聖書箇所 ヨハネ21章1〜14節
1その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。3シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。4夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。7それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。8一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。2017 新日本聖書刊行会
今日の主日礼拝はじつに半年ぶりでしょうか、賛美礼拝という、以前はひと月に一回、行っていた礼拝形式を復活しました。コロナ禍の中で、教会から消えてしまったもののひとつが賛美でした。曲だけを流して、会衆は小さくハミングあるいは心の中で歌う、という風に変えたという話が、牧師同士の情報交換の中でよく耳にしました。私たちの教会では、声に出して賛美するということはやめませんでしたが、礼拝スタイルとしての「賛美礼拝」は、長らく止まっていました。しかし今日、それを再開することができたことを心から感謝しています。今日は愛餐会はありませんが、これからは、外の駐車場で愛餐会も再開したらどうでしょうか。ここは駐車場だけで約500u、かやま会堂の約10倍の広さがあります。車が両脇一杯に止まっても、その三分の一のスペースは空きますので、かやま会堂の三倍あります。お互いに距離をとって、それでもマスクをせずに食事をすることができます。問題は、道路から丸見えなのでなんだあの集団は、となることですが、しっかりと距離をとって食事をしている姿を示すことができれば、証しにもなるのではないかと思います。
そして神さまは、私たちが自分たちの姿を隠すのではなく、公に人々の前に表すことを求めておられます。そして公に人々の前に自分を表すことができる人というのは、余計なプライドで自分を守ろうとしない人たち、それはクリスチャンの中に必ず現れる品格であろうと思います。容姿も、才能も、富も、人脈も、救いの恵みの前にはすべてがごみのようなものです。しかし裸で救われたはずの私たちは、いつのまにか、また自分を見えない衣服で装うとしてしまいます。そこから解放されるためには、私たちは何度でも何度でも、イエス様に出会わなければなりません。今日はイエス様の弟子、シモン・ペテロに起こった、そんな物語です。
ペテロの心は、もがいていました。イエス様のためなら命を捨てることもできる、と信じていた彼は、いざその場面が来たとき、のろいの言葉を繰り返してイエスなど知らない、と三度も繰り返してしまいました。その心の傷は、一度、二度、イエスに出会っても、まだいやされないほど深いものでした。「私は漁に行く」と彼は仲間の弟子たちに言います。彼は、イエス様の弟子になったとき、網も舟も捨ててイエスに従ったと書いてありますが、再び彼は網を手につかみ、舟を漕ぎ出して、ガリラヤ湖に向かいました。そこには、今も行き場所を失っている、ペテロの深い苦しみが透けて見えるのです。
彼の中のもう一人の自分は、こう呼びかけていたかも知れません。「シモンよ、おまえは人間をとる漁師になる、という主の言葉を忘れてしまったのか。おまえがすべきは、湖に行って魚を捕ることではない。すでによみがえられたイエス様を人々に向かって語ることではないか?」しかしそこで彼の中のもう一人の自分がこう答える。「わかっている。そんなことはわかっている。でもできないのだ。俺は三度も主を知らないと言った男だぞ。誰が何といおうと、主を裏切った者という事実は消えないのだ。その俺がどうして人々に救いを語ることなどできるのか。」
クリスチャンの間で親しまれている、「Footprints」という賛美があります。キリストと二人三脚で歩んできたはずなのに、いつのまにか足のひもはほどけ、一人分の足跡しかない。主はいつから離れ、そしてどこへ行ってしまったのか。しかしその時主の御声が聞こえる。その一人分の足跡はあなたのものではない、私の足跡だ。もう歩けないあなたを私がおぶってきたのだ。まさにその賛美と同じ、主の力強い御姿が朝焼けと共に現れました。
4節、「夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。」暗闇の湖を漂う小舟、墨汁を流したような水面。ペテロの心を象徴するかのような、長く、暗い夜でした。彼らの網には一匹の魚も入ってこない夜でした。しかし夜が明けたとき、岸辺にイエス・キリストが立たれました。いや、夜明けになって突然イエス・キリストが現れたのではないでしょう。ペテロたちが真っ暗闇の中で網を何度も何度も投げ入れ、そのたびにため息をついていた夜の間中、イエスはずっと岸辺に立たれていたはず。そして彼らを見つめていたはず。ただ彼らがそのことに気づかなかっただけなのです。
