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(02/02)2025.2.2主日第二礼拝のプレミア公開
(01/31)2025.1.26「一つになってともに生きる」(詩133-134)
(01/24)2025.1.19「綱は断ち切られた」(詩129:1-8)
(01/17)2025.1.12「祝福の秘訣」(詩128:1-6)
(01/10)2025.1.5「終わりの時代は恵みの時代」(ルカ21:1-19)
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2022.4.24主日礼拝説教「主よ、交わりをありがとう」(ヨハネ21:1-14)
聖書朗読は12:05〜 説教は19:20〜
2022.4.17主日礼拝説教「空っぽの墓にいのちがある」(ルカ24:1-12)
聖書朗読は13:15〜 説教は20:00〜
2022.4.10主日礼拝説教「主が見捨てられたからこそ」(マルコ15:22-34)
説教は15:30前後から
週報のPDF版はこちらです
前 奏1私たちが聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕はだれに現れたか。2彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。3彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)22彼らはイエスを、ゴルゴタという所(訳すと、どくろの場所)に連れて行った。23彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとしたが、イエスはお受けにならなかった。24それから、彼らはイエスを十字架につけた。そして、くじを引いて、だれが何を取るかを決め、イエスの衣を分けた。25彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた。28【本節欠如】
29通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。30十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。32キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
33さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。34そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。2017 新日本聖書刊行会
1.
「十字架につけろ!」「十字架につけろ!」狂ったように叫ぶ群衆の怒り声、兵士たちに突き飛ばされながら、イエスはゴルゴタの丘にまで連れてこられました。兵士たちは乱暴にイエスの衣を剥ぎ取り、別の兵士たちは地面の上で十字架を組み立てました。そしてイエスの手を、足を、それぞれ十字架の横木と縦木に押さえつけました。兵のひとりが手首を乱暴に押さえつけ、主の五本の指を無理矢理に広げます。そして他の兵士が左手に釘をつかみ、主の手のひらの真ん中に押し当てつつ、右手の金槌を何度も振り下ろす。肉の裂ける音、血の飛び散る音。イエスは釘が打ちつけられる瞬間、どのような声をあげられたのか。それとも歯を食いしばって声を殺されたのか。あまりの痛みに目を閉じられたのか。それとも苦しみの杯を飲み干すために目を見開かれたのか。
しかし、じつはこれらのことは聖書には一切書いてありません。イエスの十字架こそが福音の中心であるにもかかわらず、福音書はどれも十字架につけられる瞬間については、たった一言でしか語っていないのです。マルコの福音書では、24節にあっさりとこう書かれています。「それから、彼らはイエスを十字架につけた」。他の三人の福音書記者、マタイ、ルカ、ヨハネ、すべてこの調子です。彼らが書き残しているのは、「イエスは十字架につけられた」というたった一言のみです。どれだけ屈辱にまみれた瞬間だったのか。どれほどの苦痛であったのか。肉をえぐられ、骨を削られるその痛みについて、一切、記していないのです。十二弟子の一人、マタイのように逃げ出してしまった者であれば見ていないから書けない、ということはあるかもしれません。しかし同じ十二弟子であるヨハネは、十字架の間近でその瞬間を目撃していた者でした。それでもヨハネも、十字架を淡々としか記していません。このマルコを含めて、なぜどの福音書記者も、十字架を淡々としか記そうとしないのか。
2.
それは、福音書記者たちは、この十字架に至っては、罪人の視点で描くことに徹しているからです。あらゆる人間にとって、イエスの十字架はしょせん人ごとでしかありません。兵士たち、祭司長たち、律法学者たち、道行く者たち、共に十字架につけられた犯罪人に至るまで、イエスの十字架が自分のためなのだと考えた者はひとりもいませんでした。彼らにとってイエスの十字架は自業自得でしかありません。神を自称し、それゆえに十字架にかけられて殺されたのだ、と。預言者イザヤが700年前に預言したとおりでした。そしてさらに二千年経った今日においても、人は、イエスの十字架の出来事を聞いたとしても、それを他人事と受けとめていることは何も変わっていません。
人々は言います。二千年前のエルサレムに私は生きていない。なぜ二千年前の出来事が自分に関係があるのか。十字架などというものが今の自分の生活と何の関係があるのか。人は十字架の出来事を、カビの生えた大昔の出来事としか見ようとしません。しかし、十字架はあなたのためでした。十字架で死なれたイエスを、自分とは関係のない昔の人としか受けとめられない、あなたのためにイエスは十字架で死んでくださいました。イエスを十字架につけた後、着物をくじでわけた兵士たち。十字架の一番そばにいながら十字架が見えていない人々の中に、あなたもいました。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」。むしろ自分こそ救いが必要だということを知らずにあざける人々の中に、あなたもいました。「今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」。目に見えるものしか信じようとしない愚かさを自ら言い表す人々の中に、あなたもいました。イエスの十字架の右と左で彼をあざけった犯罪人たち。もしキリストがあなたのために死んでくださらなければ、あなたもまた、やがて神のさばきを受けなければならなかったのです。
3.
