聖書箇所 マルコ5章21〜24、35〜43節
21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。2017 新日本聖書刊行会
数年前から、「一年間で聖書通読」というキャッチフレーズで、週報の片隅に聖書通読日課を掲載しています。言い出しっぺですので、一応、毎日そのスケジュールに従って読んではいますが、ふと気づくと、頭の中に何も入っていないまま、最後のページになってしまっていた、ということもよくあります。それでも自分を責めたりしない、というのが聖書通読を続けていくコツですね。頭に入るときもあるし、入らないときもあります。しかし読み続けることに意義がある。そして読み続けていくと、聖書の世界が少しずつ広がり、さらにみことばがわかる、といううれしいことも起こります。
たとえば、今日の聖書には、自分の娘のためにいやしを願った、ヤイロという人が登場します。聖書通読を続けていると、たとえばこのヤイロのように、病気で死にかけている自分の子どものためにイエス様にいやしを求めてきた父親たちの例が、イメージとして浮かんできます。そして彼らに共通していることは何だろう、というところから、このヤイロの物語を読み解くヒントも浮かんできます。たとえば、てんかんの症状をかかえた息子をいやしてください、と願った父親がいました。彼は「もしできるなら、息子からてんかんの霊を追い出してください」と言ってしまい、イエス様から「もしできるなら、ではない。信じる者にはどんなことでもできるのだ」と言われます。あるいは死にかけている息子のために、家に来て下さいと願った父親がいました。でもイエス様は行きません。「あなたがたは奇跡を見ない限り信じない」とにべもない。それでも食い下がる父親に、「家に帰りなさい。息子は治っています」と言います。半信半疑で、父親が家に帰ると、ちょうどイエス様がそれを語ったその時、息子は治っていたということがわかり、一家みながイエスを信じます。
このような例が教えていることは、子供が死にかけているので助けてほしいと願ってきた父親に対し、イエス様が必ずなされたことは、一度は親がくじけてしまうような言葉や方法で、その信仰を引き上げてくださる、ということです。では、このヤイロはどうでしょうか。22節を読んでみます。「すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は、いわば信仰の優等生です。イエス様はどんな病をもいやしてくださるという信仰があります。そして多くの会堂管理者がユダヤ当局の一員としてイエスを敵視していた中で、その立場を投げ出してでも、イエス様の前にひれ伏しました。すでに彼はこの時点で、欠けるところのない信仰を持っていたように思えます。しかしじつは、彼にはひとつだけ、欠けたところがありました。それは何でしょうか。彼は自分が考えたプランの中に、神の力を閉じ込めようとしています。彼は、イエスに助けを求めていますが、自分が考えるようなやり方で助けてください、と制限をつけています。もう一度、彼のことばを繰り返してみましょう。「私の小さな娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
彼は自分でも気づかないまま、自分の考えたプランの中で神を動かそうとしています。神が、自分の想像を超えた御力によって娘をいやしてくださることを期待するのではなく、神に、私の言うとおりに動いてくだされば、娘は治りますと決めつけている。しかし信仰とはそうではない。受け入れられないものを受け入れる、信じられないものを信じる、常識を越えたものを事実として受けとめること、それが信仰なのです。
信仰とは何でしょうか。それは、神が私の想像を遥かに超えた方であると信じることです。目が塞がれている私に対して、すべてを見ておられる神に全権をゆだねることです。私が神の行動を指定して、そのとおりに動いてくれることではなく、神が私の想像を遥かに超えたみわざをなしてくださると信じること、それが信仰です。確かに私たちはイエス様に何でも求める事ができます。しかしそれは、私たちが想像したとおりに神よ、動いてください、という祈りではありません。私たちの想像を遥かに超えた形で、神よ、あなたのみわざをなしてください。そして私をそのために用いてください、と祈る。そのような信仰は、神を閉じ込める信仰ではなく、むしろ私たちを世間の常識の箱の中から、神の高さ、広さ、深さにまで解放する祈りとなります。
