聖書箇所 ルツ2章1〜16節
1さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。2モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。3ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。4ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「【主】があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「【主】があなたを祝福されますように」と答えた。5ボアズは、刈る人たちの世話をしている若い者に言った。「あれはだれの娘か。」6刈る人たちの世話をしている若い者は答えた。「あれは、ナオミと一緒にモアブの野から戻って来たモアブの娘です。7彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」8ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。9刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」10彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」11ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。12【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」13彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」14食事の時、ボアズはルツに言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る人たちのそばに座ったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。15彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若い者たちに命じた。「彼女には束の間でも落ち穂を拾い集めさせなさい。彼女にみじめな思いをさせてはならない。16それだけでなく、彼女のために束からわざと穂を抜き落として、拾い集めさせなさい。彼女を叱ってはいけない。」2017 新日本聖書刊行会
「孟母三遷」という言葉があります。孟母とは、古代中国の偉人、孟子の母親のこと、三遷とは、彼女が息子の教育のために三回転居したことを表します。孟子が子供の頃、最初に住んでいた家は墓場の隣でした。すると孟子は葬式ごっこばかりするようになりました。これではいけないと母は、市場のそばに引っ越しますが、今度は商売人の真似ばかりするようになりました。ここもよくないと母は考え、三度目に学校のそばに引っ越しました。すると孟子は教師の礼儀作法を真似るようになり、母はそこに住居を定めたという話です。簡単にまとめれば、子供の教育には環境を選ぶことが大事ということでしょうか。とはいえ、環境が悪くても、りっぱな大人になる人もたくさんいますので、絶対というわけではありません。
家族のために何度も引っ越した母親と違い、ナオミがベツレヘムに戻ってきたのはルツのためではなく自分のためでした。どうせ死ぬのなら異国モアブではなく、故郷で死にたいというものだったでしょう。とはいえ、ベツレヘムの所有地はとっくに別人の手に渡り、それを買い戻すためのお金もありません。住む家ですら、おそらく雨露をしのげるだけのあばらやであったことでしょう。財産もない、頼りになる人もいない、あるものといえば自分についてきたモアブ人のルツだけ。しかし彼女の知らないところで、神はすでにあらゆるものをナオミに用意してくださっていたのです。1節をご覧ください。「さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。」ナオミとボアズの関係は、それぞれの噂は聞いているが、頼ったり助けたりには至らない程度のものでした。しかし神は、このボアズを、ナオミを助ける存在として準備してくださっていたのです。そして両者を結びつける絆として、神が備えていたのが、このモアブ人、ルツであったのです。
ナオミにとって、ルツは純粋で真面目な嫁でしたが、モアブ人という彼女の出自は、ルツの良い面をすべて台無しにしてしまうほどの欠点でした。モアブは、ユダヤ人にとっては祖先アブラハムの甥であるロトの子孫にあたる、いわば親戚にあたる民族ですが、モアブは、ロトの娘たちが父に酒を飲ませて意識を失わせた中で、父と娘が交わって子供を残すという、おぞましい事件の中で生み出された民族です。ルツがどんなに勤勉で優しい女性でも、モアブ人に対する偏見は容易に消えるものではありません。ましてや、ベツレヘムの相続地を一度捨ててモアブへ逃げていったナオミに対しては、故郷の人々も厳しい目を向けていたことでしょう。しかしたとえ人の目はどうであったとしても、神は決してナオミを見捨てることはありませんでした。私たちにナオミやルツを当てはめてみると、たとえ自分や家族に対して、非力で何もできない、と失望することがあっても、神はあらゆるものを用意してくださっているのです。
ルツは、ナオミのために行動を始めました。モアブ人であり、貧しいやもめである彼女にとって、何も頼りにできるものはありません。しかし彼女は、ナオミのために落ち穂拾いへと向かっていきました。彼女は、自分を助けてくれる人のあてがあったわけではありません。しかしルツは、ナオミとの数年間の共同生活を通して、人脈ではなく信仰をもって立ち上がることを学んでいました。当のナオミが、度重なる家族の死という悲劇の中で、信仰を失いかけてしまっているとき、ルツが逆にナオミを支える者として用いられていくのです。それはすべてを備えてくださる、神のなせるわざです。聖書は、3節で「はからずも」、4節で「ちょうどその時」、という言葉を通して、ルツとボアズの出会いが人の考えを越えた、神のご計画であったことを示しています。