ある哲学者が言いました。赤ん坊が泣き叫びながら生まれてくるのは、これから自分の人生に待ち受けている苦しみを知っているからだ、と。その言葉が事実かどうかはともかく、私たちはこの世界を知れば知るほど、そこには想像もできないような深い泥沼が広がっていることに気づきます。それに気づかないことそのものが罪の縄目なのです。しかし気づいた人々はそこから抜け出そうとします。しかしどんなにもがいても、人の力では泥沼から抜け出すことはできない。泥が目をふさぎ、泥水が口に入り込む。もし救い主が本当にいるのなら、この泥沼から引き上げて欲しい。しかし誰もが自分のことで精一杯で、他人を助けることなど誰にもできません。「どうして自分がこんな目に会わなければならないのか。神がいるなら、どうして私をこんな泥沼に見捨てたままなのか」。この叫びをわかってくれる人はいないのか。この苦しみをわかってくれる人はいないのか。
だからキリストはこう叫びました。叫ばずにはいられなかった。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ!」。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。救い主にもっともふさわしくないように聞こえる叫びです。神よ、なぜわたしを見捨てたのか。しかし、この叫びこそ、私たちの罪の身代わりとなった方に最もふさわしい叫びでした。私たちはどれだけもがいても、罪によって縛られ続ける人生でした。なぜ私は見捨てられたのか。見捨てられ続けるのか。その叫びを、私たちの代わりに引き受けてくださった方、それがイエスです。もしイエスが十字架にかけられなければ、私たちはいつまでも見捨てられた悲しみと叫びを続けるしかなかったことでしょう。しかし主は、すべての痛みと悲しみ、そしてさばきを、私たちの身代わりとなってすべて引き受けてくださったのです。
結.
イエス様は、見捨てられそうになったのではありません。本当に見捨てられたのです。「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。それは泣き言のように聞こえるかもしれません。うらみ節のように聞こえるかもしれません。しかし実際には、勝利の叫び、いや、罪と死に対する圧倒的勝利につながる叫びなのです。パウロはガラテヤ教会に書き送った手紙の中で、こう書いています。
「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」
主は、私たちの代わりに見捨てられました。私たちの代わりにのろわれました。私たちがかぶるべき、いばらの冠を。私たちが打ちつけられるべき、手足の釘を。私たちが吐きかけられるべき、つばきとあざけりを。そして私たちが叫ぶべき、「神に見捨てられた」という絶望者の叫びを代わりに引き受けてくださったのです。この方を救い主として信じるならば、私たちは決して、見捨てられた、と叫ぶような人生を味わうことはないのです。
どうか忘れないでください。あなたの罪、それは過去・現在・未来にわたって永遠の昔から永遠の終わりに至るまで、キリストの十字架によって完全に打ち消されたのだということを。恵みは何があっても決してあなたを離れることはありません。あなたが恵みを忘れることはあっても、神はあなたを忘れることはありません。どんなことがあっても、神の愛は決してあなたから離れることはないのです。あなたが叫ばなければならなかった嘆きは、すべてイエスが十字架で叫んでくださったのですから。どうかこのイエス・キリストを救い主として信じて、永遠のいのちの中に飛び込みましょう。報 告1.主は命を与えませり 主は血潮を流しませり その死によりてぞ我は生きぬ 我何をなして主に報いし
2.主は御父のもとを離れ わびしき世に住み給えり かくも我がために栄えを捨つ 我は主のために何を捨てし
3.主は赦しと慈しみと 救いをもて降(くだ)りませり 豊けき賜物 身にぞ余る ただ身と霊(たま)とをささげまつらん アーメンあまつみ民も 地にある者も 父 子 御霊の 神をたたえよ 神をたたえよ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、
我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.4.3主日礼拝説教「選ばないという選択」(マタイ27:11-26)
説教の最後で、ピラトが最後にたどり着いたという伝説が残っているピラトゥス山(スイス)に触れています。
「選ばないという選択」をして永遠のいのちを得る機会を永遠に失ってしまったピラトの霊が、いつもどこかの水場に現れては赦しを求めながら手を洗っているという悲しい伝説が残っている山だそうですが、現在では完全にリゾート地です。
伝説の真偽はともかく、一度は行ってみたいですね。ピラトゥス・リゾート提供のプロモーション動画をお楽しみください。
「選ばないという選択」をして永遠のいのちを得る機会を永遠に失ってしまったピラトの霊が、いつもどこかの水場に現れては赦しを求めながら手を洗っているという悲しい伝説が残っている山だそうですが、現在では完全にリゾート地です。
伝説の真偽はともかく、一度は行ってみたいですね。ピラトゥス・リゾート提供のプロモーション動画をお楽しみください。
23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。2017 新日本聖書刊行会