イエス・キリストは私たちをとりまく闇の中、岸辺に静かに立たれます。そしてペテロだけでなく、私たちすべてを優しく見つめ、こう言われます。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と。ルカの福音書を読んだことのある方々は、かつてペテロが同じみことばで弟子として召されたことをご存じでしょう。その時も、漁師ペテロは魚がとれず困り果てていました。しかしその時キリストは彼に言われました。「深みにこぎ出して、網を下ろしなさい。そうすれば、とれます」。あの日と同じです。ペテロがイエスの言葉に従ったときに、大漁の奇跡が起こったのです。しかしあの日と確実に異なるところがありました。それはペテロの行動です。あの日は、ペテロは奇跡に出会いイエス・キリストに言いました。「主よ。私から離れてください。私は罪深い者ですから」と。しかし今、ペテロはキリストから離れようとはしません。裸の上に急いで一枚の上着をまとうと、水に飛び込んでひたすらイエスに近づこうとしたのです。
もしペテロが主を見捨てた、主を裏切ったという罪意識に苛まされていたままであったなら、彼はこの時も「主よ、私から離れてください」と言ったことでしょう。しかし彼は気づきました。神が決して変わらない方であるということを。あの日と同じみことばを、あの日と同じ約束をペテロに与えました。たとえペテロが三度どころか、何度主を否み、主を裏切ったとしても、イエス・キリストは決して変わることはない。決してペテロを見捨てることはない。そして、私をも、あなたをも。もしあなたが暗闇から光のもとに出たいと願うなら、もしあなたが心の中の傷をいやされたいと願うなら、ただ裸のまま、イエスのふところめがけて飛び込みましょう。何も飾らず、何も誇らず、ただ汚れたままの自分でイエスに近づくのです。イエス様、わたしのすべての罪をお赦しください。そしてあなたを愛させてください。
最近の記事
(04/20)重要なお知らせ
(09/24)2023.9.24主日礼拝のライブ中継
(09/23)2023.9.17「家族を顧みない信仰者」(創世19:1-8,30-38)
(09/15)2023.9.10「安息日は喜びの日」(マルコ2:23-3:6)
(09/08)2023.9.3「私たちはキリストの花嫁」(マルコ2:18-22)
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2023.4.23「見ずに信じる者の幸い」(ヨハネ20:24-31)
聖書箇所 ヨハネ20章24〜31節
24十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
30イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。2017 新日本聖書刊行会
先週の日曜日の午後、牧師就任式の司式をするために村上福音キリスト教会に行ってきました。村上の信徒はもとより、新発田キリスト教会の方も何名か来ておられ、交わりを頂きました。コロナが始まるまでは、村上・新発田・豊栄の三教会で村新豊交流会を行っていましたので、今年か、あるいは来年かは、ぜひ復活したいね、なんてことも話題に上りました。
豊栄のほうは桜の花がすっかり散ってしまいましたが、村上のほうはまだ結構残っているようでした。盆地になっている村上市は、町中どこにいても、山がすぐ近くに見えるという場所ですが、休憩するために立ち寄った店の駐車場から見えた山並の色合いが、ちょうど今日の週報に掲載した写真と同じような感じでした。ここにまた春山を負う港あり、という俳句も付け加えてみましたが、春の山の良さといういうのは、早咲きと遅咲きが一緒になって独特の色合いを出しているところです。濃い緑、薄い緑、桃色、山吹、私はこの豊かな色合いこそ、教会のすばらしさではないかと思います。個性の違い、年齢や性別の違いはありますが、イエス・キリストを信じる信仰においては一つ、そしてその一つの信仰があるからこそ、決して無秩序ではなく、個性が個性として輝いている。それがキリストの弟子たちの集まりであり、キリストのからだである教会の本質だと信じています。
今日の聖書箇所も、私たちは決して不信仰のトマスという色眼鏡で見ることはしないようにしたいものです。トマスはかつて、弟子たちに対して「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と言ったほど、イエスを愛していた弟子でした。ここで彼が語っている「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」という言葉は、不信仰というよりは、彼の激しい感情が行き場を失っている姿とみることができます。