そして私たちキリスト者にとって、ボアズはイエス様を指し示し、ルツの姿は私たち自身の姿です。ルツはモアブ人という、神から最も遠い者でした。彼女には何も要求する権利はなく、ただ人々が取り落としていった落ち穂を拾うことしかできませんでした。しかしボアズがルツに目をとめて、そしてあらゆる配慮と優しい言葉を尽くして、彼女を守ろうとしたこと、これはまさに私たちの救いのひな型とも言うべきものです。私たちは何をしたから救われたのでしょうか。何か誇るべきものを持っていたから救われることができたのでしょうか。まったく何もありません。ただ恵みです。その恵みの中で、私たちはルツのように愛するナオミのために生きることができ、また自分自身も祝福を受けるのです。
ルツは、ただ神の恵みの中で、ボアズの所有する畑へと導かれました。ルツはボアズを通して語られた優しい呼びかけを聞き、ボアズが取り分けてくれた炒り麦を食べながら、ボアズの細やかな気配りに圧倒されました。そして自分がモアブの女性であり、貧しいやもめであり、夫と死別した悲しみなどが、ボアズの優しさの中で溶けてゆく思いをしたことでしょう。もし私たちが、イエス・キリストによって救われた恵みをいつもおぼえていたいと願うならば、イエスのまなざしから自分も目をそらさないことです。ある人はイエスを見るよりも、自分自身を鏡で見つめることに、あまりにも多くの時間を費やしています。イエスの完全さに身をゆだねることよりも、己の不完全さばかりを見つめて悩んでいます。主の完全さ、豊かさを味わうことよりも、自分の預金残高を見つめています。自分の必要を満たすために四方八方動き回りますが、あらゆる必要を満たしてくださる神を礼拝することをなおざりにしています。
ボアズは12節でルツに優しくこう語りかけています。「【主】があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」私たちもまた、神の御翼のかげに身を横たえるひな鳥のように、静かに、しかしイエス・キリストとそのみことばに留まり続ける信仰を持ち続けたいと願います。自分ばかりを見るものはため息をつき、他人ばかりを見るものは押しつぶされます。しかしキリストだけを見るものは心に喜びがあります。どんな生活の中にあっても、決して取り去られることのない永遠のいのちが、私たちには与えられています。心から感謝をささげながら、これからの一週間を歩んでいきましょう。
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聖書箇所 ルツ1章6〜18節
6そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、【主】がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。7そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。8そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、【主】があなたがたに恵みを賜り、9あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように【主】がしてくださいますように」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。10ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」11しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか。12帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、13それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。【主】の御手が私に下ったのですから。」14彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。
15ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」16ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。17あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、【主】が幾重にも私を罰してくださるように。」18ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。2017 新日本聖書刊行会
今日は「ルツ記」からみことばを語らせていただきたいと思います。むかし、ユダヤにききんが起こり、一組の夫婦が異国モアブへと逃げ出します。彼らはモアブの地で二人の男の子をもうけ、それぞれがモアブ人の娘と結婚します。しかしそれから数年間に家族が次々と亡くなり、残ったのはナオミという女性と、その二人の嫁だけになりました。二人の嫁のうち、兄嫁であるルツは、どれだけナオミが説得しても離れようとせず、ナオミの故郷であるユダヤのベツレヘムまでついてきました。そしてそこでルツは、ボアズという男性と再婚し、子供をもうけ、その子孫からあのダビデが生まれてくる、という物語です。
このルツ記は、少し皮肉めいた言い方をすれば、「悪い奴らが得をした」物語、と言えます。いくらききんが起こったからといって、神が与えてくれた相続地から外国へ逃げる、というナオミ夫妻の生き方は、当時のユダヤ人からすれば決して許されない行為でした。そしてモアブという国は、ユダヤ人にとっては誰も彼も偶像に汚れた民とみられており、実際に旧約聖書の中で「モアブ人の娘」ということばが出てくるとき、それはこのルツ記以外はほぼ100%、イスラエルの信仰をまどわし、混乱させる者たちとして描かれています。ところが相続地を見捨てたナオミがおめおめと帰ってきた後に、モアブ人ルツによって神に祝福されて、なんとダビデ王家の先祖となる。これは、じつはユダヤ人たちにとっては受け入れがたい物語であるわけです。相続地をないがしろにし、異邦人と結婚するという二つの罪を犯した者たちが、その罪を何も問われないばかりか、むしろ幸せになる。しかもその子孫が、なんとイスラエルの誇りである、かのダビデ王であるという。そう考えてみるとこのルツ記が旧約聖書の一つとして組み込まれ、数千年のあいだ、クリスチャンだけでなくユダヤ人にとっても聖典として開かれてきた、このこと自体が、奇跡に思われるのです。