1.わが主よ 今ここにて 親しく見(まみ)えまつり 限りなき幸いを 受くるこそうれしけれ
2.恵みの足れる時よ いのちの充(み)てる折りよ 今しばし留(とど)まれや 主と共にわれ過ごさん
3.ここには贖(あがな)いあり ここには慰めあり わが汚(けが)れ きよめられ 御力(みちから)は満ちあふる
4.面影(おもかげ)うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸や いかにあらん アーメン代表祈祷我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」12しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。13そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」14それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
15ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。17それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」18ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。19ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」20しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。21総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」23ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」24ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」25すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」26そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。2017 新日本聖書刊行会
序.
私たちが毎週告白している「使徒信条」に出てくる、いくつかの人名の中には、ウクライナに関係している人がおります。イエス様?それともおとめマリヤ?いいえ、ポンテオ・ピラトです。ポンテオとは、黒海の南側にあるポントゥス地方のことです。黒海。黒い海と書きますが、実際には青い色をした美しい海です。クリミア、オデッサ、など今回の戦争のニュースの中でたびたび出てくる地名は、すべてこの黒海沿岸にあります。当時のローマ帝国の領土の中では、まさに辺境、悪く言えば田舎、ざいごです。ローマ帝国の田舎に生まれながら、エルサレム総督にまで上り詰めたポンテオ・ピラトにとって、ここまで血がにじむような努力をして勝ち取った総督の地位は、どんな手段を使っても失ってはならない、というものだったでしょう。しかしその総督の立場を揺るがしかねない一つの事件が起こりました。それが、ユダヤ人たちが連れ込んできたイエス・キリストであったのです。
1.
ピラトは頭の切れる人物でした。そして二つのものに挟まれたとき、どちらにつけば得なのかを瞬時に判断できる、野性的なカンの持ち主でした。それによって彼はローマ総督にまで上り詰めることができたのです。しかしここでピラトは悩みます。祭司長、長老、律法学者、さらには全議会を敵に回してまでイエスを無罪とするならば、エルサレム中を巻き込んだ反乱が起こるのは目に見えていました。かといってもし罪を犯していない人をあまつさえ十字架刑にかけてしまえば、それがローマ本国に知られたとき、彼の責任が問われることにもなる。
私たち自身もこのような状況を経験するのではないでしょうか。あなたの前に、ふたつの選択肢があります。自分の良心、あるいは信仰に照らしてどちらが正しいか、それはよくわかっている。しかし正しいものがわかっていても、それは正しいと簡単に言えない世界に私たちは身を置いています。あなたを真実から遠ざけるものは何でしょうか。ある時は、人間関係のしがらみでしょう。家族の手前、上司の手前、近所の手前、正しい選択を知っていながらあえて周りに合わせる、そのようなこともあるでしょう。ひとつの問題にぶつかるとき、あなたはそこにいくつもの選択肢を見いだし、どれを選ぶか悩むかもしれません。しかし実際には、選択は二つしかない。あることを選ぶか、選ばないか。それがいくつも積み重なって、選択肢を無限に見せている、それだけです。やるか、やらないか。人生はその選択の積み重ねです。しかし私たちは選択を避けたがる。パウロがギリシャ最大の都、アテネで説教した時、復活を信じていなかったギリシャ人たちはあざ笑いながら、こう言いました。「そのことについては、いずれまた聞くことにしよう」(使徒17:32別訳)。しかし「いずれまた」の機会は永遠に過ぎ去ってしまったのです。そしてパウロがその後にローマ総督フェリクスに福音を語ったときも、総督は神に対する恐ろしさを感じながらも、こう言いました。「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶこととする」(使徒24:25)。しかしやはり「また」の呼び出しは、永遠に来なかったのです。
2.