私たちは自分が考えているように神様が動いてくださるようにと願い、一生懸命祈ります。それが信仰だと信じて。でも、神様は私たちよりもはるかに大きく、私たちの想像もできない手段と過程を通して、みわざを現されるのです。もう一度言いましょう、私たちの想像もつかないことを神がしてくださると信じるのが信仰です。確かに具体的に祈ることは必要でしょう。しかしその「具体的」ということにばかり関心がいくあまり、神のみ力をあなたの常識の中に閉じ込めてはなりません。
ヤイロの願いは、一見、信仰的に見えます。しかしキリストは、彼の信仰がいわば「常識的な信仰」にとどまっていることを見抜かれました。娘が死ぬ前にあなたが来てくださって手を置いてくだされば、娘は助かります、それは常識にとどまっている信仰です。娘が死んだ後でも必ずイエス様がよみがえらせてくださる、常識を越えた信仰へと彼が突き抜けていくこと、それを教えるために、イエス様はヤイロと一緒に進んで行かれました。
今日、省略した聖書の箇所は、来週また取り扱いますが、そのあいだにヤイロの娘は死んだ、という知らせが届きました。35節、「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。』」この時、ヤイロが頭に浮かべていた娘のいやしのイメージ、「イエス様が娘の上に手を置き、祈り、そして娘が立ち上がる」はガラガラと崩れていきました。しかしここからが、本当の信仰の始まりです。人間の目には絶望的な状況です。しかしその時、神は優しくこう言われるのです。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。神はあなたにも言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい」と。今、試練のただ中にある人よ、あるいは弱さの中で苦しんでいる人よ、どうかみことばを心に留めてください。私たちが期待できない状況の中にあるときほど、想像を超えた神のみわざを期待してください。神様がああして、こうして、助けてくださると自分のイメージの中に神の力を閉じ込めているかぎり、私たちの信仰は成長しません。しかし私が想像もつかないような方法で、神が解決の道を与えてくださるということを信ずる、ただ信じ続けるとき、そこに神の力が働きます。
人生において、無計画、無鉄砲というのは避けなければならないでしょう。しかし、私たちのちっぽけな脳みそで、一切隙のない計画を立て、これでだいじょうぶ、と言うなら、神はそれを必ず砕かれます。それは神を信じる信仰ではなく、神を利用して自分の力と計画を信じている、ニセの信仰だからです。神に大いなることを期待するものだけが、その大いなることを体験することができます。私たちが家庭、教会、職場、至るところで困難にぶつかるとき、そこに自分の想像を超えた神のみわざを働かせてください、と祈りましょう。ただ永遠、そして無限であられる神だけに栄光がありますように、と。
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2023.1.15「二千匹より重いもの」(マルコ5:6-7,10-20)
聖書箇所 マルコ5章6〜7、10〜20節
6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。
11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。
14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。2017 新日本聖書刊行会
中学生の頃、小説家になりたかったのです。小説のまねごとをノートに書きためて、いつかこれが世に出て、天才作家あらわる、と新聞に出てムヒョヒョヒョ。ところが世に出る前に、姉に見られてしまったのです。けちょんけちょんにけなされて、それ以来、私は筆を折りました。ただ神さまはよくしてくださったもので、その頃にたくさん本を読んだ経験というのは、牧師という毎週説教を作らなければならない仕事についた後に、たいへん役に立ちました。
聖書は、神のことばですが、同時に文学作品としても優れています。とくにこのマルコ福音書は、マルコがもともと持っていたのであろう文才が、聖霊によって用いられている姿をみることができます。どういうことでしょうか。
