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2021.10.24主日礼拝説教「弟子づくりから町づくり」(使徒5:12-16)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

 この日の臨時教会総会にて、教会の新しい用地取得が正式に承認されました。来月初めの理事会と、法人責任役員会を経て、ようやく契約することができます。私たち豊栄キリスト教会は、法律的には「被包括宗教法人」であり、責任役員である牧師が、財産の処分を伴う契約を行ったりすることはできません。ですから不動産購入に関しても、手付け金を払って、教団理事会の承認が下りるまで物件を確保するということはできません。(売主や仲介業者によっては認めるところもありますが、教団に所属する教会が契約の主体となるためにはあくまでも教団の認可が必要になりますので、グレーゾーンと言えるでしょう)
 しかし総会は最低でも公示から二週間、理事会は月一回、という限界がありますから、総会や理事会で承認される間に物件が他の方へ売れてしまう可能性もあります。今回の私たちに関しては、良心的な仲介業者を通して、売主様に「◯月◯日まで待ってください」という承認をいただいていますが、しかしそれも契約書面や手付け金を介してではありませんので、あくまでも信頼関係の中でのやりとりになります。

 牧師として約二十年、教会に来会者を収容できる駐車場がないことに心を痛めてきました。いや、駐車場がないことに心を痛めたのではなく、たとえ公共施設の駐車場であっても、許可をとっていなければ、それは違法駐車であるという認識が薄いことに心を痛めていたのです。
 これは、時代の移り変わりにクリスチャン自身がついていっていないこともあるのでしょう。確かに一昔前までは、公民館長や職員にお願いしてちょっと停めさせてもらうという鷹揚な時代もあったのです。しかしそのような属人的運営が批判されるようになり、どこも厳しくなっています。しかし私たちに限らず、いかに多くの教会が、駐車場不足に対して自分本位なのかということも思わされます。A教会に行ったとき、「そこのスーパーの端の方に停めてください」と言われ、B教会では、「ここらへんは警察も来ないから、路駐しても大丈夫」と言われました。コンビニでトイレを借りるのとは違うのです。「駐車場がないから仕方ない」というのは、教会の都合でしかありません。もしそこから後ろめたささえ感じなくなったら、どれだけ「世の人々が救われますように」と叫んでも、それはあまりにもむなしく響きます。

 もちろん、新潟のようなクルマ社会において、それは現実的には難しい要請でしょう。しかし公共であれ民間であれ、無許可で他施設に駐車することはいけないことなのだという認識は失ってはなりません。不便ではありますが、駐車場がなければ教会員は電車で通い、駅と教会の間を送迎したり、あるいは何人かで乗り合わせて、運転者以外は教会の前で降ろし、車は駅前のコインパーキングに停める、といったふうにしている教会もあります。「そんなことは大変だ、人手がない」とため息をつく前に、その大変さを、証にならない方法で回避しようとすることを恥じなければなりません。
 最初は私も無知であり、無頓着でした。しかしやがて近隣の医院・薬局と親しくなり、日曜日だけ貸していただけるようになりました。無料で貸していただける代わりに、冬季の除雪を有志がお手伝いしています。さらに今は分散礼拝となり、各礼拝の参加人数を絞っているので、日曜日に駐車スペースがない、ということはありません。しかし駐車場がないので、活動はほぼ日曜日だけに制限されてしまいます。ですから、たとえ土地購入費用がかさんだとしても、「来会者の車が敷地内にすべて駐車できて、証しを立てる(というか、不証しを立てない)ことができる、広い土地を与えてください」と祈り続けてきました。