ピラトが、イエス・キリストを無実だと感じたことは間違いがありません。「あなたはユダヤ人の王なのか」「あなたがそう言っています」。その短い会話のあと、どれだけ自分に不利な証言をされても何も答えようとしないイエス。ピラトの心に起こった感情や、言葉を拾い出してみましょう。14節、「それには総督も非常に驚いた」。18節、「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである」。23節、「ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか」」。ピラトは気づいていました。最初の驚きは、最後には確信に変わっていたのです。このイエスという男に罪はない、と。しかし彼の心ははっきりとそう気づいていたのに、彼は結局その道をまっすぐ進もうとしなかった。26節、「そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」。
じつのところピラトは、選択を避けたつもりだった。彼は群衆の目の前で手を洗い、「この人の血について私には責任がない」と宣言した、とあります。ユダヤ人の側にも、イエスの側にも、どちらにも私はくみしない、彼はどちらも選ばない。そう言って、彼は選ばない、という選択を選びました。どうかみなさんは忘れないでください。たとえ選ばないという道を選んだつもりであっても、それは事実、選ばないと宣言する道を選んでしまっている、ということなのです。ピラトも、アテネの人々も、総督フェリクスも、そして現代の多くの人々も、福音を聞くとき、その話はまた今度、とはぐらかします。しかし選択を先に延ばすことは、じつはすでに選択してしまっていることに他なりません。そしてどんな選択にも、必ず結果が待ち受けているのです。
結.
彼は永遠のいのちを求めることよりも、手を洗う水の器を求めた。キリストのみ声を待ち望むかわりに、キリストの声が届かないところにまで主を追いやった。神を喜ばせるよりも、群衆のきげんをとろうとした。私は、みなさんに懇願します。ポンテオ・ピラト、そして彼と同じようにこの二千年間、永遠のいのちに至る選択を保留したまま世を去った数え切れない人々のようにならないでください。なぜポンテオ・ピラトの名が使徒信条に加えられているのか。それは、後の時代の人々への警告です。ピラトのようになってはならぬ、と。福音にあと一ミリまで近づきながら、福音から永遠に遠ざかってしまった彼のようになってはならぬ、と。今日、確かに福音と出会ったならば、今日、信じるということ。選択を保留することは、すでに選択をしてしまっていることなのです。今日のところは、私には福音はいりません、と。いったい二千年のあいだに、どれだけの人々がそう考え、永遠に救いの機会を失ってしまったことか。地獄に落ちたたましいが、その失敗を取り戻せるものならと、業火の中で歯ぎしりしている声が聞こえるでしょうか。
聖書の中には、ピラトがその後どうなったかは記録されておりません。しかしローマの歴史書によれば、彼はこのときから数年後に、ローマ総督の地位から罷免されたことがわかっています。そしてスイスには、ピラトの名前がつけられている山があり、ピラトの幽霊が毎日、どこかの水面に姿を現しては、いまだに両手を水につけて赦しを求めているという伝説さえ残っています。それは伝説にすぎませんが、私たちが選択すべき時と選択すべき道を間違えることがないようにという警告です。イエス・キリストを信じましょう。永遠のいのちを選びましょう。その祝福は、信じた今日から始まるのです。報 告1.血潮したたる主の御頭(みかしら) とげに刺されし主のみかしら 悩みと恥にやつれし主を 我はかしこみ君(きみ)と仰ぐ
2.主の苦しみは我がためなり 我は死ぬべき罪人(つみびと)なり かかる我が身に代わりましし 主の御心はいとかしこし
3.懐かしき主よ 計りしれぬ 十字架の愛にいかに応えん この身と魂(たま)をとこしえまで 我が主のものとなさせ給え
4.主よ主のもとに帰る日まで 十字架の影に立たせ給え 御顔を仰ぎ御手によらば いまわの息も安けくあらん アーメンみ恵みあふるる 父 御子 御霊の ひとりの御神に み栄え尽きざれ アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。
仰ぎ願わくは、
我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、
我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン
2022.3.27主日礼拝説教「あなたはキリストですか」(マルコ14:53-65)
前 奏8イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。9この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。10ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。11次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。12耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。13私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」2017 新日本聖書刊行会
1.小羊をば ほめたたうる 妙なるものの音 天(あめ)に聞こゆ いざみ民よ 恵みの主に 栄えの冠(かむり)を ささげまつれ
