最近の記事
(02/02)2025.2.2主日第二礼拝のプレミア公開
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
2021.3.21主日礼拝説教「誰もイエスを見ていない」(ルカ23:27-38)
週報のPDF版はこちらです
1.
27節をご覧ください。「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った」。
苦しそうに息を吐きながら、むちでえぐられた体中の傷口から血を流し、ゴルゴタの丘へ向かって行くイエス・キリスト。
そしてこのむごい仕打ちに怒りと悲しみをたたえながら、心配そうにイエスの後をついていく善良な人々を、私たちはここから想像するでしょう。
しかしつまずかせることになりますが、事実はまったくの逆だったのです。彼ら、彼女らは、イエスを慕ってついていった人々ではありません。
確かにイエスを愛し、見捨てず、十字架を遠くから追いかけ、見つめていた、マグダラのマリヤのような女性たちも別の所にいました。
しかし彼女らは「ガリラヤから付き従っていた女たち」です。それに対してこの女たちは「エルサレムの娘たち」と呼ばれています。
この女性たちは、聖書の中にたびたび出て来る、「泣き女」でした。「泣き女」とは、葬式のときに雇われて号泣する女性のことです。
彼女たちは葬儀のときに、遺族の代わりに故人を悼み、大声をあげ、時には独特の節をつけて、一斉に泣きじゃくります。
これは昔のユダヤだけではなく、世界中に共通する習慣だそうです。雇われて泣くこともあれば、近所の人がわずかのお礼で行うこともありました。
日本では「五合泣き」とか「一升泣き」という言葉も生まれました。一升泣きは本気で泣く場合、五合泣きは半分手を抜いて泣きます。
ここでイエスの後ろについていった民衆も、女性たちも、イエスを慕って泣き悲しんでいた人々ではありませんでした。
野次馬根性でついていった民衆たち。偽の救い主イエスへの葬儀の歌として叫び、あざける女性たち。ここには悲しみではなく悪意がありました。
私は今回の説教を準備するなかで、この女たちが泣き女だったという解釈に最初、つまずきを感じずにはいられませんでした。
その時の私と同じように、いや、そうではないだろう、この人々はイエスを悲しみ、ついていった人々ではないのかと考える人もいるかもしれません。
しかしもしそうだとしたら、イエスは誰からも尊ばれずに死んでいった、という聖書のメッセージを忘れてしまっているのではないでしょうか。
イエスの十字架を700年前に預言した、預言者イザヤはこう語っています。「虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと」。(イザヤ53:8)
続きを読む
2021.3.14主日礼拝説教「強いられた恵み」(ルカ23:26)
週報のPDF版はこちらです
1.
イスラエルにあるエルサレムの町には、聖書にちなんだ観光名所がたくさんありますが、ヴィア・ドロローサというのもその一つです。
「悲しみの道」という意味のラテン語ですが、イエス・キリストが十字架を背負いながら死刑場にまで歩いて行ったルートをこう呼んでいます。
ローマ兵の詰め所があったアントニオ要塞の跡地から始まり、ゴルゴタの丘があったと言われる場所へ向かうその道の長さは、約500メートル。
ある観光客が、意外と短いね、と言ったら、ガイドさんが、では次来られる時には、十字架を用意しておきましょうか、と言ったそうです。
自分が磔にされる十字架を背負いながら死刑場まで歩んでいく500メートルの道。
それはどんな猛者でも音を上げてしまう苦しさであり、これ自体が十字架刑の一部でありました。
クレネ人シモンが十字架を背負わされたのは、おそらくそれまで十字架を背負ってきたイエス様の力が尽きてしまったことがあったのでしょう。
それは、ゲツセマネでの祈りの格闘、不法な裁判、むち打たれ、十字架を背負わされる、という体力・気力の限界ということだけではありません。
イエス様の十字架は、同じように十字架刑に定められた他の死刑囚たちとは明らかに意味が異なっていました。
それは、決して罪を犯すことのないお方が、すべての人の罪を背負い、人からは拒絶され、神からは見捨てられるという、のろいそのものでした。
体力・気力が限界に達していたというよりは、イエスが背負われた十字架には、どんな屈強な者さえも押しつぶしてしまうものでした。
イエスが背負われていたものの、とてつもない大きさと重さを、私たちは決して理解することができないでしょう。
それはただ、信仰によってのみ受け止めることができるものです。シモンが背負った十字架は、イエスの背負った苦しみのごくわずか一部でした。
しかしそれでもなお、この経験を通してシモンの人生は変わりました。このシモンに起きたのと同じことが、私たちのうえにも起こります。
この説教が終わるとき、私たちの中に、十字架を背負って生きることがまさに恵みなのだということをおぼえることができるように、と願います。
続きを読む
2021.3.7主日礼拝説教「ペテロとピラト」(ルカ23:13-25)
週報のPDF版はこちらです
1.
