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2021.4.18主日礼拝説教「みことばなるイエス」(ルカ24:28-43)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師、近 伸之です。
今回の説教の中で、「棚からぼたもち」について、とても怒っているくだりがあります。コロナ禍のなかで情緒不安定と思われてしまうのもアレなので、誤解がないように説明しておきたいと思います。
たなからぼたもち【棚から牡丹餅 (ぼたもち)】
 労せずして思いがけない幸運に巡り合うことのたとえ。たなぼた。(大辞林)
 今から15年以上前の話ですが、わが同盟教団の聖会にて関西のある牧師が大声でこんなことを言ってました。
「たまたま公募をネットで見て、この前(2005年9月)衆議院議員に当選した杉村太蔵氏は『棚からぼたもち』と言ってました。私たちクリスチャンにとっても、救いの恵みはまさに「棚からぼたもち」ですよね。みなさん、そうは思いませんか?」
 思いません。しかし少なくない牧師たちが、喜んで拍手をしていた姿をおぼえています。
「棚からぼたもち」は、何の努力もしていないのに、たまたま良いものを手に入れることのたとえです。確かに聖書は「救いは恵みである」と教えています。しかしそれは「努力もしていないのに救われた」ではなく、「救いは努力の結果ではない」ということです。それはまったく似て非なるものと言えるでしょう。私たちはどれだけ努力をしても、それ自体で救いを獲得することはできません。しかしそれは努力という行為そのものを否定することではありません。「努力」を「信仰」の反対語のようにとらえるクリスチャンもいますが、信仰は神からの賜物であるという受動性と同時に、私たちの意思と行動による能動性を持っています。イエスから肉体的・社会的・霊的回復をいただいた多くの人たちが、主から「あなたの信仰があなたを救った」と言われていることはそれを表しています。信仰は人間が何もしないということではありません。信仰を働かせながら知性と心を働かせ、全力で祈りつつ全力で働きます。むしろ「努力」という言葉自体が、信仰生活の切磋琢磨として語られており(ピリ2:16、Uペテ3:14)、「求め続けなさい、そうすれば見つかります」というイエスによる山上の垂訓の一節も同様です。
 私たちは努力によって救われたのではありません。しかしその努力の過程における、自分自身のありのままの姿に対する疑い、失望、その葛藤の先に、自分自身を捜し求めていた神のあわれみを見いだし、救われた者たちも多いはずです。神の前に、これだけ努力をした、と誇ってはなりません。そんなことをしなくても、表面には現れることのない努力を神は見つめていてくださり、私たちに想像もできない賜物をもって報いてくださるのですから。

 先の体験は、とりあえずオモロイことを言っておけばOK」という関西のノリ(関西の方ごめんなさい)かもしれませんが、まだ教師になって4年目だった私はなんだか軽い教団だなあと思いました。あれから15年、まあ軽いところもありますが、幅があって、いい教団ですよ。右はハイパーカルヴィニストから左はカリスマスタイリストまでいますからね。週報はこちらです。





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2021.4.11主日礼拝説教「世界一聞きたい説教」(ルカ24:13-27)


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1.
 今日の週報の表紙には、17世紀のオランダの画家ヤン・ワイルデンスが描いたものを印刷しました。
1487px-Jan_Wildens_Landscape_with_Christ_and_his_Disciples_on_the_Road_to_Emmaus.jpg
ほかにも多くの画家が「エマオへの道」と題した作品を残していますが、共通するのは、極めて人間を小さく描いているということです。
それは、まさにちっぽけな人間の、まさにそのちっぽけさの最たるものである不信仰、そこにイエスは寄り添ってくださるということなのでしょう。
13節にはこうあります。「ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから60スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた」。
60スタディオンは、現在の距離に直すと約11キロメートル。エルサレムからふたりで歩きながらちょうど二時間くらいでしょうか。
夕暮れが迫る中で、互いにああでもない、こうでもないと言い合いながらエマオへと向かうふたりの姿が目に浮かびます。