2.み使いらも うち伏すまで わが主の御傷は照り輝く いざみ民よ 救いの主に 栄えの冠を ささげまつれ
3.戦いやみ 矢叫び絶え 祈りと歌との声は響く いざみ民よ 平和の主に 栄えの冠を ささげまつれ
4.空の極み 地の果てまで みいつの光は照り渡りぬ 父と共に しらす君に 栄えの冠を ささげまつれ アーメン役員就任式(第二礼拝)・教会学校教師就任式(第三礼拝)我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン黙想(換気)53人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。54ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。55さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。56多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。57すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。58「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」59しかし、この点でも、証言は一致しなかった。60そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」61しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」62そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」63すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。64あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。65そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。2017 新日本聖書刊行会
1.
四旬節第四週に入りました。十字架の苦しみをおぼえる四旬節は全体で6週間続き、今日はその4週目にあたります。今週の礼拝説教は、イエスが十字架にかかる前に待ち受けていた、ユダヤの最高法院による不正な裁判と、その中で神の子として信仰を貫かれるイエスの御姿を見ていきましょう。
裏切った弟子、イスカリオテのユダの手引きによって群衆に捕らえられたイエスは、大祭司のもとへと連れてこられました。夜明けまで数時間、まさに真夜中でありましたが、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集められてきた、と聖書は記録しています。しかしその「みな」の中には正しい裁判を行おうという者は一人もいませんでした。あるいは、わずかにいたとしても、その言葉はまったく記録されていません。それも仕方のないことかもしれません。何しろ、弟子のペテロでさえ、イエスを捕らえた下役たちと一緒になって火にあたっていたほどです。ペテロとしては、チャンスを伺ってイエスを取り戻すためと考えていたかもしれませんが、あまりにも緊張感が欠けています。
すべての常識、すべての正義が狂っていました。無実の人をさばくことに対する恐れも、ためらいも、そして真実も、何一つこの裁判からは香りません。代わりにあったものは偽りであり、殺意であり、狂気でした。偽りの証言が次から次へと現れ、議員たちはイエスのあら探しに夢中になっています。暗やみにともされた庭のかがり火が、彼らのよこしまな笑顔を照らし出す。彼らは無実な人を有罪にすることに対し、何の恥も感じない。ためらいも感じない。良心の痛みも感じない。
2.
私たちは、こんな人々と自分は違うと思いたい。しかし私たちは、聖書の前でしばし立ち止まるべきです。彼らの姿は、もしかしたら自分自身とよく似た姿を表してはいないでしょうか。どこが。どうして私が。それは、みことばを聞いているし、知っている。しかしそれを正しく用いることができない者たちの姿です。58節をご覧ください。「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」もったいない、と思います。イエス様が実際にこれを語ったとき、「人の手で造られた」とか、「人の手で造られたのではない」とは、一切、語っていません。それは弟子たちでさえも、イエスが復活されたあとで悟ったことでした。つまり、この偽りの証言者たちは、弟子たちでさえまだ悟っていなかった、「人の手で造られたのではない別の神殿」こそ、イエスが建てようとしておられたものだということに気づいていたのです。彼らはここまで真理に近づいていながら、イエス様の言葉を使ってこの方をおとしめることしか考えていない。あえて私たち自身の姿と照らし合わせてみましょう。あなたは聖書のことばを知っているかもしれません。知っているだけではなく、理解もしているかもしれません。しかしその聖書のことばに従っていますか。むしろ聖書を、自分自身の行動を正当化させるために利用していませんか。私たちが罪から離れる決意を持ってみことばを聞くならば、みことばは私たちを変えてくれる神の力となります。しかし今の生活を変えたくないという肉の思いを捨てることなく、みことばを聞くならばどうでしょうか。現状維持を神が認めてくださっているかのようにみことばが聞こえてくるのです。聞くだけでオーケー、行動を変えることまでも求めない、そんなメッセージを聞いて、恵まれました。私は皆さんにそんなえせクリスチャンになってほしくない。
3.