このマルコ福音書は、最初の書き出し、つまりマルコ1章1節は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」という言葉で始まります。つまり、この本は、イエスが神の子であることを伝えるために書くものですよ、と言っています。ところが、実際にこのマルコの福音書の中には、「神の子」という言葉は、四回しか出てきません。一つは、その1章1節、そして二つが、悪霊が告白している言葉、そして残りの一つが、イエスが十字架で息を引き取った後、その一部始終を見ていたローマ軍の隊長が残した言葉、「まことに、この人は神の子であった」。つまり、弟子たちのだれも、イエスを「神の子」と告白していないのです。むしろ、告白できない。神の子であることがわからない。人間には、イエスが神の子であることがわからないのです。悪霊でさえ、イエスを神の子と知って恐れているのに、人間の方は、弟子たちでさえ、神の子であるということがわからない。マルコは、小説家を目指していたのではないでしょうが、少なくとも、小説や映画でよく用いられるテクニックをこの福音書に取り入れています。
少し年配の方は、「幸せの黄色いハンカチ」という映画をご存じだと思います。刑務所から出てきた男が、奥さんに手紙を書いて、もし自分を受け入れてくれるようであれば、庭先に「黄色いハンカチ」をつるしておいてくれと頼みます。そして映画のラスト、男が恐る恐る、家を探すと、運動会の万国旗のようにたくさんの黄色いハンカチが吊されている、有名なシーンです。じつはこのラストシーンのために、監督は映画の中に次のような演出を入れていました。それは、この男が家に帰るまでの旅を描く約一時間半、できるだけ黄色いものが画面に現れないようにする、というものです。そうすることで、最後の黄色いハンカチが、目に焼き付けられる。マルコも同じことをしています。「神の子」イエスについて伝えるために、逆に「神の子」についてほとんど人間には語らせない。しかし最後の最後に、弟子ではなく、ユダヤ人でもない、ローマ人の千人隊長だけが唯一、「この方はまことに神の子であった」と告白するのです。
まさに十字架というのは、私たちの見えない目を開く出来事です。神の子が私たち罪人の身代わりになって死んでくださった。この命がけの愛を通して、目の見えなかった者が見えるようになった。神の愛がわからなかった者が、神の愛の中に生きる者となった。罪のさばきが待ち受けていたはずの者が、罪がゆるされて永遠のいのちの中に歩むようになった。
あらゆる人間は、この十字架の前に立たない限り、神の子がだれか、わからないのです。だからこそ、私たちは十字架を伝えなければなりません。そして私たちでしか、まことの十字架を伝えることができる者はいないのです。そのことを忘れないでいただきたいと思います。
マルコ福音書は、弟子たちの誰もが、イエスを神の子だとわからないという現実を描くと共に、このゲラサの地の人々もそうであったことを述べています。レギオンが二千匹の豚へと追いやられ、このとりつかれた人が正気に戻ったという喜びの場面であるはずが、16、17節にはこうあるからです。「見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した」。人々は、悪霊につかれた人々の以前の状況を知っていました。身体を痛めつけながら、鎖をひきちぎるような姿を実際に見ていました。しかしその本人が、今や裸ではなく着物を着て、正気を取り戻しているのを認めながら、彼らはイエスに出て行ってもらうことを願ったのです。なぜでしょうか。家畜として飼っていた豚二千匹を失ってしまったからです。
これ以上イエスにここにいてもらっては、一体どんな損失が起こるかわからない。それが人々の心の現実でした。ここに、私たちは、悪霊レギオンどもが「私たちをこの地方から追い出さないでください」と願った理由がわかるのです。この地方は、悪霊にとって、まさに居心地のいい場所でした。一人の人が悪霊から救われるのと、豚二千頭が失われるのと、どちらが大切なのか。キリストにとっては、豚二千頭よりも、一人の人が救われることのほうが大切なことでした。悪霊たちも、イエスがそのような方であることを知っているからこそ、自分たちを豚の中に追いやって欲しいと願ったのです。しかしこのゲラサ地方の人々にとっては、人一人の救いよりは、二千頭の豚のほうが重かったのです。その意味で、彼らは悪霊よりも、さらに闇の深みの中に捕らえられていた者たちであったと言えるのではないでしょうか。