トマスはイエスが弟子たちの前に現れたとき、そこにいなかった。なぜ一人だけいなかったのでしょうか。福音書の中に断片的に語られる彼の人となりから想像すると、彼は自分を許すことができなかったのではないか、と思うのです。かつてはイエス様と一緒に死のうとまで言っていた自分がなぜ、どうして、逃げ出してしまったのか。ここには、あのペテロ以上に傷ついている一人の弟子が、イエス様を見捨てた、裏切ってしまったという心の傷に苦しんでいる一人の人が確かにいました。同じように逃げ出してしまった仲間の中に溶け込めば、その傷も少しは忘れられるかもしれません。しかしトマスのまっすぐな心は、それを自らに許さなかったのでしょう。彼にとって、イエスの前から逃げ出してしまった自分をひたすら責め続けることが、唯一の贖罪でした。みんなが逃げたんだよ。おまえだけ特別ではないよ。そのような慰めを受け取って心を軽くくすることを彼は拒み続けました。イエスは死んだのだ。私が見捨てたからこそ死んでしまったのだ。そのように頑なに自らを責め、イエスがよみがえったことさえも拒み続けることが、トマスにとって、自分が犯してしまった罪の大きさに向き合うことになっていたのではないかと思うのです。
ある若い伝道師の経験ですが、平日夜遅く、教会に、酒を飲んだ男性がやってきたそうです。そしてその伝道師に言いました。「おまえのところのイエス・キリストを見せてくれよ。そうしたら信じてやるから」。伝道師は、よっぱらいだから何を言っても通じまいと思いつつ、「イエス様を見せることはできませんが、イエス様はみことばの中に生きておられます。今日はもう遅いですから、明日以降、一緒に聖書の勉強をしてみませんか」と言ったら、「もう二度と来ねえよ」と捨て台詞を残して、彼は帰ってしまいました。
この伝道師は、何が足りなかったんだろうと首をかしげましたが、わかりませんでした。忠実な人でしたが、経験が足りなかったのです。キリストを見せてくれと誰かが言ってきたら、見せようとしてはいけません。見せるのではなく、その人はいったい何を求めて、そのようなことを言っているのかという心の声を聞かなければなりません。「神を見せてくれ」という人々は、決してクリスチャンをからかっているわけでもありません。無理難題を言って困らせているようですが、彼らの心はただひとつ、自分の声を聞いてくれ。声にならない声を聞いてくれ。ぼろぼろの心を知ってくれ。どこへ向かったらよいのか、答えではなく、この不安に耳を傾けてほしい。答えを与えることが答えではなく、まず問いかけに寄り添おうとすることを人々は求めています。
それはトマスも同じでした。イエスを見捨てたという心の深い傷の中で、彼が求めていたことは、じつは彼の言葉とは裏腹に、イエスの傷跡に手を突っ込むことではなかったのです。どうすることもできない悲しみの中でこんな風にしか言えなかった、彼の痛みを私たちは想像する力を持たなければなりません。なぜならば、今日、教会の中に、教会の外に、自分の思いをこのような言葉でしか表すことができない、苦しんでいる魂が果てしなくいるからです。
落語家の間に伝わる川柳に、「噺家殺すに刃物をいらぬ、あくび一つもあればいい」というのがありますが、教会を殺すのも刃物はいりません。「この教会には交わりがない」と言えば、それだけで牧師も信徒も凍り付きます。しかし教会は死にません。イエス様が主だからです。八日後、つまりその日を含めたちょうど一週間後の主日に、イエス様はまた同じように現れてくださいました。内側から鍵がかかっていた部屋に突然現れ、「平安があるように」と呼びかけてくださいました。そしてイエス様はトマスにこう言われました。27節、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
これはその前の週のトマスの言葉に完全に対応していることがわかるでしょう。私たちの思い、言葉をイエス様はすべてご存じであり、完全な答えをくださる方です。日曜日、私たちが教会の門をくぐりさえすれば、そこには人生のすべての答えが待っているのです。日曜日、教会へ行けば、イエス様に会える。一週間のすべての問題に対する答えがある。もし指をつっこんだら私は神を信じるといったトマスのかたくなな心は、イエスとの再会によって露と砕け散りました。私たちもまた、この日曜礼拝がそのような恵みの時であることをおぼえ、トマスのように疲れた心をイエス様から優しく取り扱われていきたいと願います。救いをいただいていることは確かでも、自分の心の中にある罪やわだかまりに今も影響されていることが、クリスチャン生活の中にはあります。もしそれに気づかされたなら、イエス様はとっくの昔にそれを赦してくださっているのだということを思いましょう。そして私たちが心から喜びをもって生きていくことを望んでおられるのだ、と。今日を始まりとして、これからの一週間も、よみがえったイエス様と一緒に歩んでいきましょう。
2023.4.16「夜明け前が一番暗い」(ヨハネ20:19-23)
聖書箇所 ヨハネ20章19〜23節
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」2017 新日本聖書刊行会
