一週間前は、泣きたくなるような大雪でした。このまま氷河期のようなクリスマスとお正月を過ごす羽目になるのかと思いましたが、新潟市内では(といっても広うござんす)雪はだいぶ溶けました。感謝。
うちの教会は、前面はまったく駐車スペースがない作りなのですが、庭だけは4〜5台入れそうな広さがあって、しかもその庭は回りが住宅に囲まれていて日の光がなかなか差さないところなのですが、今日は地面が見えていました。まあ、これからまた降ってくるのでしょうが、ちょっとだけ元気になりました。
今年も年賀状は書きませんでしたし、台所のコンロの油汚れも放置状態(牧師館のほうね)ですが、来年もよろしくお願いいたします。
聖書箇所 ルカ2章1〜7節
1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。2017 新日本聖書刊行会
みなさん、おはようございます。そしてクリスマスおめでとうございます。
大学生の頃の話ですが、アメリカからの留学生からこんなことを言われました。この前、町を歩いていたら、小さなラーメン屋の前に長い行列ができていた。すいている店に行くか、すいている時間に行けばいいのに、なぜわざわざ行列に並びたがるのか。いや、きっと他のラーメン屋よりうまいからだろ、って言ってあげたのですが、文化の違いからか、どうしても理解してもらえませんでした。彼が日本に来てまだ日が浅く、ラーメンの真の味を知らなかったからかもしれません。ただその後、何人かのアメリカ人と話してわかったことは、基本的にアメリカ人は行列に並ぶのが嫌い、ということでした。しかし彼らが一年の中で唯一、行列に喜んで並ぶ時があります。それがクリスマスの直前なのです。この時だけは、行列嫌いのアメリカ人が、嬉々として、デパートやショッピングセンターで行列を作ります。それは、贈り物を選ぶためです。
しかしそこにも、日本とアメリカの文化の違いが出てきます。日本では、クリスマスプレゼントは家族や友人など、すでに関係がある人たちに送ります。しかしアメリカでは、匿名で、見知らぬ子どもたちに贈り物を贈るような仕組みが、どこに行っても用意されています。つまり、親しい人に贈るためにではなく、まったく知らない人たちに贈りものをするために、彼らはこの時だけは喜んで行列に並ぶ。それは、キリスト教という宗教的伝統から生まれているものでもあります。自分とは関わりのない人々のために、喜んで贈り物を贈る、それはイエス・キリストの十字架の中に現れているものだからです。
神さまの方は、私たちを無関係とは見ておられません。しかし私たち人間の方は、自分には神とか、宗教とか、救いとかは関係ない。そのようなものとは一切関わりなく生きていくことができると思っていました。それこそが人の愚かさの極みですが、むしろかつての私たちは、そのような生き方こそが独立した人間としての正しい姿であるとさえ思っていたのです。しかしイエス・キリストはこのように神を無視し、拒み続けた、私たちすべての人間のために、いのちを捨ててくださいました。それは、自分のいのちを私たちにプレゼントとして与えてくださった、ということです。そしてこの愛を受けた者たちは、見知らぬ人々のために何かを贈るということも喜びになるのです。
リビングバイブルという、わかりやすく訳された聖書では、イエス・キリストについて、このように語っています。
「キリスト様は神様なのに、神様としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。かえって、その偉大な力と栄光を捨てて、奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。そればかりか、さらに自分を低くし、まさに犯罪人同様、十字架上で死なれたのです」。
この言葉を心におぼえながら、今日は「飼い葉桶に寝かされた」という一つの言葉に注目して、イエス様のお誕生を語りたいと思います。飼い葉桶とは、言うまでもなく家畜のえさを入れるところです。ヨセフとマリヤの夫婦は、宿屋に泊まることができず、洞窟をくりぬいた家畜小屋に身をよせました。そそしてマリヤはそこでイエス様を産み、飼い葉桶に寝させました。
旧約聖書に、「牛がいなければ飼い葉桶はきれいだ」という言葉があります。裏を返せば、飼い葉桶は汚いところだ、ということでしょう。私は飼い葉桶は見たことはありませんが、飼い葉桶を想像させるのは、公園の公衆トイレです。いまは公衆トイレは綺麗なところが多いですが、私の実家の近所にあった公衆トイレは、壁にはマジックで卑猥な落書きがされているのは当たり前、しかも時々便器の中に、後は想像してみてください。あえてこんな汚い話しをしているのは、飼い葉おけというのは、最も神さまが人として生まれてくるのにふさわしくない場所だったということです。家畜の糞の匂いが漂い、唾液がこびりついているような粗末な入れ物、そこに主は寝かされました。いや、マリアさんはそんなひどい親ではないでしょうと思われるかもしれませんが、そんなところにしか寝かせる場所がなかった、ということです。
ある医療ドラマで、赤ちゃんに聴診器を当てるときに、お医者さんが聴診器に何度も息を吹きかけているシーンがありました。どうしてそんなことをするのかと研修医が聞くと、聴診器の温度は、大人にはなんともなくても、赤ちゃんにとっては心臓麻痺を起こしかねないくらい冷たい場合もあるんだ、と言うのです。家畜小屋の中で唯一、冷たい地面から守られるところ、それがこの汚い飼い葉桶にわらを敷き詰めたところであったとしたら、なんというところにイエスは生まれてこられたのか。何という場所にマリアとヨセフは追いやられたのか。しかし、だからこそ、イエス・キリストは、私たちの心がどんなに凍てついていたとしても、喜んで入ってきてくださいます。私たちの生活がどんなに荒れすさんでいたとしても、避けて通るようなことはありません。
キリストの生涯、それはいつも神にふさわしくないような場所におられる生活でした。神でありながら、少年、青年と貧しき家庭にとどまりました。罪なき方でありながら、罪人、取税人、遊女といったさげすまれた人々と共に食事をされた方でした。そして十字架。人々は頭を振ってこう叫びました。「神ならば十字架から降りてこい。そうすれば私たちは信じるから」。しかしキリストは決して十字架から降りなかった。罪のさばきとしての十字架。それを私たちの身代わりとして引き受ける以外に、人を救う方法はない。だからこそ降りなかった。もっとも神にふさわしくない場所である、十字架。そして死。それがキリストの地上での生涯でした。キリストはいつも、神に最もふさわしくない場所で生きて行かれた方だったのです。
私たちの心はすぐに高ぶり、自分を他人よりも優れた存在だと考えたがるものです。自分自身の心をまっすぐに見つめてみたとき、そこには神さまさえも鼻をつまんで逃げ出すような悪臭に満ちているのではないか、ということです。少なくとも、私がかつて信じていた神さまというのは、正しい者は守ってくれるが、悪しき者にはバチをあてる、というものでした。しかし聖書に出会い、イエス・キリストという救い主を受け入れたときにわかったのは、神様の前に正しいと言える人などひとりもいない、それでもなお、神さまは私たちすべてのためにいのちを捨ててくださった、そして私の中に生きてくださっている、ということでした。神はもっとも神にふさわしくないような場所に生まれてくださいました。そして決してそこから離れることも、見捨てることもなく、そこに光をあててくださいます。それが二千年前の飼い葉桶であり、いまこのとき、私たち一人ひとりの心でもあります。このクリスマス、恵みの中で、あなたの心の中にある飼い葉桶に目を向けてください。そこに赤ん坊のイエス様がほほえんでおられます。そして私たちを救いの恵みへと導いてくださるのです。