しかし私たちの中にも、そのような部分があるかもしれません。聖書は、私たち自身のありのままの姿を映し出す鏡です。そこから目をそむけてはなりません。今、自分の心に質問しましょう。一人のたましいが救われることよりも、犠牲となる何かを惜しんでいるということはないでしょうか。もしそれに気づいたならば、次のような生き方を参考にしてみてください。
救いを知らないために病や不幸を恐れる人のために何時間かを費やす。救いに興味のない友に、福音を語ることのできる機会を祈り求めながら、その友を訪れ、寄り添う。
そのような犠牲は、ムダに時間を過ごしているかのような徒労感しか生み出さないように思える時すらあります。しかし一人の人が救われるためという、その重みにまさるものはこの世にはありません。かつては墓場で叫んでいた人が、大胆な証し人へと変えられていく、そんな人生の劇的な変化、それは私たちが語る福音、私たちが伝えるイエス・キリストだけが与えることができるものです。
悪霊の求めを受け入れ、ゲラサ人の求めを受け入れたイエスさまは、弟子としてお供したいというこの人の懇願だけは首を縦に振りませんでした。それは、この人にしかできない証しがあったからです。この人が生きてきた家庭、地域、社会、そこでキリストが神の子であることを証しすることを、イエスは願っておられました。私たちもまたそのように求められています。家族・友人・同僚・教え子のために、彼らがイエスを知り、信じることを願いながら、一緒に祈りをささげましょう。
2023.1.8「この人に出会うために」(マルコ5:1-10)
聖書箇所 マルコ5章1〜10節
1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。2017 新日本聖書刊行会
「さあ、向こう岸へ渡ろう」。イエスの声に押し出されて、弟子たちが湖の向こう岸にたどり着いたところから今日の物語は始まります。これだけ大変な思いで湖を乗り越えてきたのだ、きっとすばらしいことが起こるに違いない、と弟子たちは考えていたかもしれません。
しかしそこに待っていたのは、レギオンという悪霊に取り憑かれた人間でした。彼は墓場に追いやられ、鎖さえも引きちぎるような、獣じみた人間に変わっていました。朝も夜も、墓場や山の中で大声で叫びながら、自分の身体を傷つけていた、ともあります。そして、レギオンが言わせているのか、それとも彼自身の言葉なのかわかりませんが、「私に関わらないでくれ、私を苦しめないでくれ」とイエスに懇願します。
ここには、悪霊にとりつかれて、人格も生活も破綻して、しかもそこから解放されることも拒んでいる、そのような人の姿を見ることができるでしょう。このような悪霊にとりつかれた人の姿、というのは、いくら聖書に書いてあると主張しても、この世の人々にとっては、カビの生えた迷信としか受け止められません。
ではこのレギオンを含め、悪霊というものは、人間の迷信が生み出したものにすぎないのでしょうか。決してそうではありません。悪霊は狡猾です。現代の日本人は、このレギオンの物語や描写を見て、昔の人はこういう風に悪霊なるものを信じていたんだな、だがこの科学万能時代、もう悪霊なんてものはいないよ、と考えるかもしれませんが、それこそが悪霊の思うつぼなのです。
悪霊は、どの時代においても、どの国においても、人々が常識と考えている事柄を通して、人々を惑わします。二千年前、人々が病や不幸は悪霊がもたらすと信じていた時代、悪霊はそのような人々の常識の中に身を潜めました。現代の日本では、病や不幸は悪霊が原因であるというのは常識ではなく非常識です。だからこの国では、悪霊は、常識の中に身を潜めています。
宗教に頼る人間は弱く、自立していない、という偏見の中に。自由という意味をはき違え、匿名で相手を批判し、否定することで自分のプライドを保つ人間関係の裏に。多様性を強調しながら、相手を受け入れるのではなく大勢に合わせることを求めている世間体の中に。それを守るために、人は救いに背を向け、自分の生き方に満足し、信仰を洗脳か何かのように批判する。
それは、人の罪が生み出すものであると同時に、この国においては悪霊が極めて狡猾に、自分の身を隠しながら人々を闇の中に閉じ込めているという現実があるのです。
