聖書箇所 マタイ8章16〜27節
16夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。17これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」
18さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。19そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」20イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」21また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」22ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
23それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。24すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。25弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。26イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。27人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。今日の説教題「向こう岸へ渡ろう」は、今年の最初の主日礼拝のメッセージと同じ題名ですが、今年の教会目標聖句でもありますので、あえてもう一度取り上げてみます。一月一日の礼拝説教では、マルコの福音書からでしたが、今日はマタイの福音書のほうから見ていきましょう。
マルコもマタイも、夕暮れになってイエス様と弟子たちが舟で向こう岸へ渡るという出来事から語っていることは同じですが、マタイの場合には、そこにいくつかの出来事が付け加えられています。まず最初に目にとまるのは、夕暮れになってから、悪霊につかれた人々が大勢みもとに連れて来られた、というところです。なぜ昼間ではなく、夕暮れに連れてくるのでしょうか。ご近所に見られたくなかったのでしょうか。いいえ、おそらくですが、それはこの日が安息日であったからでしょう。モーセの時代、神は十戒の中で安息日を定められました。一週間の最後の日、安息日は仕事をしてはならない。それは、その日一日を、神にささげ、礼拝に専念する日とするためでした。しかしイエス様の時代の宗教指導者たち、パリサイ人や律法学者は、病気を治すことも仕事のうち、悪霊を追い出すことも仕事のうち、だから安息日なのに人々をいやし、悪霊を追い出しているイエスは律法を破っている、と批判していました。ですから人々は、パリサイ人たちの目を恐れて、安息日の夕方、つまり安息日が終わる時に、悪霊につかれた人々をイエス様のもとに連れてきたのでしょう。
イエス様は悲しかったでしょう。病気がいやされ、悪霊から解放されることさえも、社会から縛られている現実を、悲しく思われたことでしょう。神は私たちに、底なしの自由を与えてくださいました。しかし人は、自らが作った決まりごとで自分自身を縛ってしまうのです。そのような群衆の姿のただ中において、イエス様は弟子たちを向こう岸に渡るように命じられます。
向こう岸へ渡るのは、絶え間なく押し寄せてくる群衆から逃げるためではありません。むしろ逆です。助けを必要としている人々が、ここにいる人々のほかにもたくさんいる。そのような人々を助けるために、あなたがたは向こう岸へと向かうのだ。
すでにあたりは夕暮れを飛び越えて夜のとばりが下りていたことでしょう。それでもいやしを求める人々、悪霊からの解放を願う人々はどんどん集まっています。人間的な視点で言えば、自分たちの働きがどこまで続くのか、終わりも見えないなかでの、向こう岸へ渡れという命令です。その向こう岸に、何が待っているのかははっきりとわかりません。確かなことは、そこにも、助けを求めている人々がいるということです。いったい、誰がこのような終わりの見えない道に留まることができるでしょうか。それを示すために、マタイは、ここで、二人の人物を書き留めています。一人は、弟子にしてくださいとイエス様に願ってきた律法学者、もう一人は、すでに弟子であったが、あなたについていく前に、父親の葬儀を行わせてくださいと訴えた者。しかしそのどちらにも、イエス様は厳しく答えられました。一方には、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」。もう一方には「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」と。
これらの言葉は、だれでもイエスと共に向こう岸に渡れるわけではない、という厳しさを表しているかのようです。命を捨てて従ったはずの十二弟子でさえ、嵐の中で信仰を見失うほど、弟子としての道は厳しいものです。しかし私たちがイエスを信じたとき、弟子としてふさわしい信仰もすでに与えられています。そのうえで、私たちは改めて、向こう岸へ渡ろうという、神の命令をしっかりと受け止めて、歩んでいきたいと願います。