みことばを使って、逆にみことばから離れさせる。それはサタンの常套手段です。エデンの園で、エバに話しかけた言葉、荒野でイエス様に語りかけた言葉、現代の異端が人々を誘う言葉、どれもサタンはみことばを使って惑わします。より正確に言うと、悪魔に都合良いところを切り貼りした、みことばの適用によって惑わします。しかしそれは、聖書を知らない、あるいは知っていてもよく学んでいないと、違いが見抜けません。ひとり一人の信者が、みことばをしっかりと自分のものにしなければなりません。ヨーロッパにある、石造りの伝統的な教会の写真を見ると、なぜか教会の門扉とか屋根の上といった目立つ場所に翼を生やした悪鬼の像が飾られているのを不思議に思ったことはありませんか。それは、闇の眷属は隙あらば教会に入り込もうとしており、それに対してみことば、祈り、賛美、交わり、礼拝、あらゆる霊的武装をもたなければならないという信仰告白を建築物を通して表しているのです。
罪とは、常にみことばに対する反抗、反逆です。私たち人間は、人生という荒海に乗り出していくひとつの小船のような存在です。その中で「みことばに生きる」とはどういうことか。それは、私の小船を私が動かしていく舵として、神の言葉を用いていくことではない。この荒海よりもはるかに大きな造り主が、必ず私を陸地へと導いてくださると信じ、舵から手を離し、進路を神の視線に合わせていくこと、それが「みことばに生きる」という生活です。聖霊なる神は、聖書を通して私たちの罪を教えます。聖書が私たちの心の中の罪をえぐり出すとき、たとえそれが不快な経験であったとしても、私たちをそれを受け止めなければなりません。そこを通らなければ、私たちの信仰生活は自己満足にすぎず、みことばに導かれたものとは言えないのです。
結.
どんなに偽りの証言を積み重ねてもイエスに罪を見いだせなった大祭司は、業を煮やしてイエスに直接尋ねました。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」。これは質問ではなく、罠です。自分がキリストであるとさえ言えば、この男を十字架にかけることができる。神に最も近づくことができるはずの大祭司でさえ、悪意と偽りの虜になっていました。しかしイエス・キリストは重く閉ざしていた唇を開きました。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」。ここで沈黙を貫けば、罪に定められなかったのに、どうして口を開いてしまったのか、と考えたこともありました。しかし、ここで口を開いたからこそ、イエスはまごうことなき神なのです。別のところにあるみことばにこうあります。「私たちは真実でなくても、神は常に真実である。神にはご自身を否むことができないからである」。全能の神にも、自分自身を否むことだけはできません。ひとりの悪しき大祭司が神ご自身に尋ねた。「あなたはキリストですか」。その問いに隠れた悪意にむせかえりそうになりながらも、主は答えられた。「わたしが、それです」と。だとしたら、もしあなたが真実な求めをもってイエスにこう尋ねるとき、彼が答えてくださらないことがあるでしょうか。「イエス様、あなたは本当に救い主ですか。本当に私を罪と滅びから救うことのできるお方なのですか。私がどんな人間であっても、あなたは救ってくださるのですか」。イエスは、数え切れないくらい殴られ、打たれ、腫れ上がった頬を緩ませて、こう答えてくださるでしょう。「わたしこそ、それです」と。「疲れた者よ、苦しんでいる者よ、永遠のいのちを求める者よ、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と。罪を赦し、十字架ですべての罪を贖ってくださったイエス・キリストを心に受け入れましょう。報 告1.イエスよ十字架に われを引きて 絶えずみもとに保ちたまえ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
2.十字架によりて われ世に死し 十字架によりて 世われに死す 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
3.君の御跡を 踏みて進まん 十字架の悩み 日々覚えつ 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ
4.憂き悲しみも 御名のために 忍ぶわが身は楽しきかな 君のいさお ほむべきかな 十字架のほかは われ誇らじ アーメン天地(あめつち)こぞりて かしこみたたえよ 御恵みあふるる 父 御子 御霊を アーメン後 奏主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。仰ぎ願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、我ら会衆一同の上に、豊かに限りなくあらんことを。アーメン