しかし、次のことは、時代や国によっても決して変わることがない真実です。イエス様が嵐の海を弟子たちとともに渡ってきたのは、この人に出会うためだったのです。自我や生活が崩壊し、墓場で自分の身体を傷つけながら、死んでいるように生きている、この人を救い出すためでした。そしてイエス様の目には、この現代の日本人の姿もまた、嵐の海を乗り越えて助け出さなければならないものとして映っていることでしょう。
今日の週報の表紙は、佐渡島の有名な観光スポットである、二つ亀という場所です。国内だけでなく、海外からも観光客が訪れて、景色や海水浴を楽しみます。しかしこの二つ亀からわずか800m、徒歩10分くらいのところには、賽の河原という場所があります。生まれてすぐに死んだ子供や、流産や中絶で生まれることができなかった子供への供養として、自然洞穴の中に、数え切れないくらいの地蔵が並べられています。この賽の河原で、亡くなった子どもたちが石を積む、最後まで積み上がれば極楽へ行ける、しかし地獄の鬼たちが必ず邪魔をするので、どの子どもたちも最後まで石を積み上げることができない、という悲しい言い伝えがあるそうです。
この世界のあらゆる人々が、この賽の河原のようです。決して積み上がることのない石を積み続けます。だれもが神との正しい関係を失った結果、家庭も壊れ、自分を正当化しようとします。たくさんの人々に囲まれていても、自分が本当は孤独なのだと思わずにはいられません。墓場には住んでいなくても、まるで墓場のようなひとりぼっちの世界です。鎖をひきちぎろうとしながらも、結局は自分で自分のからだを傷つけている。すべての人がそうなのです。
しかしイエス・キリストは、そのような人々を救うために、嵐の湖を乗り越えて来られるお方です。世は、このお方が与えてくださる救いのすばらしさを知りません。罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。人々を罪にとどめ続けている悪霊は、自らを常識的と考えて、逆に神から遠く離れてしまっている人間たちをあざ笑っています。おまえたち人間がどれだけがんばろうが、俺の支配から逃れることはできないぜとたかをくくっています。
しかしその悪霊たちが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、主を拝み倒すほどの卑屈さでキリストの前に懇願するのです。彼らは知っているからです。キリストが彼らを滅ぼすことのできる唯一の方であることを。そしてキリストは言葉だけで、一瞬でそれがおできになる方であることを。ゲラサ人の地を支配していた悪霊は、恐怖にかられつつ、さばき主の名前を叫びました。「いと高き神の子、イエスさま」と。それは悪霊が叫んだのか、それとも悪霊に支配されていたはずのこの人が叫んだのかはわかりません。しかしいずれにしても、ここからこの人の回復の道が始まるのです。
今日、悪霊は、現代人が常識と考えているものの中に潜み、人々は自分でも気づかないなかで、悪霊の力に屈服しています。しかし二千年前のユダヤも、21世紀の日本でも、そこから助け出される方法はただひとつ、イエス・キリストの御名を呼び、この方を信じるということです。これからの教会は、福祉や地域活動を大事にしなければならない、という主張は確かにそのとおりですが、だからこそ、私たちはそのような地道な活動を通して、人々の目が福音に開かれて、イエスの御名を呼ぶことができるように、そのために祈り続けることを忘れてはなりません。悪霊さえ身震いして泣き叫ぶ、そのイエスの御名を私たちはいただいています。このイエス・キリストを人々に語り続けていく、そのような一週間として歩んでいきたいと願います。
2023.1.1「さあ、向こう岸へ渡ろう」(マルコ4:35-41)
みなさん、こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教は、映画の宣伝で言うならば「構想期間1年、制作期間4時間」といったところでしょうか。
制作期間はだいぶ盛ってしまいました。本当は2時間くらいかな。結構楽しんで作りました。
100年前の写真と、現在のGoogleマップを、定点観測のような形で並べるとこんな感じです。


常盤町通も、昔は花街として有名だったそうで、芸妓さんがたくさん歩いていたそうです。
私の夢は、今の朝市通が、アスファルト道路の上にテントを並べるようなものになっていますが、
これを大正風情漂う(鬼滅の刃の舞台みたいな)町並にしたいなあ、というもの。
実際は、古い家をどんどん壊して住宅やら駐車場にしているので、なかなか難しそうですが、