先週の礼拝説教では、マグダラのマリアがイエス様に出会い、悲しみから喜びへと変えられていった姿について一緒に学びました。日曜日の早朝、彼女はよみがえったイエス様に出会い、弟子たちのところへ急いで戻ってこのことを伝えます。今週の聖書箇所は、その続きからです。しかし残念ながら、マリアが伝えた良い知らせを聞いても、弟子たちは信じませんでした。ユダヤでは、一日は夕方から始まります。日曜日から月曜日へと日付が切り替わる、この夕方になっても、彼らは重苦しい空気の中で過ごしていました。まるで借金取りを恐れて息を潜めている人のように、彼らは部屋の中に閉じこもって、せっかくの日曜日を終えようとしていたのです。
なぜでしょうか。聖書はこう記録しています。19節、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた」と。彼らを支配していたのは、ユダヤ人への恐れでした。イエスを十字架につけたユダヤ人たちが、今この扉を破って自分たちも、ローマの兵隊に引き渡すのではないか。何とみじめな姿でしょうか。何と哀れな姿でしょうか。力がないからみじめなのではありません。無力だから哀れなのではない。力に気づいていないからみじめなのです。世界を変える力を持ちながら、自分を無力だと考えているからあわれなのです。キリストがよみがえられたことを信じようとしない、キリストの弟子の姿は、世界でいちばんあわれな者です。イエスを十字架にかけた祭司長たちは、弟子たちが考えていたような恐ろしい者たちではなく、ローマ帝国の許可がなければ、何もすることができない人々でした。しかしこの弟子たちは、そんな弱いユダヤ人たちをさらに恐れて、生きていました。戸のすきまから光がもれることがないように、彼らは夕闇が迫る中で、ともしびもつけなかったのかもしれません。
しかしその恐れは、突然、終わりを告げるのです。何の前触れもなく、突然その真ん中にイエス様が来られたのです。それは彼らが呼び込んだものではありませんでした。ただ神の一方的なあわれみの中で、世界でいちばん哀れな集団の中にキリストは立って言われたのです。「平安があなたがたにあるように」。
「平安」を表わすヘブル語はシャロームです。それはただの平安ではなく、神だけが与えることのできる平安を意味します。私たち日本人は平安という言葉に対して、静かな夜にこうこうとあたりを照らす月の光のようなイメージを持っています。しかしシャロームは、何も問題が起こらない、静かな平安ではありません。問題が山積みになっていて、どれも解決の糸口が見つからないほどにこんがらがっていても、それでも神が共におられるときに、私たちは心安らかにされる、という神の平和を意味します。たとえ目の前が焼け野原でも、がれきの山でも、喉が焼け付くような日照りの中でも、神が共におられる。それが「シャローム」という言葉の意味です。実際、イエス様はこの挨拶の後、その手とわき腹を弟子たちに示された、とあります。そこにあったのはなんでしょうか。イエス様の真っ白な肌でしょうか。いいえ、血がこびりつき、釘と槍に突き通された穴がまだどす黒く残っているような、痛々しい生傷です。イエス様はそれを弟子たちに見せながら、「平安あれ」と語られたのです。
その傷は、イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たち自身が与えた傷でもありました。だからこの傷を見たとき、弟子たちは決して喜ぶことはできなかったでしょう。しかし聖書は、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。心の中にはどんな葛藤があっても、この方を見るとき、私たちの痛みはすべて溶けて、消えていきます。
聖書の言葉は、いつも私たちに静かで心落ち着かせるものとは限りません。むしろ私たちの罪をえぐり出し、みにくさをさらけ出します。しかしだからこそ、そこには本当の平安があるのです。確かに聖書は私たちをうちのめす、自分の罪について、みにくさについて悲しみをもたらすこともある、しかし決して悲しみで終わりはしない。その悲しみの先に、世が決して与えることのできない、慰めがある、励ましがある。弟子たちはまさにそれを経験しました。イエスの手とわき腹は彼らの恐れを映し出す鏡でした。しかし恐れに支配され、イエスを見捨てた彼らをイエスは再び弟子として認め、声をかけてくださったという喜びがそこにあったのです。
そしてイエスは、「平安あれ」という言葉をもう一度繰り返したあと、弟子たちに息を吹きかけてこう言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、それはそのまま残ります」。