 しかしそのような広い土地を、決して経済的には潤沢でない教会が得るためには、豊栄のような地方都市であっても、市街化調整区域に絞るしかありません。市街化調整区域は、新規建築を抑制する地域ですので、教会は原則建てられませんが、農地転用や既存住宅の建て替えを駆使して、例外的に認められる場合もあります。しかし仮にそれができたとしても、人々の生活圏からは遠のき、逆にクルマを持っていない方には不便になります。かといって市街化区域に広い土地が出るかと言えば、二百坪以上の土地が出る確率は低く、出たとしても市街化区域ぎりぎりの不便なところだったりします。
 そのジレンマの中で数年間祈り続けました。砂を噛むような祈りでしたが、このたびまったく予想もしていなかった時期、そして場所に、私たちの積立でなんとか届く価格で、広い敷地が示されました。契約が完了するまでは、(悪い意味で)どんでん返しがあるのではないかという不安さえありますが、しかしそれでも神は、私たちにとっては困難さえも益として、教会が地域に必要とされるものとしてくださると思っています。土地や建物だけではなく、そこで礼拝を含めて、これから何をしてゆくのか、丁寧に話し合っていかなければなりません。しかしそれは重荷ではなく、期待もあります。どうか当教会のためにお祈りいただけたら幸いです。週報はこちらです。





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2021.10.17主日礼拝説教「山は動いた」(詩121)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 今回の説教は、この一週間前の10月10日に村上福音キリスト教会の会堂増築感謝礼拝での記念説教をアレンジしたものです。
手抜き?いえいえ、牧会的配慮です。
 私たちの教会も、このたび新しい会堂用地が示され、今度の主日に臨時教会総会を行います。10/10の村上での説教奉仕は何ヶ月も前から決まっていたことですが、ちょうど並行して、当教会でも新会堂用地が突然示され、総会公示期間3週間を含む、約一ヶ月半のあいだに、準備委員会・役員会・総会へと次々に進んでいくプロセスは、ノンクリスチャンである売主様や仲介業者さんとのやりとりを含めて、不思議の連続でした。その中で、私自身の確信も確かなものになっていき、いよいよ総会を迎えます。
 牧師が迷っているものを総会にかけるのは禁物です。総会は「牧師や役員会では決めかねないから、みんなで決めよう」というためのものではありません。総会に出席する信徒は、牧師・役員以上に判断材料が限られているのですから、そこに決定を「ゆだねて」しまうのは危険なことです。総会は「みんなにゆだねる」のではなく、「みんなに認めてもらう」ための場所です。牧師と役員が共同して、なぜこの議案に賛成してほしいのかを説明する。そしてもしその説明が足りなければ、信徒は質問する。しかし反対ありきの敵対的な質問ではなく、現状では反対でも、質問とその回答を通して賛成への一石としていただくことが提案者の願いであることをわきまえながら、信頼関係を踏まえた質問と回答がなされていき、そこで教会の徳と証しが生み出される。それが教会の総会であり、株主総会とは違います。いや、株主総会に出たことがないから知らんけど。
 「委任状に反対意見を書いて提出する」という方法もあるようですが、「委任」というのは実際に出席する誰かに自分の意見を託す(白紙委任であれば議長に、指名委任であればその人に)ことなので意味が通りません。何よりも、反対意見を出して、実際には出席しないということであれば、総会を通していろいろな人の意見を聞きながら、自分自身の意見を修正していくという総会本来の趣旨に反することになります。確かに総会は、教会において最高の議決機関です。しかしそれは機械的な解釈ではなく、人間の最初の意見(議案に対する第一印象)は間違えやすい、しかし総会に出席し、論議を尽くすことを通して、思い込みや偏狭な考えがあればそれを修正し、その議案が正しい方向へと進むことを前提としているのであって、それを無視して、自分の意見を送りつけることが総会だというのは、少なくともキリスト教会においては慎重であるべきでしょう。
 じつはこれは古代ギリシャの直接民主政の時代から、永遠の政治の課題です。たとえば私たちは、選挙を通して、国会議員や地方議会の議員を選びます。しかし一体何をもって選ぶのか、というと、政策を理解して投票することはまれです。なぜならば、候補者自身が、自分の政策を説明する能力に欠けているからです(笑)。ですからほとんどの選挙は、候補者の名前を連呼するか、「今度こそ私に一票を与えてください」と同情を誘うか、有権者は本来の政策を理解することができないまま、投票することになります。かつて日本では、普通選挙権はなく、ある程度裕福な人や、男性のみに選挙権を与えていました。それは批判もありますが、実際の所、女性に教育の機会が与えられていなかったり、貧しくて文盲の人々が大多数の中で、ある程度は仕方のないことだったと思います。しかし現代はそうであってはなりません。印象だけで大事なことが決められてしまう、衆愚政治を繰り返してはいけません。それを利用したのがヒトラーでした。ヒトラーは暴力で政権をもぎとったのではなく、選挙によって合法的に選ばれたのです。候補者は誠実に政策を語り、有権者は謙遜に学び続ける、そのような主体的参加がなければ、直接民主政は、実際の所は独裁制と変わらないものになってしまうのです。
 少し話がそれましたが、牧師が確信を持てず、説明もできないような事柄を、教会総会の決定にゆだねることは罪です。今回の用地も、会堂建設準備委員会で説明してもし多数の反対があれば、到底役員会にも総会にも出すべきではないと思っていました。しかし準備委員会では、決して安くはない負担にもかかわらず、牧師からの情報発信が誘い水となって、委員の口から幾多の熱いビジョンが語られ、準備委員会の決議として、役員会に提案することが承認されました。その次の週にはすぐに役員会が開催され、重要な議案ですので決定まで二週をかけましたが、それは役員の考えが分裂したからではなく、役員会が責任をもって総会を招集するのだから、たとえ全員が一致して賛成でも、結論を出す前に一週間祈ろうということになったのです。それでも一週間後、役員会の意思は変わらず、全員一致にて総会への提案となりました。ただ、実際に不動産市場に出されているものを購入するわけですから、そこには慎重さだけではなく、迅速さが必要です。そこでどうしてもプロセスに説明が欠けていたりするところも出てきます。それもまた総会の中でしっかりと討議され、みんなが確信をもって進んでいくものになること、それが祈りの課題です。お祈りください。週報はこちらです。