人口減が続いている豊栄を盛り上げるのは、新しいものを作ることよりも古いものを再生することではないかと。
ですからこれから建設する教会堂も、予算は厳しいですが、一部分だけでも大正テイストが入るといいなあと思っています。
そして一人でも二人でも、救いの向こう岸へと渡し届けること。それが私の後半のライフワークになりそうです。
今回の説教は、映画の宣伝で言うならば「構想期間1年、制作期間4時間」といったところでしょうか。
制作期間はだいぶ盛ってしまいました。本当は2時間くらいかな。結構楽しんで作りました。
100年前の写真と、現在のGoogleマップを、定点観測のような形で並べるとこんな感じです。


常盤町通も、昔は花街として有名だったそうで、芸妓さんがたくさん歩いていたそうです。
私の夢は、今の朝市通が、アスファルト道路の上にテントを並べるようなものになっていますが、
これを大正風情漂う(鬼滅の刃の舞台みたいな)町並にしたいなあ、というもの。
実際は、古い家をどんどん壊して住宅やら駐車場にしているので、なかなか難しそうですが、
人口減が続いている豊栄を盛り上げるのは、新しいものを作ることよりも古いものを再生することではないかと。
ですからこれから建設する教会堂も、予算は厳しいですが、一部分だけでも大正テイストが入るといいなあと思っています。
そして一人でも二人でも、救いの向こう岸へと渡し届けること。それが私の後半のライフワークになりそうです。
聖書箇所 マルコ4章35〜41節
35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。新年のはじめの日、1月1日、元旦を、いつものように、主日礼拝をもって始めることができることを心から感謝します。先週、先々週、そのまた前の週、昨年の52週間がそうであったように、今日も、来週も、礼拝を粛々とささげていきます。礼拝こそ、私たちの生命線、ライフラインです。みことばを受け取って、これからの一週間を歩んでいきましょう。それを毎週繰り返しながら、一年間を歩んでいきましょう。これからの一年間、どんなことが待ち受けていたとしても、この礼拝を大事にしていきましょう。
さて、一年のはじまりの、今日の礼拝は、「さあ、向こう岸へ渡ろう」という説教題でメッセージをさせていただきます。このタイトルは、35節にあるイエス様の「向こう岸へ渡ろう」から取っています。前の聖書では、「さあ」という呼びかけが入っていたのです。なんで取っちゃうのかなあ、と思うんですね。「さあ」、いい言葉じゃないですか。イエス様が音頭をとって、さあ、向こう岸へ渡ろうよ、と、この言葉だけで、何があっても耐えられるような気になってきます。この後の出来事を考えると、面白いですよね。「さあ」という言葉に押し出されて船を漕ぎ出すや、すさまじい嵐が襲ってくる。「さあ」とか言っておきながら、イエス様自身は、船の中でぐうぐう寝てしまう。
だけどね、やっぱりイエス様が呼びかける「さあ」は素晴らしいんですよ。「弟子たちはイエス様を舟に乗せてお連れした」と聖書には書いてありますが、実際は逆です。弟子たちがイエス様を舟に乗せたのではなくて、イエス様が弟子たちを舟に乗せているんです。弟子たちが舟の舵取りを間違えたらみんなドボンじゃないのです。たとえイエス様が寝ているように見えても、風も嵐も作られた神が人となって、弟子たちを小舟に乗せているのです。どうして沈むことがあるでしょうか。弟子たちはイエス様をたたき起こしましたが、そんなことをする必要はなかったのです。そこにイエス様がいる限り、決して舟は沈むことなく、動じることもない。弟子たちはただ信頼して、ただ波にゆられ、風に吹かれ、あるいは船酔いでげーげー吐いたかもしれないけれど、それでもイエス様にゆだねるならば、舟は必ず向こう岸に着くのです。
今から十年以上前になりますが、当時、木崎のほうにありました、豊栄バプテスト伝道所が、同じバプテスト教団で3教会が一つになって東区のほうに移転して、私も献堂式に出席させていただきました。そのときに祝辞を述べられた、当時、新潟信濃町教会の牧師であった小渕先生のメッセージが面白かった。「新しい教会の名前は、主の港キリスト教会だと聞きました。主の港というのはすごく良い名前ですね。聖書にも、讃美歌にも出てきます。自分が思いつかなかったのが悔しい。先に思いついていたら、自分の教会につけたのに」。まあ、小渕先生は、牧師にしておくのが勿体ないくらい、サービス精神が旺盛で、祝辞とはいえ、少しほめすぎ(ごますりのジェスチャ)。でも、私も、主の港って、良い名前だなあと思いました。ところがそれから十年経って、あのときわ会堂の場所をいろいろ調べていたら、あそこは主の港ならぬ、主の渡し場であると思いました。