先日、7万円の接待を受けていた国家公務員が、激しい批判を受けた結果、辞職するという出来事がありました。
当初、7万円の接待の罪滅ぼしでしょうか、70万円を自主返上するという話だったのですが、それでは世間が納得しなかったようです。
霞ヶ関の中では、小さな風向きを見極めながら築いてきた地位と特権かもしれません、しかし外から吹いてきた大きな風を見誤りました。
それは先週、今週と聖書を通してその生き様を見つめてきたポンテオ・ピラトについても言えることです。
まず、聖書から離れ、実際のローマの歴史書、公文書に記録されていることからわかるピラトという人物をお話しします。
ポンテオ・ピラトは、生まれた年や場所はわかりませんが、家柄だけははっきりしています。ポンテオは、ローマの騎士階級、ポンティウス家。
騎士階級というのは当時のローマ帝国で勢力を強めていた人々で、ちょうど日本では平安貴族から生まれた源氏や平家のようなものです。
ピラトは西暦26年、第五代ユダヤ総督として就任し、西暦36年後に失脚して任を解かれるまでの約10年間、総督の地位にありました。
ピラトがユダヤの総督になれたのは、同じ騎士階級の出世頭であり、当時ローマ皇帝に次ぐ地位にあったセイヤヌスという人物の後ろ盾でした。そしてこのセイヤヌスは、あのアドルフ・ヒトラーのようにユダヤ人を憎んでいた人物でした。
だから彼の後ろ盾で総督になれたピラトも、セイヤヌスを満足させるために、ユダヤ人に対する高圧的な政策を行い続けました。
例えばこのルカの13章には、ピラトがガリラヤ地方の人びとを虐殺し、その血をいけにえの血に混ぜたという記録が残されています。
その他にもローマ皇帝の肖像がついた旗を神殿に持ち込んだり、水道の整備を建前に神殿からお金を奪うといったこともあったようです。
しかしピラトが赴任して5年目にあたる西暦31年、後ろ盾であるセイヤヌスが皇帝への反乱容疑をかけられて処刑されました。
それまでセイヤヌスをバックに、ユダヤ人に対して高圧的な態度をとってきたピラトは、いまや自分の総督の地位も危うい所へ追い込まれます。
そのような状況のなかで持ち込まれたのが、このイエス・キリストの裁判であったと考えられます。
祭司長、律法学者、さらには民衆を敵に回してまでイエスを無罪とするならば、エルサレム中を巻き込んだ反乱が起こることも予想されました。
かといってもし無罪の人を十字架刑にかけてしまえば、それがローマ本国に知られたとき、彼の失脚を願う人々に材料を与えることにもなります。
このように歴史の記録も並べながら聖書を読むと、ユダヤ人に高圧的だったピラトがなぜこの裁判は控えめだったのかが見えてきます。
そしてそれは、まさに人の知恵や計画を越えて、神さまがこの十字架という出来事もしかるべき時に行われたことがはっきりとわかるのです。
続きを読む
2021.2.28主日礼拝説教「逃げ回って二千年」(ルカ23:1-12)
週報のPDF版はこちらです
1.
毎週、礼拝で使徒信条を唱えるとき、「教会が二千年間守り続けてきた、使徒信条を全員で唱和しましょう」と司会者がリードします。
初代教会の時代から、今日の時代に至るまで、クリスチャンは、毎週礼拝でこの使徒信条を告白し続けてきました。
ただ不思議なのは、「使徒信条」という名前の割りには、そこに出てくる名前は使徒ではなく、ポンテオ・ピラトであるということです。
私たちは先ほどこう告白しました。「主は、聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と。
主イエスに苦しみをなめさせた者、という意味では、ピラトよりもイスカリオテのユダのほうがよっぽどふさわしいようにも思えます。
なぜ使徒信条はこのポンテオ・ピラトの名前を入れて、それが代々の教会の礼拝の中で告白されてきたのでしょうか。
ある学者はその理由を、十字架が歴史的事実であることを証言するためだと説明します。
キリストの十字架は作り話ではない、ローマ総督ポンテオ・ピラトの時に起こった証拠として、使徒信条にピラトの名が刻まれたというのです。
しかしそれならば、総督のような中間管理職ではなく、ローマ皇帝ティベリウスのもとに、といった表現のほうがふさわしいようにも思います。
あるいは大祭司カヤパでも、国主ヘロデ・アンティパスでも、イスカリオテ・ユダでもよい、しかしなぜポンテオ・ピラトなのでしょうか。
私はこう考えています。それは、このピラトこそ、イエスを十字架につけた、私たちすべての人間を表しているからなのではないか、と。
彼の弱さは、私たちひとり一人が抱えている弱さです。そして今日の説教の目的は、私たちがその弱さに目を向けることにあります。
今日の箇所を見る限り、ピラトは決して、二千年間も毎週クリスチャンに告発されなければならないような極悪人には見えません。
むしろ彼が、イエスに対して最初に下した評価は、「この人には訴える理由が何も見つからない」でした。
ユダヤ人たちがイエスに対して作り上げた罪状の嘘くささを、彼は見抜いていました。彼はイエスが罪のない人だとわかっていました。
ピラトは、決して無能な男ではありませんでした。むしろ有能な役人であり、イエスが無実であることを確かに感じ取っていたのです。
しかし同時に、ユダヤ人たちがここまでなりふり構わず訴えてきたからには、対処を誤れば自分の立場が危うくなることも感じ取っていました。
彼は、一人で責任を負いたくなかった。だから「ガリラヤ」という言葉を聞いたとき、ガリラヤの領主であるヘロデを引き込もうとひらめきました。
ヘロデがこのイエスを調べて無罪にしようが、有罪にしようが、少なくとも自分がすべての責任を負うことは避けられる、と。
続きを読む