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2021.11.21主日礼拝説教「この方以外には救いはない」(ヨハネ4:46-54)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 いよいよ、新会堂用地(と築50年の民家)の引き渡し時期が近づいてきました。残金の支払いと所有権移転登記は来週なので、ここではまだ物件を明らかにすることはできませんが、今後はブログに会堂建設のコーナーを作り、情報公開(そして献金とお祈り)を行っていきたいと思います。すでに、ブログやオンライン礼拝を通して、外部の方から献金をいただいております。この場を借りて、心から感謝いたします。
 築50年の民家は、当初、取り壊して更地にするというのが売主様の意向でした。しかし取り壊さないで現状有姿で引き渡してほしいとお願いしたところ、承諾と共に、取り壊し費用の百数十万円を減額してくださいました。これが高いか安いかは置いておくとして、この減額分がなければ、実際は手持ち資金がぎりぎりだったことは確かです。この民家をリフォームするか、いずれやはり更地にするのかは、これからの話し合いになるのですが、もし何らかの原因で火災が起きてしまったら大変です。建物本体の補償は最低限でよいが、隣家に延焼した場合の補償はしっかりしなければ、と思って、火災保険について調べてみました。
 すると、日本には「失火責任法」という独特の法律があることがわかりました。以下はソニー損保のホームページからの引用です。
 失火責任法は、正式には「失火ノ責任ニ関スル法律」といい、明治32年に定められた法律です。この法律では、「失火(過失による火災)の場合は、損害賠償はしなくて良い。ただし重大な過失の場合を除く」といった内容が定められています。つまり、自宅の火災で隣家に火が燃え移ってしまったとしても、「重大な過失」がなければ隣家への賠償はしなくて良いことになります。しかし逆に言えば、隣家の火災で自宅が損害を受けても、火元の家主からは賠償してもらえない場合がある、ということです。
 自動車保険とは違うのですね。しかし実際に火災が起きて隣家に延焼した場合、もし隣家が火災保険に入っていなかったら、まったく補償がないわけで、それからのお付き合いに甚大な影響があります。そこで各保険会社では、特約として「類焼損害補償」や「失火見舞費用」などをつけているそうですが、それをつける人は全体の二割に満たない、ということでした。個人的にはリフォームすればまだまだ住める建物と思っていますが、もしかしたら取り壊すことになる可能性もあります。その建物にあえて保険をかけて特約をつけるかどうかは、これから委員会や役員会での話し合いになりますが、宗教施設が地域にできるというだけで反対運動が起こることもある昨今、私たちもあらゆる事態を想定していかなければなりません。ひとつひとつの問題に、信仰と誠実をもって歩んでいくことができるように。週報はこちらです。




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posted by 近 at 19:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.11.14主日礼拝説教「最初の奇跡」(ヨハネ2:1-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 毎年この時期になりますと、世では七五三のシーズン。当教会では代わりに「子ども祝福式」を行っています。とはいえ、以前は大勢の教会員が祝福してくださるなかで、子どもたちのお祝いをしていたのですが、今は礼拝も分散形式を余儀なくされていますので、少し寂しい感じがします。今回、メッセージも同じ聖書箇所から、大人向けと子ども向けに2パターンを用意して、それぞれの礼拝で語りました。子ども向けの方は、説教原稿も一応作ってはいますが、ここでは割愛します。大人向けと子ども向け、それぞれのメッセージ録画へのリンクを張りましたので、暇な方興味のある方はご覧ください。
 来年は、みんなが集まることができたらいいですね。コロナ禍の中で、戦っておられる方々がいやされ、励まされるようにお祈りしております。週報はこちらです。

(第二礼拝)

(第三礼拝)



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posted by 近 at 18:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.11.7主日礼拝説教「代わることのできない身代わり」(創22:6-14)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
 この一ヶ月間、会堂建設(用地取得)に向けての奨励が多かったため、「十字架を語っていない!」というお叱りの声があったかどうかはわかりませんが、ひと月ぶりの伝道的説教です。逆に創世記の箇所から、ほとんどの話が十字架のイエスについてなので、逆に「釈義がおかしい!」というお叱りの声もあるかもしれませんが。
 今回のメッセージの中ではイエスが「神にのろわれた者となられた」ということについて強調しています。福音は「神が私のために死なれた」ということですが、イエスにとって死よりも過酷なものは、「三位一体の神として、永遠に父と一つであられた方が、一時的とはいえ神にのろわれ、切り離されるものとなった」、それが十字架でした。その意味で、私たち説教者は、キリストの痛みや犠牲について語ることは多くあっても、「のろわれた者となった」ことは薄めてしまっているのではないかと自戒させられる説教でした。
 もちろん、そののろいは、キリストが十字架に至るまで父のみこころに従ったことによって取り去られ、キリストはよみがえられ神の右の座につかれた、ということなのですが、愛である神が私たち罪人への愛のあかしとして御子を十字架に差し出し、かつそれは御子がのろわれる者となることであったというのは、人間の感情や知識では理解し得ないことだと思っています。それを自らのものとなし得るのは、やはり信仰によるとしか言えません。私たち教会は、今日、伝道説教でさえ人間の知恵をこらした例話や、わかりやすい組み立てといったものを用いて語ろうとしていないか、改めて問われます。週報はこちらです。




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posted by 近 at 21:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ

2021.10.31主日礼拝説教「礼拝はささげるもの」(創22:1-5)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。





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posted by 近 at 17:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2021年のメッセージ