さて、この四月から、主日礼拝、教会学校、祈祷会をはじめとする教会の諸集会をときわ会堂へ移行する計画について話します。昨年末のことですが、お向かいの医院の先生からお電話があり、この4月から駐車場をお借りできなくなることが知らされました。この説教はネットでも配信されているので、理由についてはここでは語りませんが、何か私たちの側に不手際があったということではありません。そして電話を切った後、私にはこれが神さまからの呼びかけのように思えました。なぜなら、すべてが繋がったからです。
もし新会堂用地が与えられていなかったら、もしその場所に一時的ではあっても礼拝堂として活用できる民家を残していなかったら、もし昨年そこで礼拝を行うという経験をしていなかったら、いろんな「たら」が頭に浮かびました。神は、あらゆることを働かせて、祝福と成長を与えてくださるのです。これからあの場所に新会堂を作るためには、私たち自身を知ってもらわなければ、信頼関係を築くことはできません。そのために、神はあえて背中を押す形で、ときわ会堂に教会員が集まって礼拝をささげる道を備えてくださったのだと確信しました。
もちろん、ときわ会堂で約三十人を受け止めるということになれば、トイレや冷暖房の問題など、不自由さを感じる部分はあるでしょう。しかし全員がそのときわ会堂に集まることを通して、私たちはあそこに新しい会堂が立つのだとまさに肌で感じながら、建設に向けての決意を全員が共有することができるでしょう。さらに今回の教会総会では、このときわ会堂への移行だけでなく、新会堂の設計・建設を依頼する業者、また建設に関わる予算についても話し合いますが、これについては、総会資料をよく読んでくださり、来週の総会に臨んでいただきたいと願います。
それらはまさに暗やみが近づく夕暮れに、まだ誰も知らない向こう岸に渡るという、この弟子たちが経験したことにも繋がります。そのあいだに横たわる湖の上では、かつて経験したことがない嵐が起こるかもしれません。いや、必ず起こるでしょう。神は、愛する者を訓練するために嵐を用意されるからです。それは避けることができない嵐であると共に、神の子どもたちには必ず脱出の道が用意されている嵐です。ならば、避けることを願うべきではありません。むしろその中でも、イエス・キリストが私たちを守り導いてくださることを確信しながら、向かっていきたいのです。
夕闇と、激しい風と、高波、不安をかき立てるものに囲まれたなかで、弟子たちは、主が与えてくださる平安を見失っていました。しかしイエス様が嵐の舟の中でも眠っておられたのは、神の子どもは父なる神にすべてをゆだねることができるという幸いの模範です。新しい教会堂を建設するということがいよいよ具体的に進んでいく中、期待だけではなく不安もあります。しかし忘れないでください。私たちと共にいてくださる方は、何があっても私たちの手を離すことのない、そういうお方です。試練に押しつぶされそうなとき、キリストが私たちを握りしめる手の大きさを思いましょう。
私たちがなすべきことは、主をたたき起こすことではなく、主に信頼することです。「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」。そんなわけがありません。私たちを救うために、十字架で死んでくださったほどの方が、私たちに無関心であるはずがありません。すべてを働かせて益としてくださり、私たちを導かれるのです。豊栄教会の歴史において、今までもそうでしたし、これからもそうです。いつも私たちを導いてくださる光であるイエス様から目を離さずに歩んでいきましょう。
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2023.2.12「神の子どもとされた恵み」(ルカ7:24-35)
聖書箇所 ルカ7章24〜35節
24ヨハネの使いが帰ってから、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。25では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。26では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。27この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。28わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。29ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。30ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。31それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。32広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』33バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、34人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。35しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」2017 新日本聖書刊行会