先ほど「悪い奴らが得をした」という、あえて皮肉めいた表現をしましたが、実際にはこう言い替えるべきでしょう。「悪いことをしながらそれが悪だと気づいていなかった者が、神のあわれみの中でいのちを取り戻していく物語」である、と。ナオミと、その夫であったエリメレクは、自分たちの命を救うために、相続地を捨てて、モアブの地へ移りました。しかし神は、あの放蕩息子の父親のような方そのものです。自分の手元を離れて、逃げ出してしまったナオミが、夫と二人の息子を失ったことを通して、もう一度、ベツレヘムへと戻ってくることを望んでおられました。そのために、神は、神を知らないと考えられていたモアブ人の娘ルツを用いて、しかもそこにユダヤ人でさえ遠く及ばないほどの犠牲的な信仰を与えてくださって、ナオミを救い、ルツを救い、やがてそこからダビデを起こし、イスラエルを救っていくという壮大な救いの物語がここに語られています。そしてこのダビデのはるか子孫から、イエス・キリストが生まれました。ですから壮大な救いの物語は、まさに私たち一人ひとりにも及んでいます。この書を読む者は、最後にはパウロのようにこう告白せずにはいられません。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」(ロマ11:33)。
神は、ナオミを愛しておられました。ナオミが失った夫エリメレクのことも、ナオミの二人の息子たちのことも愛しておられました。しかし神は人に苦しみを与えるときも、涙を流しながら、御手を動かしておられます。苦しみを経験しなければ、変わろうとしない、人の心の頑なさに涙しながら。そして苦しみを経験しても、まだ気づこうとしない、人の愚かさにも涙しながら。ナオミは15節で、ルツにこう諭しています。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」この言葉はたとえてみると、クリスチャンではないお嫁さんたちが、「今度、教会の礼拝に連れて行ってください」とお願いしているのに、「いや、行かない方があなたがたにとって幸せですよ」と言っているようなものです。モアブ人は、子供の命をいけにえにして、願いを叶えてもらうという、恐ろしい宗教を信じていました。モアブ人であったルツとオルパは、その神に決別して、ナオミと共にベツレヘムに行きたいと願いましたが、ナオミはそれを拒みました。もう私にはあなたがたに夫として与えられる息子はいないのだから、と言っていますが、ここには、人生に疲れ果てて、もうやけっぱちになってしまっている、一人のクリスチャンの姿にたとえることができるでしょう。しかしそんなナオミの心をゆっくりと、じっくりといやしていくために、神が用意してくださっていた存在、それがルツだったのです。
ルツの告白は、聖書に書かれている信仰告白の中でも、最も美しいものです。16節をご覧ください。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」人生のすべてに敗れ去った、あとはせめて故郷で死にたいというクリスチャン、ナオミに対して、神はまったく予想外の助け手を用意してくださっていました。ルツの心を、ルツの唇を、ルツの生き方を、神はひたすらご自分のご計画の中で造り変えてくださり、ナオミの人生をもう一度引き起こしてくださいました。私たちは、神が手を差しのばしてくださる限り、人生に私たちの方から失望する必要はないということを忘れないでいきたいと思います。
私たちが神に失望することはあっても、神が私たちに失望することはありません。それは、私たちは、神のひとり子イエス・キリストがその命を差し出してくださったほどに、神にとってはかけがえのない者だからです。どんなに受け入れがたいことが人生に起こったとしても、それは私たちを立ち上がらせるための目覚ましのようなものです。時折、ここまでしてもらわなくてもわかるよと言いたいほどに、とんでもないことが起こることもありますが、苦しまなかったらいつまでも変わろうとしない私たちであるがゆえに、神はナオミにされたように、私たちにもされるのでしょう。それでも、この神の愛とあわれみ、そして恵みを期待して、歩んでいきたいと思います。
2023.5.7「イエスから目を離さずに」(ヨハネ21:15-25)
聖書箇所 ヨハネ21章15〜25節
15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」17イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」19イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
20ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。21ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。22イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。24これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。
25イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。2017 新日本聖書刊行会
「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛していますか」。イエス様は、ペテロに同じ質問を三回繰り返しました。それは彼を責めるためではなく、彼の傷をいやすためです。三回繰り返された裏切りは、三回繰り返された「あなたを愛します」という告白によって、上書きされました。私たちの信仰告白は、人間の自己満足ではなく、神が与えてくださる、力あるものです。ペテロの人間的な過ちは、「われ主を愛す」という信仰告白によって、完全に過去のものとされました。神が書き換えたものは、サタンでさえ、それをほじくり返して私たちの心を責めるということはできません。ペテロは、三度の告白をもって、「わたしの羊を飼いなさい」という、はじめの命令にもう一度生きる者となりました。
