みなさん、お久しぶりです。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ええ、生きていましたよ。こうしてブログに投稿するのは約半年ぶりです。
なにしろ、この半年間、週末は
字幕職人と化していましたので。
もう一度言うよ、何度でも言うよ、
字幕職人でした。字幕職人でした。字幕職人でした。なにしろ毎週、片方は事前録画の礼拝をプロジェクター(YOUTUBE)で流すという前代未聞の二会堂並行礼拝です。
下手すると、オラこんな礼拝イヤだといって信仰から離れてしまう方さえ起きかねません。
少しでも説教がわかるように、礼拝に没入できるように、字幕、字幕、また字幕・・・・!もう当分作りたくない。
ただ字幕を作っていると、自分のクセがわかるのですね。「〜というわけです」という言い回しがいかに多いことか。
自分で語っているのですが、あまりにもよく出てくるのでイラッとします。
来週(11/27)からは、ふたたび正真正銘のライブ中継です。字幕もつきません。
もしかしたら逆に物足りないという方もいるかもしれませんね。
そんなこんなで、アドベントからは、再び一つの会堂に約30人(子ども含めて)が集まります。
換気対策がより重要となってきますが、主の来臨を待ち望みつつ、歩んでいきましょう。またね
聖書箇所 マルコ4章21〜25節
21 イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。22 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。23 聞く耳があるなら、聞きなさい。」
24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」
1.
先週の説教では、種まきのたとえ話について、語らせていただきました。この種まきのたとえ話の中で、大切なことは、種が蒔かれた場所がどこなのか、ということでした。つまり、種はひとつ、神のことばです。それが蒔かれた地、そのみことばを聞く心について、イエス様は一人ひとりに問いかけておられます。この一週間、私たちの心は、聞いたみことばに対して、どのように向き合って歩んできたでしょうか。私たち、神のこどもとされた者にふさわしいのは、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、良い土地、すなわち、柔らかい心でみことばを受け入れる生き方です。自分自身の姿を振り返りつつ、改めて、今日もまたイエス様のみことばを聞きたいと願います。
さて、イエス様は種に続き、今度はあかりをたとえにして、みことばを解き明かされました。21節、「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか」。種と明かり。この二つはまったくつながりがないように思われますが、じつはイエス様は、この種とあかりのたとえを通して、同じことを伝えようとしています。それは何でしょうか。それは、「どこ」ということです。種がどこに蒔かれるか。明かりがどこに置かれるか。それが大事なのだということです。
種の場合には四つの地のどこに蒔かれるかが大きな違いをもたらしました。固い道ばた、厚い岩盤の上の薄い土、茨に覆われた地、そして良い土壌に恵まれた地。そして明かりもまた、どこに置かれるか、で違いが生まれるのです。桝の下に明かりを置く人はいません。火がともった燭台を枡で覆ってしまったら、明かりが広がらないどころか、消えてしまいます。明かりは、枡の下や寝台の下に置くためのものではありません。燭台の上に置くものです。それは、家にいる人々全部を照らすためです。
2.
二千年前の生活における明かりというのは、粘土の皿にオリーブ油を注ぎ、そこに芯を浸しただけの、ごく簡単なものでした。それは今の照明のような明るいものではなく、本当に弱々しい光でした。しかしそのような小さな光が、燭台に置くことで、集まっている家族全員を照らし出しました。地に蒔かれた種同様、何十倍の光の束となり、人々の生活を彩ったのです。
種にしろ、明かりにしろ、イエス様のたとえに出てきたこれらの題材は、本当に小さなものでした。しかしそれがどこに蒔かれるか、あるいは置かれるかで何十倍、何百倍となるのです。イエス様は、種のたとえにも、明かりのたとえにも、同じ言葉をもってたとえを締めくくっています。「聞く耳のある者は聞きなさい」。あなたに語られたみことばを、小さいと言うな。あなたにゆだねられたみことばを、弱々しいと言うな。そして24節、25節ではこうも言われています。
「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです」。
少し難しい言葉ですが、言おうとしていることはこういうことです。もしあなたが、真剣にみことばを求め、聞いたみことばを自分の心に刻みつけようとするならば、みことばはあなたの心の中で、必ず実を結ぶ、そのことを忘れてはいけない、と。私たちひとり一人は、この世の中でどんなに小さく、弱々しい光であっても、みことばに聞き続けることで、やがては世界を照らすほどの大きな光となる、そのことを信じましょう。
3.
ところで、パナソニックという巨大グループ企業を知らない人はいないでしょう。私のような昭和生まれは、パナソニックよりも、かつての企業名であるナショナルのほうがしっくり来ます。約100年前にナショナルを創業した松下幸之助は、ナショナルには三つの大事な使命があると言いました。それは、まずひとつに、良い製品を造ること、次にその良い製品を販売すること、そして最後のもうひとつは、何だと思いますか。その良い製品を世の中に広げるために、宣伝することである、と。そしてこうも言います。我々ナショナルは、世界に誇ることができる、優れた製品を作る。だが優れたものであれば、宣伝しなくても、世の中の人に知られていくというのは詭弁である。もし我々が本当に優れたものを作ったのであれば、それを世の人に知らせたいという、抑えきれない願いを持たずにはいられない。それが広告である、それが宣伝である、売るために宣伝するのではない、良いものを伝えずにはいられないという思いがあるからこそ、宣伝するのだ、と。この彼の言葉は、信仰にも適用できます。
22節でイエス様は、「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません」と語っています。真理は、隠れ続けることはなく、必ず明らかにされるのだ、と。しかし神は真理を明らかにするために誰を用いるかと言えば、それは、私たち自身です。私たちが何もしなくても神が明らかにしてくださる、というのは、真理に触れても何の喜びも感じない人々の言葉です。もしみことばが真理であり、救いが真実であるとすれば、そこに私たちは、真理を伝えずにはいられない、という思いを持つはずです。神は私たちを用いられます。宣伝ならぬ、私たちの伝道を通して、隠れていた真理があらわにされ、秘められていた救いが明らかにされていくのです。
結.
イエス・キリストが何のために地上に降りてこられ、誰のために十字架にかかられたのか。それを世の人々に明らかにしていくのは、私たちの務めです。私たちクリスチャンこそ、その真理の光に出会い、真理の喜びを体験して生きている者だからです。もし教会がこの世の人々に真理を伝えず、教会の中の安心できる人たちの間でみことばを分かち合うだけであれば、それはまさしく枡の下に明かりを置く愚かな行為でしょう。明かりは、家の中すべてを照らすために燭台の上に掲げなければなりません。
家の中とは、教会の中ではなく、この世界のすべての人々です。そのための燭台は、あらゆるところにあります。私たちの家庭の中にあり、職場の中にあり、地域の中にあります。私たちひとり一人は小さな者であり、弱々しい光であったとしても、もし私たちがみことばを真剣に聞き、そして語っていくなら、それは世界を揺るがすほどの大きな光となる、とイエス・キリストは約束しています。どうか今週も、ひとり一人がみことばに聞き、そしてみことばの灯火を周囲にかかげていくことができるように。

2017 新日本聖書刊行会