今回の説教の中で、「棚からぼたもち」について、とても怒っているくだりがあります。コロナ禍のなかで情緒不安定と思われてしまうのもアレなので、誤解がないように説明しておきたいと思います。
たなからぼたもち【棚から牡丹餅 (ぼたもち)】今から15年以上前の話ですが、わが同盟教団の聖会にて関西のある牧師が大声でこんなことを言ってました。
労せずして思いがけない幸運に巡り合うことのたとえ。たなぼた。(大辞林)
「たまたま公募をネットで見て、この前(2005年9月)衆議院議員に当選した杉村太蔵氏は『棚からぼたもち』と言ってました。私たちクリスチャンにとっても、救いの恵みはまさに「棚からぼたもち」ですよね。みなさん、そうは思いませんか?」思いません。しかし少なくない牧師たちが、喜んで拍手をしていた姿をおぼえています。
「棚からぼたもち」は、何の努力もしていないのに、たまたま良いものを手に入れることのたとえです。確かに聖書は「救いは恵みである」と教えています。しかしそれは「努力もしていないのに救われた」ではなく、「救いは努力の結果ではない」ということです。それはまったく似て非なるものと言えるでしょう。私たちはどれだけ努力をしても、それ自体で救いを獲得することはできません。しかしそれは努力という行為そのものを否定することではありません。「努力」を「信仰」の反対語のようにとらえるクリスチャンもいますが、信仰は神からの賜物であるという受動性と同時に、私たちの意思と行動による能動性を持っています。イエスから肉体的・社会的・霊的回復をいただいた多くの人たちが、主から「あなたの信仰があなたを救った」と言われていることはそれを表しています。信仰は人間が何もしないということではありません。信仰を働かせながら知性と心を働かせ、全力で祈りつつ全力で働きます。むしろ「努力」という言葉自体が、信仰生活の切磋琢磨として語られており(ピリ2:16、Uペテ3:14)、「求め続けなさい、そうすれば見つかります」というイエスによる山上の垂訓の一節も同様です。
私たちは努力によって救われたのではありません。しかしその努力の過程における、自分自身のありのままの姿に対する疑い、失望、その葛藤の先に、自分自身を捜し求めていた神のあわれみを見いだし、救われた者たちも多いはずです。神の前に、これだけ努力をした、と誇ってはなりません。そんなことをしなくても、表面には現れることのない努力を神は見つめていてくださり、私たちに想像もできない賜物をもって報いてくださるのですから。
先の体験は、とりあえずオモロイことを言っておけばOK」という関西のノリ(関西の方ごめんなさい)かもしれませんが、まだ教師になって4年目だった私はなんだか軽い教団だなあと思いました。あれから15年、まあ軽いところもありますが、幅があって、いい教団ですよ。右はハイパーカルヴィニストから左はカリスマスタイリストまでいますからね。週報はこちらです。
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