日本の文学界で「小説の神様」と言われている志賀直哉という文豪がいます。彼が約20年間かけて書き上げた小説に、「暗夜行路」というものがあります。「暗夜」とは暗い夜、「行路」は行く路(みち)と書きますが、どんな小説かというと、まあなんと言いますか、これでもかこれでもかと主人公に悪いことばかり起こる物語です。この主人公、一説には彼自身がモデルと言われますが、両親に愛された記憶がなく、その愛情を埋めるために、様々な女性と恋愛関係に至ります。しかし付き合ったり結婚したりしても、必ず裏切られてしまう。さらに主人公自身が、実は祖父と母が不倫の末に生まれた子であることを知らされるなど、人間の闇が次々と現れる、だからこそ暗夜行路なのですが、そういうドロドロした小説です。しかし結局、主人公は自分を憎み、妻を憎み、かつて愛した女性たちを憎んでも、結局最終的に向き合わなければならないのは「赦し」だということに気づくのです。小説のクライマックスで、彼が山に登り、そこで朝日を仰ぎながら自分を含めてすべての人に対する憎しみを赦したくだりは、日本文学に残る名場面だと言われています。志賀直哉はクリスチャンではありませんでしたが、彼は青年時代、数年間にわたって内村鑑三というクリスチャンと交わりを持っていました。志賀直哉はクリスチャンではありませんが、クリスチャンである内村との交わりから、「赦し」とは何かということを人生を通して考え抜いた人でした。キリスト教は愛の宗教です。そして愛とは赦しです。
しかしクリスチャンであっても赦せないことがあります。それゆえに苦しみます。しかし私たちは赦せないことがあっても、赦す力の源である、聖霊をいただいています。だからこそ、今は赦せなくても、いつかは赦せる時が来る。そして赦せなくても、赦したいと願うならば、必ずそこから何かが変わっていくはずです。 多くの人々は、それはきれい事だ、できるはずがないと言います。しかし「夜明け前が一番暗い」という言葉があります。それは、私たちが一番苦しんでいる時こそ、次の瞬間には必ず夜明けが来るということです。一番苦しむとき、それは人を赦そうとしながら赦せない時でしょう。そして私たちの中に生きておられる聖霊は、私たちを赦してくださったように、必ずいつか、私たちも最も憎む者を赦すことができる、そのような奇跡を経験させてくださると信じています。今も親を赦せず、自分を赦せず、人を赦せない、多くの人々が、暗い夜の中を歩んでいます。しかしイエス・キリストの恵みは、どんな人にも必ず注がれます。私たちにも、私たち以外の人々にも。ひとり一人が今日の言葉を心に刻みつけて、歩んでいくことができますように。
2023.4.9「涙の後に見えたもの」(ヨハネ20:1-18)
聖書箇所 ヨハネ20章1〜18節
1さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。2それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」3そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。8そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。9彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。10それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。13彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」14彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」16イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」18マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。2017 新日本聖書刊行会
今日はイースターです。教会の一年の中ではクリスマスと並んで重要な日と言えるでしょう。しかしクリスマスが毎年12月25日と決まっているのに対し、イースターは、春分の後の満月の直後の日曜日、とちと計算が複雑で、毎年日付が変わっていきます。とはいえ、イースターの意味そのものは単純明快です。イエス・キリストが墓の中からよみがえられた日。それがイースターに他なりません。救い主が死んでしまったという悲しみが、救い主は生きておられるという喜びへと劇的に変わった朝。それがイースターです。悲しみは喜びに、涙は笑いに、嗚咽の声は高らかな讃美へと変わった日、それがイースターです。私たちは今日、喜びをかみしめながらこのイースターを過ごしたいと願います。たとえ私たちがどんな疲れや痛みの中であえいでいたとしても、キリストの復活をかみしめていくとき、そこに喜びがわき起こっていくことを聖書は教えています。私たちもその喜びにともにあずかっていきましょう。