今から約200年ほど前の時代、日本では江戸時代の終わりにあたりますが、当時のドイツにビスマルクという総理大臣がいました。彼は、当時三流国と呼ばれていたドイツを、瞬く間に一流の国家へ押し上げた、優れた政治家でしたが、目的のためならば手段を選ばない、鉄血宰相とも呼ばれました。彼がまだ若い頃のこんなエピソードがあります。ビスマルクが一人の友人と山に行って狩りを楽しんでいたとき、友人が足をすべらせて沼に落ちてしまいました。しかもその沼は深い泥沼で、友人はもがけばもがくほど深みにはまり、しかも刻一刻と沼の底に引きずり込まれていきます。友人が助けを呼ぶと、ビスマルクが声を聞いて、駆けつけてきました。しかしどうしても手が届きません。そこでビスマルクは友人にこう言いました。「すまん、どうしても助けたいのだが、助けられそうにない。君がこれ以上苦しむのを見るのは辛いから、いっそひと思いに打ち殺してやろう」と平気な顔で、溺れている友人に向けて猟銃の狙いをつけました。友人はびっくり仰天、それこそ死に物狂いで抵抗し、小さな柳の枝にすがりついて、沼から脱出しました。ビスマルクに怒りの目を向けると、ビスマルクは涼しい顔をして、「失礼失礼、もし本当に助からないようであれば、この銃をつかませて助けようと思っていたが、まああれだ、やっぱり自分の力で沼から上がるのが男らしいからね」。
少し荒っぽいやり方ではありますが、だれかが助けてくれると考えている限りは、人は死に物狂いにはならない、という教訓を、ビスマルクはすでに青年の頃から知っていた、ということかもしれません。もちろん私たちは、神の助けを信じる者ではありますが、神への信仰が、牧師や他の信徒への人間的依存へとすり替わってしまうことは決して珍しくはありません。イエスは、いま自分のメシア性に対するつまずきの中でもがいているヨハネに対して、あえて多くを語ることをしませんでした。ただ、イエスの周りで何が起きているかだけ、伝えました。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」と。
イエス様は、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」と誰よりも評価をされていましたが、それをヨハネに伝えることはよしとしませんでした。人のほめる言葉が、どんな信仰者をも惑わせてしまう誘惑となることを知っておられたからでしょう。しかしそこで私たちは、イエス様の口から、じつに驚くべき言葉を聞くのです。「しかし、神の国で一番小さい者でさえ、バプテスマのヨハネより偉大である」と。ここに真理があります。ヨハネは、イエス様が世に出るための道を備えました。彼は、神が何百年も前から預言しておられた、荒野で叫ぶ者の声でした。彼の働きによって、その後にイエス・キリストによって訪れる神の国が、準備されていきました。私たちはその神の国の住人です。それは、イエス・キリストを信じ、神のこどもとされたことによって与えられた恵みです。そしてその特権、資格は、それ以前の人間で最も優れた者である、バプテスマのヨハネよりも勝っているのです。
こんな話を聞いたことがあるでしょうか。ある、子どものいないお金持ちが、自分のすべての仕事と財産を引き継ぐ者として、身寄りのない子どもたちから何人かを選び、自分の養子とすることにしました。彼はその子どもたちを探し出す仕事と、見つけたこどもたちを養い、ふさわしく教育する仕事を、自分が信頼する執事にゆだねました。そして彼のもとで過ごした子どもたちは、どうしてあらゆる点で自分たちよりも優れているこの執事さんが、お金持ちの養子になれないんだろうか、と不思議に思いました。しかしそれを執事に聞いてみると、彼は笑って、「私はみなさんをご主人様の跡継ぎにするための、ただのしもべです」と答えたといいます。
このたとえ話に出てくるお金持ちは父なる神を、神の子どもとされた者は私たちを、そして一人の執事は、バプテスマのヨハネを表しています。実際に私たちが神の子どもとされたのはイエス様の十字架によってですが、ヨハネはそのイエス様を私たちに伝えるために、その生涯をささげました。それは、神の前に永遠におぼえられている働きではありますが、それでも実際に、神の子どもとされた私たちに勝るものではありません。私たちは、自分では気づいていなくても、そこまで大きな特権、神の子どもとされて、永遠の御国を継ぐ者とされた、という恵みにあずかっているのです。