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posted by 近 at 14:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.10.10主日礼拝説教「今、私に」(ヤコブ1:22-25)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 10月10日は、かつて兼牧していた村上福音キリスト教会の会堂増築感謝礼拝での記念説教を依頼され、当教会の礼拝は、新潟聖書学院でキャンプ関連のいろいろご奉仕しておられた佐々木昇先生にお願いしました。今年からその奉仕を離れ、来年度からは通常の牧会につく予定であるということです。いつもの私の一本調子の説教とは違う、滋味豊かな説教を語ってくださいました。
 ところが現在、当教会では一日に三回礼拝を行っており、第一礼拝は8:00からなので柏崎在住の佐々木先生にはお願いできません。で、結局、私が説教を準備しました。違う聖書箇所から語ると、週報(プログラム)がもう一枚必要になるので、佐々木先生と同じ箇所から語りました。ある教会員は、第一と第二の両方に出席したそうです。たぶん同じ聖書箇所からでも、アプローチもだいぶ違うのかもしれません。佐々木先生の説教は、10/16土曜の正午まで、ライブ配信の中で聞くことができます。午後になると、ライブ配信のページを、次週の礼拝のライブに上書きしてしまうので、期間限定!産地直送!問答無用!とりあえず四文字熟語にすると、そんな感じです。
 来週の私の説教は、村上での会堂増築記念説教を修正したものを語る予定です。偶然、ではなく、みこころ、と思いますが、いま当教会でも新会堂用地が示され、24日に臨時教会総会を行います。村上の兼牧で経験したことがありました。本当に成功する会堂建築というのは、人間の思いを越えた神のみわざがこれでもかこれでもかとついてくるのです。問題もたくさん起きて、もちろん祈ったことも数え切れないのですが、不安の中で祈るということはありませんでした。次は神様は何をしてくださるんだろうとニヤリとするくらいの余裕がありました。今回の物件もそれ以上ですので、総会で否決されたらどうしようとか一切考えていません。商人が畑に埋まっている宝を見つけたら、財産を全部売り払ってでも手に入れるというたとえ話そのものが、いま目の前に起きています。どれだけ犠牲を払うことになっても、それは苦痛や不安ではなくて期待しかない、ということが本当に起こるのですね。これについては近い将来に、お話しできる時が来るでしょう。乞うご期待。週報はこちらです。