しかし次の瞬間、イエス様の唇からは不吉な言葉が飛び出しました。18節をご覧ください。「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」。ヨハネはこの言葉を次のように説き明かしています。「イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである」と。
クリスチャンの間に残る伝説では、晩年のペテロはローマ帝国に捕らえられて、逆さ十字架につけられて殺されたそうです。そのような自分の死を予告されたとき、ペテロは何を思ったでしょうか。聖書はそれを記していません。ただこう書き残されているだけです。「こう話してから、ペテロに言われた。『わたしに従いなさい』」と。
「わたしに従うこと」、それはわたしの十字架を背負って生きる、ということに他なりません。それは、たとえイエス・キリストのために傷つけられ、殺されることがあったとしても、それでも十字架を背負い続けるということです。それは牧師にだけ課せられたものでしょうか。だとしたら、十字架は牧師だけが背負うものになります。しかしイエス様は、別のところでこう語られていました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。「だれでも」とあるからには、それは特定の職業にではなく、すべての人に対して向けられている言葉であるわけです。つまり、あらゆるクリスチャンにあてはまる言葉なのです。
たとえ自分の最後がどんなに悲惨な死に方であったとしても、地上の死は私たちとイエス様を引き離すことはできません。そしてペテロの死が、たとえ残酷な拷問を受けながら死んでいくものであったとしても、聖書は言うのです。「どのような死に方で神の栄光を表すかを示すために」と。
クリスチャンの死は、それが人の目には知られないようなものであったとしても、「神の栄光を表」します。世の人々は死を恐れ、ひとりで死にゆくことを嫌い、葬式を飾り立てて死を隠します。しかしクリスチャンは、死を通して神の栄光を表すことができる。死さえも、私が神よりいただいた永遠のいのちに何の手出しもできないことを人々に向かって明らかにすることができる。これはクリスチャンの特権です。イエス様はペテロに力強く命じました。「わたしに従いなさい」。それはペテロだけへの命令ではありません。主は、他ならぬあなたに向かって言われています。「わたしに従いなさい」。たとえあなたの人生の終わりがどのようなものであったとしても、あなたがなすべきことはただひとつ、「わたしに従うこと」だけだ、と。
でも、私たちは弱い者です。従いたいと願いながら、ついイエス様から目を離してしまう弱さを持っています。ペテロも同じでした。「わたしに従いなさい」という、イエス様のまっすぐな瞳から、彼は視線をそらせてしまいます。彼の目に飛び込んできたのは、イエスが愛された弟子、すなわちヨハネの姿でした。ペテロは主に尋ねました。「主よ。この人はどうですか」。私がそのような死に方をするのであれば、ヨハネはどんな死に方をするのですか、と。
伝道者の書11章4節にはこういう言葉があります。「風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない」。風向きや空模様を気にしすぎるならば、それは、神が与えようとしておられる祝福を失っていきます。ある時は風を見る。ある時は他人を見る。またある時は自分の欠点にばかり目をとめ、周りの環境を見て、ため息をつく。私自身もまた、そうです。他の教会と比較し、他の夫婦と比較し、自分を責め、家族を責めてしまうことがあります。しかしイエス様は、みことばを通して私たちに言われるのです。「それがあなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と。もし他人の信仰を見て自分の信仰を卑下しているなら、それはやめましょう。
他人の生活を見てうらやみ、他人の人生を見て自分をおとしめることなど、何の意味もありません。イエス様が求めていることはただ一つ、「わたし、イエス・キリストから目を離さないでいなさい」ということ。十字架を背負って、目の前を歩いているイエス様の背中を見つめながら、決して目を離すことなく、自分の十字架を背負い続けていくならば、私たちは約束されている栄光の冠を受け取ります。
神は、ご自分の愛する者たちには、それぞれに、違った人生を用意しておられます。ペテロはヨハネにはなれないし、ヨハネもペテロにはなれません。同じように、私はペテロになる必要はないし、他の誰かの複製品のようなクリスチャンになる必要はありません。尊敬し、ああなりたいと思いはしても、実際には同じものにはなれないし、なる必要もない。イエス様がペテロに語った、「年を取ると、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行く」という言葉は、ペテロが最後には拷問を受けて死んでいった姿を表しています。一方ヨハネは、最後にはパトモス島という島に流されて、そこで生涯を終えました。しかし彼は、そこで記したヨハネの黙示録の中で、「私は神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた」と書いています。彼にとって、権力者に捕らえられ、島流しにあったことも、それは神の恵みと証しのためでした。ペテロとヨハネは、与えられた人生は違いましたが、二人ともイエスから目を離さず、イエスに従ってこの地上を去っていったのです。
そして神は、私たち今日に生きるキリスト者にも同じことを求めておられます。他の人の信仰をまねたりうらやんだりする必要はない。私たちがまねるべきお方はただイエス・キリストのみ。見つめ続けるお方はただイエス・キリストのみ。イエス様は今日も、私たちに呼びかけます。「あなたは、わたしに従いなさい」と。最後に、パウロの言葉を紹介して、説教を終わります。「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。私たちは誰のために生きて、誰のために死ぬのでしょうか。あなたの人生をただキリストに置くときに、あなたも、あなたの家族も救われます。キリストから目をそらさずに歩んでいきましょう。