今日の週報の表紙に載せた写真は、もともと白黒ですが、写真加工が得意な方にお願いして、色をつけてもらったものです。ここからときわ会堂のほうに行くときに、わらび屋というお菓子屋さんが入っているビルがある十字路、下他門交差点というところがあるのですが、今は広い道路になっているその場所の、百年前の姿がこの写真だそうです。ときわ会堂がある常盤町通という場所は、そこから一本先の道路なのですが、百年前はそこが自然堤防のような場所であったそうですね。「河川蒸気」というお菓子のパッケージにも描かれていますが、こんな小さな蒸気船が、この豊栄から新潟まで、そんなに大して乗れなかったと思うんですが、人々の通学や通勤の足になっていたんですね。
この写真を見たときに思ったんです。ああ、もしかしたら私たちが不思議なタイミングで、あの場所を得ることができたのは、この小さな蒸気船や、小さな船着き場が、豊栄キリスト教会の姿なのではないか、と。「港」のようにたくさんの人が乗り降りするわけではないけれども、この小さな船着き場がなければ向こう岸に渡れない人たちが、この町にもおられる。彼らがこの船着き場にたどり着いたとき、小さな舟に乗せて、確実に目的地まで運んでいく。そのような教会でありたいと願います。どんなに小さな渡し場であろうとも、そこにはキリストが待っておられ、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言ってくださる。そして私たちキリストの弟子たちも、この渡し場で乗せてくれと頼んできた人は、一人でも、二人でも、拒むことなく、確実に向こう岸、救いの栄光にまで、渡らせていく、そんな教会と、宣教の働きを願っているのです。
今日、招きの言葉として引用したのは、パウロの手紙の中にある言葉です。「すべての人に、すべての者となりました。何とかして、何人かでも救うためです」。「何とかして」という言葉は、パウロの口癖です。聖書の中に「何とかして」という言葉が8回出てきますが、そのうち7回はパウロが言っています。そして私たちが驚くのは、パウロでさえ、「何とかして、何人でも」と言っていることです。一桁なんですね。宣教というのは、昔も今も、地道な働きです。いちどきに何千人も救われる、というのは初代教会の中でもごく一部の時代であって、パウロの宣教は、目の前にいる一人を徹底的に愛して、その愛された人が愛を知り、また別の誰かに愛を伝えていく、ということの繰り返しの中で、教会は成長していきます。みなさん一人ひとりが、自分に与えられた賜物を用いて、この地域の方々や、自分の友人と向き合いながら、何とかして、一人でも、二人でも、神の愛の中へと招いていこうではありませんか。
「さあ、向こう岸へ渡ろう」と、イエス様は今日も呼びかけておられます。小舟を漕ぎ出した瞬間、空には黒雲が立ちこめ、風と嵐の中、私たちは右往左往するかもしれません。しかし改めて言います。「さあ」と呼びかけたのはイエス様ですから、私たちは何もおびえる必要はありません。神に必死に助けを呼ぶのは間違ってはおりません。しかし彼らの必死さは「私たちが死んでもかまわないのですか」という、神の愛への疑いから生まれていました。私たちはそうであってはありません。神に向かって真剣に、しかし神の愛を一切疑うことなく、主にゆだねましょう。イエス様がおられるところでは、どんなに激しい風と嵐も、私たちの髪の毛一筋も奪うことはできないのです。これから一年間、いよいよ私たちは、実際の教会堂建設に向けて、具体的に予算を立て、設計図を審議し、屋根や壁の仕様に至るまで、建築家や大工さんを交えながら話し合っていく一年となるでしょう。今までよりも、人の思いがぶつかることも起こるかもしれません。ですが、それもまた、神が与えられた恵みでもあります。それを通して私たちは、神の家族の交わりの豊かさ、お互いを敬うことの大切さを学んでいきます。主が建ててくださった渡し場から、小さな蒸気船に乗って、向こう岸へ。その先には、私たちでさえまだ知らない、神の無限の計画が待ち受けています。教会員だけでなく、求道者や客員の方々に至るまで、この主の恵みの中に飛び込んでいきたいと願います。