しかしそのヨハネが自分の生涯をかけて伝えようとした、イエス・キリストをパリサイ人たちは決して認めようとしませんでした。彼らは、ヨハネが与えていた水のバプテスマが、罪を悔い改めるバプテスマであることをまったく心に留めていなかったのです。自分は罪人ではない、自分は他の人間より正しいと言い張り、その心はまったく変わりませんでした。イエス様がここで語られている「弔いの歌」とは、ヨハネが語った、罪の悔い改めを迫る厳しいことば、そして「笛と踊り」とは、罪に囚われている者たちがイエス様を信じることによって、喜びへと解放されることを指しています。しかしパリサイ人は、イエス・キリストが救い主であることを受け入れず、悪霊のしもべ、あるいは大酒飲みの食いしん坊、と言ってあざ笑ったのです。
彼らの姿は、かつての私たちの姿です。そして今も、救いを受け入れない、この世の人々の姿です。イエス様は、最後にこう約束しておられます。「しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します」。すべての知恵の子ら、それはイエスを信じて神の子どもとされた、私たちのことです。私たちが、神の子どもにふさわしく、喜びに満ちて生きていること、そして神の子どもにふさわしく、罪を悔い改め、きよさを求めて歩んでいること、それがまことの知恵です。私たちの罪がイエス・キリストを十字架につけました。イエス様が十字架にかからなければならないほど、私たちの罪は救いがたいものでした。しかし罪はすべて十字架によって取りのけられ、私たちはイエス様の死と復活によって、確かに神の子どもとされました。そのことを信じ、感謝したいと思います。そのとき、私たちは決して朽ちることのない喜びに溢れます。ヨハネが準備し、イエス様によって与えられた、この救いの恵みを一人ひとりがかみしめながら、今週も歩んでいきたいと思います。
2023.2.5「弟子の証しは自由と喜び」(ルカ7:18-23)
聖書箇所 ルカ7章18〜23節
18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、19 こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。22 イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」2017 新日本聖書刊行会
世間では、何かにひっかかって転ぶことをつまずくと言いますが、そこから転じて、キリスト教会では、何かが原因となって信仰に幻滅することを「つまずき」と呼んでいます。つまずく原因の圧倒的第一位は、「牧師につまずいた」というもの。これはもうごめんなさいと謝るしかありません。第二位は牧師夫人につまずいたというパターンですが、後がこわいのでとばします。第三位が「奉仕につまづいた」というパターンです。役員、礼拝司会、献金のお祈り、CS教師、トイレ掃除、確かに教会にはたくさんの奉仕が必要で、誰かがそれを担当しないといけないという面もあるのですが、それだけだとやらされている感ばかりが強くなって、奉仕の源である、救われた喜び、救ってくださった神への感謝が薄れ、奉仕につまずく、ということが起こってしまうようです。
今日の聖書箇所の最後でイエス様は、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と言われています。それは、ほかならぬバプテスマのヨハネが、ご自分につまずきかけていることをあわれんでのことばでした。このとき、ヨハネは牢獄の中にいました。そして面会に来る弟子たちからイエス様のことを聞き、イエス様へのつまずきが起きていたのです。そしてつまずきは、この方は本当に救い主なのか、という疑いへと膨れ上がっていました。彼は弟子たちをイエスのもとに遣わし、こう尋ねさせます。「おいでになるはずの方」、つまりイスラエルが待ち望んだ救い主は、ほんとうにあなたなのですか。それとも別のお方を待つべきなのでしょうか、と。
ヨハネのつまずきの原因はどこにあったのでしょうか。それをルカは、ヨハネの弟子たちが、ヨハネの言葉を一言一句、そのまま繰り返している姿を通して浮かび上がらせています。18節後半から20節までを、もう一度読んでみます。「すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」
ここに、ヨハネがつまずいた原因が現れています。ヨハネは、自分の弟子を徹底的に厳しく訓練しました。それが、師匠の言葉を一言一句違えることなく繰り返す、弟子の姿に現れています。しかしそれは、イエス様が目指した弟子づくりの姿とは真逆のものでした。師匠の言葉を繰り返し、師匠と同じ考えの中で自分も考える、それに対する異論や反論は許さない。ヨハネがそのような弟子づくりを願ったということではないにしても、ヨハネの弟子たちは、そのように師匠のように考え、そこから逸脱した生き方を認めないという方向へと変わっていきました。福音書の中には、ヨハネの弟子たちが、パリサイ人や律法学者たちと一緒になって、イエスの弟子たちの奔放な生き方を批判する姿も描かれています。人間はその弱さのゆえ、決まり切ったレールの上にいることで安心する、そしてそれはこの世の組織だけではなく、キリスト教会の中でしばしば強調される、「弟子訓練」を徹底すれば教会は成長するという間違ったイメージにも現れています。