11節、「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた」。このマリアはイエス様のお母さんのマリアではなく、マグダラのマリアと呼ばれた女性です。「マグダラ」というのは出身地ですが、彼女はかつてイエス様から七つの悪霊を追い出してもらったと別の箇所に書かれていますので、人格も混濁し、生活も荒れ果てていた中にようやく生きていたのでしょう。しかしイエス様によって、悪霊から解放してもらったマリアは、その後イエス様が十字架で死なれたときもそこから目をそむけず、亡骸が収められた墓の場所もしっかりと心に刻みつけ、そして安息日が終わった日曜日の朝一番に、イエス様の墓へとやってきました。そんな彼女が、イエス様の墓の場所を決して間違えるはずはないのです。しかし墓にやってくると、墓の入口は開いており、イエス様の亡骸も消えてなくなっていました。
おもしろいといったら語弊がありますが、この復活の出来事をめぐる人々の反応は、それぞれが対称的です。たとえばこの20章のはじめのほうでは、ペテロとヨハネも墓にかけつけるのですが、彼らは墓の中に、遺体を包んでいた亜麻布が残されたまま、イエス様の亡骸がなくなっているのを見て、イエス様の復活を信じました。しかしマグダラのマリアのほうは、逆にイエス様の亡骸がなくなっているのを見て、悲しみのあまりなきじゃくっています。あるいは、マリア以外の女性たちは、墓の重いふたをだれが開けてくれるだろうかということを心配していました。ところがマグダラのマリアは、ふたが開いて墓に入れるようになっているのに、中に入らずに、入口で泣きじゃくっています。このことが教えてくれるのは、私たちは同じものを見ていても、心のありようで、それが喜びを生み出しもすれば悲しみにもなるということです。逆に言えば、たとえ99%の人々から見て不幸せだと言われようが、自分の心がそれに同調しなければ、私たちは決して不幸ではないということです。そして人々が自分の常識や目に見えるものによって判断してこれは失敗だとか不幸せだとかいうものに対して、いや私はそうは思わないと言える力、それがよみがえりの信仰ではないかと思います。
マリアはイエスの亡骸が見あたらないという現実の前にひたすら泣きじゃくります。墓を見に来たペテロやヨハネは帰ってしまい、頼れる人は、そばにだれもおりません。しかしこの、頼れる人はだれもいないということ自体が、このときのマリアにとっては神からの恵みでした。もしだれかいたら、マリアは墓の外で泣き続けていたでしょう。しかしだれもいないからこそ、彼女は泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込みました。そしてその目は、さきほどペテロやヨハネが来たときにはいなかったはずの、白い衣を着た二人の人がいつのまにか座っているのを見るのです。
私たちもまた、人生で数え切れない涙を流します。愛する者と死に別れる時、夢や希望がうち砕かれる時、いったいどうすればよいかわからない、ただ涙を流すしかない、そんなときがあります。しかしどれだけ瞳が涙で覆われても、地面を見つめるのではなく天を仰いでいきたい。一度叩いても壊れなかった壁があれば、何度でも何度でも叩いていきたい。そうすれば、何かが見えてくるはずです。
マリヤが墓を覗き込んだとき、暗やみの中に白い人のようなものが二つ見えました。聖書はそれを、白い衣を着た二人の御使いであったと言います。イエスの亡骸が納められていたところに、一人は頭のあたりに、もうひとりは足のあたりにすわっていました。まるでイエスのからだがあったところを覆うようにすわっていた二人の御使い。旧約聖書でも、神殿のいちばん奥にある神の箱は、その蓋に二体の御使いの彫刻が施され、広げた翼が神の箱を覆うように造られていたとあります。旧約聖書における神殿の中心が、いまやキリストの亡骸が納められていた墓の中へと移りました。私たちはここに、人々が恐れ避ける墓の中に、いまや恵みの泉があふれている姿をみるのです。そしてそれこそが私たちに与えられた、逆転の祝福であります。人々は闇を恐れます。しかしキリスト者は闇を恐れません。そこに主がおられるからです。人々は苦しみを恐れます。しかしキリスト者は苦しみを恐れません。苦しみの中にこそ、主がともに戦ってくださるからです。人々は死を恐れます。しかしキリスト者は死を恐れません。死はキリストがそこからよみがえられたゆえに、私たちのいのちをそこなうことができないからです。人々は墓を恐れます。そこは死が支配している場所だからです。しかしキリスト者は墓を恐れません。そこにはよみがえられたキリストと、その証しをする御使いたちがいたからです。
闇の中に、苦しみの中に、墓の中に、死の中に、私たちが恐れるありとあらゆるものの中に、主のいのちが息づいています。そこに近づくとき、私たちの人生が変わっていくのです。イエスは十字架で死にました。しかしこの墓でよみがえられました。私たちの人生を死からいのちへと破るためによみがえられたのです。