 彼らの目に映る空は、すでに夕日が傾きかけていました。それはまるでこのふたりの心を象徴しているかのようです。
彼らはその日の朝、墓で御使いに出会った女たちから、イエス様がよみがえられた、というすばらしい報告を受け取っていたのです。
しかし喜びに満たされるはずの報告なのに、一日が終わろうとしている今も、彼らの心には喜びがまったくありません。
イエス様がよみがえった?それが本当だったら、どんなにすばらしいだろう。だが死んだ者がよみがえるなどということがあるわけがない。
彼らもまた、あの真っ先に墓に向かった女性たちのはじめの姿と同じです。みことばが心の中にとどまっていませんでした。
彼らはイエスが十字架にかかられる何ヶ月も前、ガリラヤにいた頃からイエスが語っていた、復活の約束をまったくおぼえていません。
わたしはエルサレムで人々に引き渡され、十字架にかけられ、殺される。しかし必ずよみがえり、再びあなたがたの前に現れる。
みことばを忘れてしまっているからこそ、彼らの議論はいつまでも堂々巡り。不毛な話し合いになっていました。

 しかし感謝すべきは、たとえ私たち弟子がそうであっても、キリストは私たちを見捨てることはない、ということです。
みことば不在のまま、終わりのない議論を続けている二人に、イエス・キリストはにいつのまにか近づいて、一緒に歩いていてくださいました。
よみがえられたキリストは、よみがえりを信じることができない弟子を後ろから追いかけて、一緒に歩んでくださるお方なのです。
彼ら二人には、この不思議な旅人がイエスだとはわかりませんでした。しかしイエスのほうは、私たちのすべてを知っておられます。
その心のすべて、みことばを忘れてしまっているという不信仰さえ知りながら、イエス様は私たち弟子とともに一緒に歩んでくださいます。
それは私たちにもすばらしい励ましを与えます。弟子としてふさわしくないと思うような自分であっても、主は決して見放さないお方なのだ、と。

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posted by 近 at 19:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.4.4主日礼拝説教「みことばを取り戻した日」(ルカ24:1-12)


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1.
 名探偵・明智小五郎と少年探偵団。今の小学生にも読まれているのかわかりませんが、昭和生まれの人たちには懐かしい名前です。
彼らの生みの親である小説家・江戸川乱歩が、そのペンネームをアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーにちなんでつけたのは有名な話です。
このエドガー・アラン・ポーの作品に「盗まれた手紙」という短い小説があります。舞台はポーの生きた時代と同じ、19世紀のフランスです。
ある日、国の政治を左右するほどの重要な、ひとつの手紙が盗まれてしまいました。
犯人はひとりの大臣、隠し場所は彼の執務室であるということもわかっています。ところが警察がその部屋をどんなに捜索しても見つかりません。
それこそ壁紙の裏を剥がし、机の引き出しが二重になっていないか、何ヶ月も、何十人の警官を動員して徹底的に捜索しました。
しかしまるで見つからない。困った警察が、名探偵デュパンに助けを求めてきます。さあ、消えてしまった手紙はどこにあるのでしょうか。

 この小説は約200年前に書かれたものですが、この二千年間、消えてしまったイエスの遺体の謎は人類史上最大のミステリーでした。
十字架にかけられたイエスの亡骸は、ゴルゴタの丘のすぐそばにある、洞窟を掘り抜いて作られた新しい墓に収められました。
ガリラヤから付き従ってきた女たちは、その墓の場所を確かに心に刻みつけて、安息日が空けた日曜日の朝に、墓にやってきたのです。
しかし墓のふたは開いており、中にはイエスの遺体はありませんでした。遺体が横たわっていた場所には、遺体を包んでいた亜麻布がありました。
その亜麻布は、よみがえったイエスがぺりぺりと剥がしたような形では置かれていなかった、と別の福音書では記されています。
まるで中身の遺体が一瞬で蒸発してしまったので、くるんでいた亜麻布がそのままぺしゃ、となったように、人の形を残して巻かれていた、と。
 この二千年間、イエスがよみがえったという、この最大のミステリーを信じたくない人々が、じつにさまざまな説明を考えだしてきました。
たとえば、ある人はこう言いました。「女たちは、となりの墓と間違えたのだ」。(だとしたら、亜麻布はどのように説明すべきでしょうか?)
別の人は、「イエスはじつは死んでいなかったので、自分で墓から出てきた」。(墓のふたは堅く閉じられ、番兵が見張りに付いていた)
また当時のユダヤ人たちは、弟子たちが墓からイエスの遺体を盗んだのだ、という噂を流しました。(見張りと封印をかいくぐることは不可能)