みなさんは、誰かから弟子訓練という言葉を聞いたことはないでしょうか。この言葉を強調する人々は、一人ひとりのクリスチャンが弟子訓練をしっかりなされることで、教会は成長すると主張します。では弟子訓練とは何ですか、と聞くと、個人伝道のやり方とか、一分で救いの証しをする方法だとか、あるいは異言で祈るとか、いった答えが返ってくることもあります。しかし伝道、つまりたましいを漁るというのは、訓練という、繰り返しによってだんだんこなれてくるものではありません。教えられて身につくものではなく、自分の中で働いておられる聖霊にゆだね、救いの喜びに溢れて生きるとき、私たちの中にイエス様を伝えずにはいられないという渇きが起こされていくのです。
イエス様は、宣教活動に入られてから十字架にかかられるまでの三年半、常に弟子たちと生活を共にされました。しかし聖書に記されているその三年半で、私たちは弟子たちがめきめきと訓練され成長していく姿を見ることができるでしょうか。むしろ、十字架というタイムリミットが近づく中で、だれが一番偉いかという議論に熱中し、師匠が血の汗を流して祈っているときに眠りこけ、よみがえったという知らせを聞いても信じないという姿です。そしていざイエス様が天に昇られるときには、「今こそイスラエルを再興してくださるのですか」と、相変わらず神の国を地上の王国のように誤解している姿をさらけ出しています。しかしその彼らが、聖霊を受けたときに新しく生まれ変わり、180度生き方が変わります。それが聖書が教えていることであって、弟子訓練が教会を成長させるのではありません。一人ひとりが御霊の与える喜びの中で24時間生きていますか。それがあれば、伝道の方法とかいったものはどんなに荒削りでも、私たちは誰かに福音を伝えたいという思いに動かされます。その思いこそが、教会を成長させるのであり、知識や方法ではないのです。
イエス様が目指した神の国は、自由の国でした。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられている、と。イエスの説く神の国には、弱い者たちが集まるところでした。師匠に絶対忠実な強い者たちの集まる国ではなく、どんな弱い者もイエス様によって慰められ、居場所を与えられている国でした。取税人、罪人、遊女、そして幼子、ありとあらゆる人々をイエスは優しく抱きしめ、受け入れて下さる、自由の国でした。ヨハネが自分にも他人にも厳しかったのに対し、イエス様はご自分が十字架を負う代わりに、人々には底なしの自由を与えてくださったのです。
イエス様は、ヨハネのように厳しく、師の教えに忠実な弟子を育てるために三年半を過ごすこともできたでしょう。しかしそうされませんでした。イエス様は弟子たちを友と呼び、どれだけ年が離れていようと兄弟姉妹と呼びました。教会は、みなが一斉に右向け右をするようなところではありません。それぞれが、人生経験も、信仰生活の上にも、違いがあります。違いがあって当たり前で、違いがあるからこそ自由の国ということができます。そこに、イエス様は三年半留まられたし、今もこの中に生きておられます。与えられている違いを感謝して、歩んでいく者たちでありましょう。
2023.1.29「主の御前に進み出て」(マルコ5:25-34)
聖書箇所 マルコ5章25〜34節
25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」2017 新日本聖書刊行会
現代は、二人に一人ががんにかかる時代と言われています。怖い病気だというイメージがありますが、あるお医者さんが面白いことを言っていました。じつはがんにかかるというのは、一部例外もありますが、それまで長生きできたというしるしである、と。二人に一人というと高い確率に思われるが、そのほとんどは70代、80代に集中している、だから癌にかかった人は自分が70、80まで長生きできたことをむしろ感謝すべきだ、というのです。とはいえ実際に癌にかかったら、そんな仙人みたいな考えではいられません。どうして自分なんだと悲しみ、目の前が真っ暗になり、周囲に怒りをぶつけながら、少しずつ、癌にかかった事実をあるがままに受け入れていく。そのために必要なのは、信頼できる医師や、援助者たちとの関係です。
今日の聖書箇所に出てくる、長血の女性の苦しみは、まるでこれが二千年前に書かれたものであることを忘れてしまうほどです。26節には、彼女が12年もの長い間、「多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた」と書かれています。長血とは、出血が止まらない、女性特有の病気でしたが、当時、律法では、長血の女性が触れるものは何であっても汚れる、とされていました。
彼女は12年のあいだ、幾度となく、こう心の中で繰り返したことでしょう。この病気になったのは、私のせいではない。それなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。なぜ世間や家族からさえも、汚れた者と見られなければならないのか。そして弱い者の味方であるはずの神が、なぜ私を汚れた者として断罪するのか。彼女の12年間は、ただの闘病生活ではありませんでした。怒りの中にもがき続ける12年間でした。