13節をご覧ください。御使いはマリアに尋ねました。「女の方、なぜ泣いているのですか」。マリアは答えます。「だれかが私の主を取っていきました。どこに主を置いたのか、私に分かりません」。しかしやがて彼女は後ろに人の気配を感じ、振り向きました。誰かが立っていましたが、マリヤにはそれが誰かがわかりません。この誰かも、御使いと同じことを聞きました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」。彼女はその声を聞いてもまだわからない。しかしその人が最後に「マリア」と呼びかけたとき、彼女の目は開かれました。かつてイエス・キリストは弟子たちにこう語りました。「私はよい羊飼いです。羊飼いは自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです」。
イエス様は、私たち一人ひとりを知っておられ、名前を呼んで、人生を導いてくださいます。私たちの流す涙の意味を知っておられます。そしてどんな悲しみもいやし、嘆きを喜びへと変えてくださるお方です。イエスはよみがえられました。私たちはキリストの亡骸を探す必要はありません。むしろこの方が私たちの心の中に、今も生きて働いてくださる方であることを信じましょう。どんな悲しみや痛みも、イエス様はご存じです。そしてその悲しみや痛みを喜びと感謝に変えてくださるお方です。このイースターの朝、イエス・キリストを心にお迎えしていただきたいと心から願います。
2023.4.2「キリストを選ぶ幸い」(マタイ27:15-26)
聖書箇所 マタイ27章15〜26節
15ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。17それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」18ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。19ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
20しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。21総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」22ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」23ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」24ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」25すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」26そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。2017 新日本聖書刊行会
今日から私たちは、第一、第二礼拝ともに、このときわ会堂で礼拝を守っていきます。「新しい会堂」というには抵抗がある、古い建物です。古い建物でも古民家というレベルにまで突き抜ければ価値が出るそうですが、残念ながらそこまでのものではないそうです。向こうのかやま会堂のほうも、もともとは保育園だったこともあって、教会だと気づいてもらえないことがありましたが、こちらは屋根に十字架がありませんので、それ以上です。しかしイエス様は言われました。鳥には巣があり、狐には穴があり、しかし人の子には枕するところもない。眠る場所さえも与えられなかったイエス様に比べたら、いま私たちがここでこうして礼拝をささげることができるのは何という幸いでしょうか。ここには24時間、365日、誰にも気兼ねせずに20台近くが駐められる場所があります。建物は一時的でも、この土地は神が私たちに与えてくださった相続地です。牧師は常駐していなくても、信徒がお互いに知恵をしぼり協力することで、いつでも人々を迎え入れることができる場所です。ただし地震には弱いですので、何かありましたらすぐに外へ飛び出してください。
さて、このときわ会堂ではこちら側にプロジェクターとスクリーンが準備できませんので、いつもはスクリーンに映し出していた「使徒信条」も、みなさんの記憶力によって暗唱していただくかたちになります。きついという話になれば、いずれプリントを用意しますが、もともと使徒信条は読み上げるものではなく、おぼえて告白するものでありました。初代教会の時代から今日に至るまで約二千年間、数え切れないクリスチャンたちが毎週礼拝でこの使徒信条を告白し続けてきました。そしてそのたびごとに、一人の男の名前を繰り返し続けてきたのです。おわかりですね、ポンテオ・ピラトです。私たちはさきほどもこう告白しました。「主は、・・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」。イエス・キリストに苦しみを与えた、という意味では、イエスに濡れ衣を着せて罪人に仕立て上げた大祭司カヤパや、イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダのほうが適任のように思えます。今日の箇所を見る限り、ピラトは決して極悪人には見えません。むしろ見方によっては、イエスの無実を知ったピラトが、その処刑をなんとか防ごうとしているようにも見えます。なぜ大祭司カヤパでも、イスカリオテ・ユダでもなく、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、と言われているのか。それは、このピラトこそ、イエスを十字架につけた私たちすべての罪人を代表しているからです。彼の弱さは、私たちひとり一人が共に抱えている弱さでもあるからです。
