今回のメッセージの冒頭で、「越後屋、おぬしもワルよの〜」という、しょうもないネタを仕込みましたが、出席していた小学生たちから「あれってどういう意味なのか」と親御さんに質問が飛び、説明に窮したということでした。昭和の頃は、小学校でもネタに使ってたんですけどね・・・そうだ、YOUTUBEにないかしらんと思って検索してみたら、面白いのが見つかりました。30秒あたりから、なぜかラップになります。
時代劇ミュージカル短編映画「サムライオペラ」
超定番な時代劇を全編英語のミュージカルにした20分のショートフィルム。浪人が歌う、町娘が回る、悪代官がほくそ笑む。
公式から20分まるごと公開という太っ腹仕様。どうぞご覧ください。https://youtu.be/yei4XoNHMx0
以下は今回の説教。説教原稿は、「プログラムはこちら」>「説教」をクリックしてください。
前 奏1さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。2ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。3ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。2017 新日本聖書刊行会
1.天地(あめつち)にまさる 神の御名を ほむるに足るべき 心もがな
2.おごらずてらわず へりくだりて わが主の御座(みくら)と ならせたまえ
3.生くるも死ぬるも ただ主を思う ゆるがぬ心を 与えたまえ
4.心をきよめて 愛を満たし わが主のみすがた ならせたまえ
5.み恵み豊けき 主よ来たりて 心に御名をば しるしたまえ アーメン代表祈祷 (司会者)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)7ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。9あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。10斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。11私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。12また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」2017 新日本聖書刊行会
1.
「越後屋、おぬしも悪よのう」「いえいえ、お代官様こそ」。
時代劇ではおなじみの場面ですが、悪徳商人の代名詞がいつも「越後屋」になっていることに、新潟県人として悲しく思うことがあります。パリサイ人とサドカイ人は、この越後屋と悪代官に匹敵する悪いイメージで見られている人々ですが、驚くべきことに、彼らの大勢が罪を悔い改めて、ヨハネのバプテスマを受けに荒野へやってきたというのです。しかしバプテスマのヨハネは彼らに厳しい言葉を向けました。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」。
「アブラハムの子孫」を自負している彼らに対して、ヨハネが放った言葉は、「マムシの子孫たち」でした。ヨハネには、彼らの姿は、文字どおりまむしに見えたのです。あたかも茂みの中のまむしが、回りに火がついたからあわてて外に這い出してきたように、彼らは悔い改めるためにやってきたのではありませんでした。バプテスマを受けようとはしましたが、それは悔い改めの結果としてのバプテスマではなく、人々の前で体裁を整えるためだけのものでした。自分の罪を見つめたわけでもない、ただ周りの人々が我先にとバプテスマを受けに行く姿を見て、ただ同じふりをしているだけだったのです。
私たち現代の読者は、パリサイ人やサドカイ人について、あたかも民から嫌われていた人々とイメージするかもしれません。しかし実際は彼らは民から尊敬されていた人々でした。イエス様が誕生するより約150年前、ユダヤ独立戦争の中で命を捨てて戦った祭司や教師たちの末裔、それが彼らパリサイ人やサドカイ人でした。しかし表向きは謙遜な宗教者に見えていた彼らの心の奥には、高慢がありました。自分たちこそ、選ばれた者たちなのだ。民に悔い改めを勧めることはあっても、自分たちが悔い改める必要などない、と。
2.
しかし神が最も嫌われるのは、高慢なのです。創られたものに過ぎず、束の間の存在に過ぎない人間が、あたかも自分たちの考え、生き方が絶対であるかのように振る舞うならば、その心から神への感謝は薄れ、自分自身が神に成り代わる。ヨハネは、あわれみつつ、しかし厳しく語ります。勘違いしてはならない。神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を創ることができるのだ。
その言葉を私たちは自分自身が高ぶりに陥らないために心に刻みつけるべきです。私たちがどれほどの苦しみを経て信仰にたどり着いたとしても、救われたのは、あくまでも神様のあわれみです。自分の努力で救われたわけではない。それを忘れるとき、自分と異なる考えを持っている人をさばきます。私という人間は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことができる、大いなるお方のあわれみによって生かされているものに過ぎません。
旧約聖書のエレミヤ書の中に、神を陶器師に、人を陶器にたとえている箇所があります。陶器師から見たら失敗作でしかない、欠けた器を、なぜか陶器師は壊すことなく、自分の代表作として製作目録の中に加えてくださいました。どうしてなのかは、陶器師以外には誰もわかりません。創られた私たち自身も、首をかしげるしかありません。しかし確実なのは、それでも私たちは神の子どもとして、神の作品として、救われて永遠の御国に入る資格を与えられたということです。
パリサイ人、サドカイ人は、表向きは謙遜を振る舞っていましたが、実際には高ぶりの極みの中にありました。その姿を反面教師として、私たちは自分たちがただあわれみの中に生かされていることをおぼえましょう。お互いに、相手を自分よりも優れた者として受け入れていきましょう。
3.