いったいどうしたら、その12年間から解放されることができるでしょうか。彼女の願いはたったひとつ、「この病気だ。この長血の病さえ治れば、私は普通の生活になれる」。そのために、彼女はイエス様に背後から近づき、その衣に触りました。律法では、長血の女に触れるものはすべて汚れるとされており、彼女が群衆の中に混じっていることがわかったら、最悪の場合、石で打たれて殺されることさえ覚悟しなければなりませんでした。しかしイエス様の衣にさえ触れば、きっと治る。そしてここから、聖書の中にも他に例がない、想像を超えた神のご計画による、救いの物語が始まっていくのです。
いま、私が「聖書の中にも他に例がない」と言ったのはなぜでしょうか。どの聖書を探しても、イエス様が自分でもわからないうちにだれかをいやしていた、という話はないからです。神のいやしは、100%神の主権によるものです。人間がどんなに一生懸命求めても、神のみこころでなければ、何も与えられません。ところがこの長血の女だけは、イエス様の意思と関係なく、力が出ていくということが起こります。今までも、そして、これからも、決してあり得ない、知らないうちに力が引き出されるということが起きたのはなぜか。イエス様は一瞬で悟りました。それは、この力を引き出していった者に、本当の救いを与えるために、父なる神がなされたことなのだ、と。
だからイエス様は、弟子たちが呆れるような大声と態度で、自分に触った者を探し出そうとしました。イエス様は、自分の力が出ていったことを知ったとき、それによってその人の病気がいやされたことはわかったでしょう。しかしそれだけでは、その人は救われたとは言えません。イエス様は、ご自分のもとへ信仰によって近づく者を救われます。だから、自分に触った人を探しました。病のいやしではなく、本当の救いを与えるために。
人は、イエス様の正面に出てこなかったら、本当の救いはありません。この女性について言えば、たとえ長血がいやされたとしても、それが救いではありません。病からの解放が救いではなく、病があってもいのちを感謝することのできる信仰こそが真の救いです。教会には、あらゆる人々が、あらゆる理由で求めを持ってきます。ある人は経済的困窮から脱出したいと願いました。ある人は傷ついた家族関係を回復したいと願いました。困窮していた人に、少なくない金銭的サポートをしたこともありました。家族関係が破綻していた人に、自分にできる援助をしたこともありました。しかし一時的には効果があっても、それでは本質的な解決は生み出さないということを悟りました。イエス・キリストの前に出てきて、自分という人間を胸から心から打ちたたいて、罪人であることを悲しんで、ただこの方しか私を救えないということがわからなければ、すべては一時しのぎで終わってしまいます。本当の救いは、ただイエス・キリスト、私たちのためにいのちを捨てられた方のために、一度は助かった私の命をもう一度あなたにささげますという決意の中でこそ、生み出されていくものです。
もし彼女が後ろからイエス様の着物に触ったあと、群衆にまぎれてそっと離れていったらどうなっていたでしょうか。その日から、長血に苦しまなくてすむ、バラ色の日々が始まったでしょうか。始まりません。なぜなら、過ぎ去った12年間の日々に意味を見いだすことができていないからです。救いは、どんな過去も、現在も、未来も、すべてに意味があるという感謝を生み出します。たとえ今日病が治り、明日は健康な日であったとしても、彼女の過去12年間は傷つけられたままです。それがいやされなければ、彼女の心には、これからも闇が離れず、圧倒的な救いの喜びは訪れません。
救いとは、過去は変わらずに現在と未来だけが変わっていくという中途半端なものではありません。傷、痛み、怒り、憎しみ、そのようなものにとらわれていた過去もまた光輝いていくのが本当の救いです。多くの人々が、過ぎ去った過去に囚われて生きています。過去を幸せな日々だったと懐かしむ人もいれば、今の自分がこんなに苦しんでいるのはあの過去の日々や経験のせいだと憎む者もいます。いずれにしても、過去を正しく扱うことができないという点では同じです。しかし私たちがイエス・キリストの正面に出てきて、この方のまなざしの中に頭を垂れるとき、この方と出会うために、自分の過去すべてがあることを悟ります。過去のすべてが意味あるものに変わり、何があっても恐れることのない人生が始まります。どんなにおぞましい過去であろうと、その一番暗い底にさえ神がいてくださったとすれば、これからの人生で、何を恐れる必要があるのか、と告白することができます。
イエス様は彼女に「娘よ」と呼びかけられました。まさに娘を捜し回っていた父のように、イエス様は優しい目を彼女に向けられました。その時、彼女は気がついたのです。この12年間、私はひとりではなかったのだ、と。神さえもうらんだ12年間、しかし神は私をこの間もずっと探し続けておられたのだと。そのとき彼女の過去も現在も未来もすべてが光の中に招き入れられました。これが救いです。病が治ることが人生の解決ではなく、イエス・キリストと顔と顔を合わせるところに人生の解決があります。イエス様の正面に出ましょう。顔と顔を合わせて語り合い、祝福のことばをいただきましょう。神は、それを彼女だけではなく、あなたにも与えたいと願っておられるのですから。