ピラトを描くにあたり、マタイだけが彼の妻の夢について言及しています。ピラトの妻は、ちょうど裁判のときに人を遣わして、「あの正しい人と関わらないでください」と伝えています。しかしピラトも、ピラトの妻も、そこに描かれているのは、真理の正しさを知りながら、そこに近づくことを恐れるという霊的弱さがえぐり出されています。「あの人には関わり合わないで下さい」「この人の血について、私には責任がない」。それは一見すると、イエス・キリストを正しい方であると言っているようです。しかし私たちが罪赦されて救われるためには、イエスは正しい方であるというだけでは不十分です。救われるためには、二つの態度のどちらかを選ばなければならない。キリストを救い主として信じるか。それとも信じないか。イエス・キリストの前に中立の立場はあり得ない。信じるか、信じないか。十字架の前に立った時、私たちは一人として例外なく、そのどちらかを選ばなければならないのです。
私の恩師は、二つの道があれば、より困難な道が100%正しい道だと言い切り、私もそのように人に教えることもありますが、いうは簡単、しかし行うのは困難です。ピラトはまさに、選択を避ける人間の代表格のような人物でした。だからこそ、使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という一文を入れているのでしょう。傍目には正しく、教養もあり、社会的地位もあり、しかしその内側では、自分の手に入れてきたものを失わないために、無難な道ばかり進もうとする、それは私たち自身にも流れているものです。キリストと関わらない方が、世の中、楽に生きていけるでしょう。神の命令を貫くよりは、人にあわせて生きていった方が簡単です。しかし永遠のいのちは、広い門から続く、楽な大通りには落ちていない。狭い門から始まり、様々な苦しみや痛みで満ちている小道に隠れているのです。私たちはどちらを選ぶべきでしょうか。ピラトのように一見中立に見えるが、キリストとは距離を置こうとする生き方か、それとも頑固者とも不器用とも言われようとも、人よりもイエス・キリストを第一としていっしょに歩んでいく茨の道か。どちらを行くのかは、ひとり一人の決断にかかっているのです。
イエス・キリストの十字架は、様々な人々によって取り囲まれていました。キリストが身代わりとなって牢から解放された強盗バラバ。あらゆる策略を用いてキリストを死刑にしようとする祭司長や長老たち。数日前まではホサナと叫んでいたのに、今や十字架につけろと連呼する群衆。そして彼らを恐れるあまり、血の責任ばかりか、手につかみかけていた救いの機会までも水に流してしまったピラト。あなたはどのグループにいるのでしょうか。私はバラバや祭司長のような悪人ではない、と思うかもしれない。あの群衆たちのようにいいかげんでもない、と言うかもしれない。しかしかかわりたくない、責任を持ちたくないと信仰の決断を先延ばしにしたピラト。神を恐れずに群衆を恐れたピラト。そのような生き方には覚えがないでしょうか。キリストが罪でない方であることを知りながらも、己の罪は認めないかたくなな心をもってはいないでしょうか。しかし神に感謝すべきは、ピラトのような人間が使徒信条に二千年間刻まれてきたという事実です。たとえあなたがピラトのような弱さを持っていたとしても、イエス・キリストを確かに救い主と信じ、告白するならば、永遠のいのちが与えられるのです。ピラトのような生き方を選んでいたとしても、今神の前に己の生き方を悔い改め、キリストを受け入れるならば、すべての罪が赦され、さばきを免れるのです。キリストはピラトのためにも、そしてピラトのような私たちのためにも、そのいのちを捨てられたからです。
今日は教会暦で受難週にあたります。二千年前のこの週、イエスは極悪人として十字架刑に定められました。ピラトが認めたように、彼は確かに罪のない方でした。しかしイエスは沈黙したまま、十字架を背負いながら、ゴルゴタの丘へ向かって行かれました。私のために。あなたのために。あなたの隣にいる人のために。私たちの知らない、罪の中をさまよっている世の人々のために。受難週は、イエス・キリストが二千年前に死の苦しみを受けた週です。しかし私たちにとっては、彼の死によって私たちがいのちを得た、恵みの週でもあります。私たちの罪のみにくさに戦慄し、涙しながらも、そのためにキリストが死んで下さった喜びを隠すことなく、この週も歩んでいきましょう。