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posted by 近 at 20:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.10.3主日礼拝説教「明日のために種を蒔く」(詩126)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
遅ればせながら、この木曜日にようやく1回目のワクチンを打つことができました。武田モデルナです。なんか帰国子女みたいな名前ですね。
本当はもっと早く打ちたかったのですが、もし副作用が起きて倒れてしまったら、替えがいないのが牧師の仕事(先週のブログとまるで逆のことを言っていますが)。
現在の私の生活パターンは、日曜日には3度の礼拝、月曜日は次週の説教を作成して録音、火曜日は翌日の水曜祈祷会メッセージの準備、といったように、週の前半に比較的、クリエイティブな仕事が集中していますので、ワクチンを打って、1〜2日寝込むなんて話を聞くと、接種を受けることができるのは木曜日しかありません。そんなこんなで、こんなに遅くなってしまった次第。
頭痛、発熱はありませんが、まだ腕が痛いです。そんな私をことのほか喜んでいるのがうちの妻。
腕が痛いのを知っていながら、朝っぱらから「ヨォ、元気?」とか言って、痛い方の腕を叩いてきます。悪役プロレスラーみたいですね。
ただ、副作用がこの程度で済んで、よかったと主に感謝しています。
次の日曜日は、別の教会で説教奉仕ですが、豊栄ではとっておきの外部講師を頼んでおりますので、お楽しみに。週報はこちらです。





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posted by 近 at 20:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.9.26主日礼拝説教「磐上人生」(マタイ7:24-27)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
また一人、昭和の巨星が逝かれました・・・『ゴルゴ13』の作者、さいとう・たかを氏です。
作者が亡くなると作品も終わってしまう、というのが漫画界の常識ですが、さいとう氏の偉業は、作者とアシスタントの協力体制によるプロダクション制を極めて早くから確立させていたということ。『ゴルゴ13』は「作画はアシスタントに任せて、作者はゴルゴの目しか書いていない」という噂があり、長期連載のライバルであった秋本治氏の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』30巻にも、その噂をパロディー化した「近所の大先生」が出てきます。
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20211002-152324.jpgコピーライトマーク秋本治・集英社
牧師は何でも屋でなければならない」と先輩牧師に言われたことがあります。確かに牧会は、説教の勉強だけでなく、事務、経理、福祉、政治、あらゆる領域に対する知見が求められます。しかし、「牧師は何でもしてはならない」のです。(「何もしてはならない」という意味ではないので、読者はよく読み取るように)
 牧師が何でもしてしまう教会は、いつのまにか牧師に依存し、本来、教会員が自らみことばから考えて、行うべきことさえも、牧師や牧師夫人が行う、あるいは指示がなければ何もしない、ということになります。そしてその牧師が天に召されたり、異動されたときに、教会そのものが動かなくなる、ということも起こります。
 その意味で、さいとう氏が亡くなられた直後に、掲載誌の編集部が「ゴルゴ13はこれからも続きます」とコメントしたことは、ご本人が一番喜んでおられることかもしれません。戦場カメラマンの故ロバート・キャパの言葉を借りるならば、「牧師(戦場カメラマン)の夢は廃業である」(牧師がいなくても、信徒がお互いに教え合うことができる)のです。しかしそのような自立は決して簡単に生みだされるものではないがゆえに、それまでは牧師たちは産婆役を引き受けなければなりません。
 私も、たとえ土曜日に天に召されても翌日はいつもどおりに礼拝がささげられる教会を目指しながら牧会しています。け、決して怠けているわけじゃないんだからね!週報はこちらです。







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posted by 近 at 16:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