくしては、何も始められませんでした。
それは、祈りが、霊的な戦いの準備運動だからではありません。祈りそのものが、霊的な戦いの場所そのものでした。
この「いつもの場所」は、他の福音書の説明によれば、オリーブ山の頂きにある、ゲツセマネの園であったことがわかっています。
イエス様は、いま、サタンに魅入られたイスカリオテのユダが、兵隊や群衆を引き連れてここに近づいてきているのを感じておられたことでしょう。
イエス様の敵は、ユダでも群衆でもありません。この世界と、この世界に生きる人々を、いつまでも罪の鎖の中に引き留めようとするサタンです。
このゲツセマネの園で、イエス様は、サタンと彼が支配しているこの暗闇の世界に対して、たったひとりで戦いを挑みました。
弟子たちは、だれ一人として、このイエスの霊的戦いについていくことができず、瞬く間に眠り込んでしまいました。
地上のだれもがイエスに加勢することができない、この世離れした霊の戦いのさなか、天の御使いがイエスを力づけました。
イエス様は祈ります。イエス様は苦しみます。体中のその毛穴からはまるで血のしずくのように、汗が地にしたたり落ちる、激しい祈りでした。
 祈り終えてイエスは、悲しみの果てに眠り込んでいた弟子たちに近づきました。
そしてまるで何事もなかったかのように、祈る前と同じ言葉を繰り返しました。「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」
しかしイエスがサタンに完全に勝利したからこそ、あたりはまるではじめから何もなかったように静まりかえっていたのでした。
やがてこの園に、ユダと群衆たちがなだれこんできます。しかしイエス様の心は穏やかでした。すでに勝利したからです。
ここに聖書は私たちに教えています。祈りは厳密に言えば、勝利をもたらす力ではない。祈りそのものが勝利なのだ、と。
どんなに小さな祈りであっても、私たちはイエス様の祈りの姿を模範としながら、祈りましょう。
祈り終えたとき、いや、むしろ、祈り始めたとき、すでに勝敗は決しているのです。祈りはイエス様が見せてくださった、勝利そのものです。

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posted by 近 at 17:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