ヨハネは、自分が授けている水のバプテスマは「悔い改めるためのバプテスマ」と呼んでいます。それははっきり言えば、不完全なバプテスマです。悔い改めという、救いへの入り口までは提供しますが、そこから先の扉を開く力はありません。どんなにからだを水で洗っても、罪そのものを洗い流すことはできない。どんなに人が罪をあらいざらい告白したとしても、その罪を赦すことのできるお方がいなければ、罪の問題は解決しない。しかし喜べ、目を上げろ。私のすぐ後に、本物のバプテスマを授けるお方がやってくるのだから。それが、いま私たちが受け取っている、聖霊と火によるバプテスマです。それを与えてくださった方こそ、イエス・キリストです。この方が私のために罪の身代わりとなってくださったことを、私が信じることができたのは、私が神の御霊をいただいたからです。私だけではなく、すべてのクリスチャンがそうです。使徒パウロははっきりと手紙に書いています。「聖霊によるのでなければ、だれもイエスは主であると告白することはできない」。
そしてクリスチャンの歩みは、日々この聖霊を新しく注がれて、新しく生まれ変わり続けることを求めていくことに他なりません。去年の灯油のままでは、不完全燃焼を起こします。私たちが聖霊によって燃やされ、人々にともしびを照らす。冷め切った心を暖める。古い罪を焼き捨てられて、いつも新しくされ続ける。聖霊と火のバプテスマは、私たちを救ったあの日以降も、絶えることなく、私たちを変え続けます。しかしそれが与えられたのもあわれみであり、そしてそのあわれみの背後には、神のひとり子であられるイエスが、私たちの身代わりとして十字架にかかってくださった、永遠の愛がありました。私たちに与えられた完全なるバプテスマをかみしめるとともに、十字架の恵みを改めて心の中に刻みつけて、歩みましょう。
結.
最後に、まだイエス・キリストを信じ、受け入れていない人々に懇願します。どうかイエス様を救い主として受け入れてください。すでに斧は根元に置かれています。キリストを信じて人生の方向転換をなした者は麦として倉に収められますが、そうでない者はもみ殻として集められた後、消えない炎の中に投げ込まれてしまいます。これは、すべての人間に明日、いや、今日起こるかもしれないことなのです。二千年前に救い主として来られたイエスは、次に来られる時にはさばき主としておいでになられます。その日が来る前に、イエスを救い主として受け入れて、永遠のいのちをいただいてください。たしかに、聖霊が働いてくださらなければ、私たちはイエスを主として告白することはできません。しかし聖霊の声に耳を傾けて、イエスを信じるか、それとも聖霊の声に耳を閉じて、その話はまた今度、とするかは、私たち人間の決断も関わっています。どうかひとり一人が、聖霊の呼びかけに心を開き、イエスが十字架で私の罪を贖ってくださったと信じることができるように。報 告1.まきびと羊を 守れるその宵 妙なるみ歌は 天(あめ)より響きぬ 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ
2.仰げばみ空に きらめく明星(あかぼし) 夜昼さやかに 輝きわたれり 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ
3.その星しるべに 三人(みたり)の博士ら メシアを尋ねて はるばる旅しぬ 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ
4.奇(くす)しき光の 導くまにまに 博士はまぶねの 主イエスに見(まみ)えぬ 喜びたたえよ 主イエスは生まれぬ アーメン父 御子 御霊の おお御神に ときわに絶えせず み栄えあれ み栄えあれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。 アーメン