 Amazon商品紹介ページより引用(1059円)
江戸川乱歩が編んだ世紀の必読アンソロジーが全面リニューアル!
欧米では、世界の短編推理小説の傑作集を編纂する試みが、しばしば行われている。本書はそれらの傑作集の中から、編者江戸川乱歩の愛読する珠玉の名作を厳選して全5巻に収録し、併せて19世紀半ばから1950年代に至るまでの短編推理小説の歴史的展望を読者に提供する。第一巻は巻頭に編者の「序」を配し、推理小説の祖といわれるポオ「盗まれた手紙」に始まり、コリンズ「人を呪わば」、ドイル「赤毛組合」、フットレル「十三号独房の問題」など8編を収録し、最初期の半世紀を俯瞰する。新解説=「短編推理小説の流れ1」(戸川安宣)

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2021.3.28主日礼拝説教「きょう、始まるパラダイス」(ルカ23:38-49)


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1.
 今からおよそ140年ほど前、日本では明治時代の中頃にあたりますが、アメリカのある監獄で、ひとりの死刑囚が号泣していました。
看守が驚いて理由(わけ)を訪ねると、囚人はその朝配達されたばかりの新聞の号外を指さしながら、大声をあげて泣き続けました。
そこにはこう書いてありました。「グローバー・クリーブランド、第24代合衆国大統領に選出される!」そして死刑囚は看守に話し始めました。
「このクリーブランドは、若い頃、俺としょっちゅうつるんでいたチンピラだったんだ。だがあいつがある日、教会の前で立ち止まった。
「どうした」と聞いたら、「賛美歌が聞こえてきた。おれは今日この教会に入ってみたい」。「おいおい、今更おまえが教会とかいうくちかよ」。
やがて俺たちはけんかをはじめ、それっきりになった。だがそれから30年の間、おれは何度も罪を犯して死刑囚、あいつは大統領だ。
あの日、おれも教会に行っていたら人生が変わっていたんだろうか」。

 このクリーブランド大統領に関するエピソードが実話かどうか、定かではありません。
ただ、このエピソードは、私たちにこの二人の犯罪人の姿を思い起こさせるものであることは確かです。
この犯罪人は、別の福音書では「強盗」と書かれています。
もともとイエス・キリストがかけられる十字架はバラバがつくはずであったことを考えると、この二人はそのバラバの仲間であったのかもしれません。
だとしたら、彼らは両方とも、バラバと同じように殺人にも手を染めた、まさに十字架にかけられても不思議ではない者たちだったのでしょう。
彼らはイエス・キリストを真ん中に挟むように、一人は右に、もう一人は左に十字架にかけられました。右と左という違いはあります。
しかし彼らはクリーブランドとこの死刑囚のように、同じところに立っています。ともに十字架にかけられるほど重い罪を犯した者たちでした。
そして、右からも左からも、イエス・キリストの頭上に掲げられている文字も同じように読むことができました。「これはユダヤ人の王」と。

 この二人の強盗の出発点は、同じでした。事実、別の福音書では、最初ふたりは一緒になってイエスを嘲っていたとさえ書いてあります。
しかし教会の前でクリーブランドと友人の人生が分かれていったように、イエスの前でこの二人の強盗の道も見事に分かれていきました。
片方の強盗は、「あなたはキリストではないか」と言いながらも、神への恐れもなく、十字架にかけられている自分の罪を見つめようとしません。
しかしもう一方の強盗はキリストを罪を犯したことのない方として恐れ、そして十字架に至った自分の罪を自覚していました。
そのふたりの行き先を変えていった力は、彼ら自身ではありません。ひとりはキリストを嘲り続け、ひとりはキリストを王として受け入れた。
それはただ神の恵みとしか言いようがありません。しかし神の恵みを求める者、そして神の恵みを受け入れる者は生きるのです。
キリストは、自分の罪を自覚していた強盗に対してこう言われました。「あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにいます」と。

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posted by 近 at 20:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