聖書箇所 ヨハネ1章43〜51節
43その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。44彼はベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。45ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」46ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」47イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」48ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」49ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」51そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」2017 新日本聖書刊行会
おはようございます。先週の礼拝メッセージでは、創世記からヤコブのはしごについて語りました。この旧約聖書の出来事である、ヤコブのはしごが、もう一度イエス様の唇を通して語られているのが、今日の箇所です。ただ、わかりにくいことこのうえない箇所であることは間違いないでしょう。さっきまで、ナザレみたいな田舎から救い主が出るわけないと言っていたナタナエルが、「あなたがイチジクの木の下にいるのを見た」とイエス様のことばを聞いて、手のひらを返して「先生、あなたは神の子、イスラエルの王です」と豹変する意味がわかりません。あえて強引に解釈すると、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがイチジクの木の下にいるのを見たという、いわゆる千里眼にナタナエルが驚いて、態度が変わったという読み方もできますが、それくらいで人間変わるかというと、私は変わらないと思います。
では、ナタナエルに起きたこと、イエス様が語ったことばの意味、そして最後の、ヤコブのはしごがもう一度語られること、今日はそれらを一緒に味わいながら、私たちのために命を捨てて下さったイエス様と共に、私たちも生きるということを考えていきましょう。
最初に結論から言います。ナタナエルがイエス様との会話で変えられていったわけは、熟練した心臓外科医が最低限のメスさばきで、的確に病巣を取り除いていくように、イエス様の発する短い言葉一つ一つが、ナタナエルの心の中にひしめいていた痛みやもどかしさを的確にえぐり出していったからです。イエス様がナタナエルに呼びかけた言葉を並べてみましょう。
「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
「ピリポがあなたを呼ぶ前にあなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」
「いちじく」はイスラエル人にとって、ただの果物ではありません。それはぶどうの木と並んで、イスラエルを象徴する木です。ぶどうは神を喜ばせるぶどう酒となり、いちじくは人々の空腹を満たす菓子にもなれば、薬にもなりました。もしイスラエルが神のことばに従い続けるならば、あなたがたは多くの実を結ぶであろう、と神は何千年もイスラエルに語り続けていました。
しかしナタナエルにとって、彼の母国であるイスラエルは実を結ばないぶどう、いちじくにしか見えません。律法は形骸化し、人々は一千年も昔の、ダビデ・ソロモン時代の栄光を懐かしむ。ローマ帝国を敵視しながら、実際には彼らの保護の中でパンや見世物を与えられて一日を過ごしている。ナタナエルが「ナザレから何の良い物が出るだろうか」と言っているのは、聖書が救い主はベツレヘムで生まれると約束していることを彼が知っていたからでしょう。知っていただけではなく、もし本当に救い主が現れたのであれば、その方のために命を捨てる覚悟を持っていた。イスラエル人として生まれたからには、この人生を神の栄光のために使い果たしてもよいと思っていた。しかしいったいそのためには何をしたらよいのか、それを彼は長い間探しながら、しかし見つからず、もがき続けていた。それがこのナタナエルでした。
しかしイエスは、初めて出会った彼にこう言いました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」。イスラエルが、まことに神のぶどうの木、神のいちじくの木として実を結ぶためであれば、自分の人生を与えてもいいと願いながらも、答えを見失っていたナタナエルを、このイエスはまるで昔から知っているかのように、いや、自分の心を見透かしているかのように、言い当てて見せた。この出会いの中で、彼の人生そのものが変えられていくのです。
今日のメッセージのタイトルは、「士は己を知る者のために死す」という、いささか古くさい響きの言葉をつけました。これは、古代中国の逸話から生まれた言葉です。秦の始皇帝が中国を統一する前、春秋戦国時代と言われる、約二千五百年前の話ですが、ある国の貴族が、敵であるやはりある貴族に攻められて滅ぼされてしまいました。しかし滅ぼされた貴族の家来、予譲という人は、山を逃げ回りながら、自分のことを何よりも評価してくれていた主人のために敵討ちをすることを決意します。そのとき彼が天に対して叫んだ言葉が、「士は己を知る者のために死す」、すなわち男子たる者は、自分の真価をよくわかってくれる人のためには命をなげうっても尽くすものだという意味です。その後予譲は何度も敵討ちを計画しますが、いずれも失敗し、最後には捕まって処刑されることになりました。最後に彼はたっての願いで、自分の敵の衣服をもらい受けて、それをずたずたに切り刻んで、自殺を遂げるのです。
ナタナエルがイエスとわずかな言葉を交わしただけで変わったのは、イエスこそ、彼のことを誰よりも知っておられ、そして自分が探していた方なのだということを確信したからでしょう。おそらく「いちじくの木」というのは実際にナタナエルがそこにいたというよりも、母国イスラエルのために人生を用いたいという彼の心を言い当てた言葉だったのではないでしょうか。私たちのすべての悩み、痛みも、ナタナエルの心と同様に、イエス様はすべてを知っておられます。たとえ私たちの抱えるものが、どんなに親しい人にも打ち明けることができないほどに重いものであっても、神は知っておられます。知っておられるだけではなく、ご自分がその重い痛みを代わりに背負うと約束してくださいました。それこそがイエスの十字架であり、私たちもまた、己を知るお方であるこのイエスと共に、十字架を背負いながら歩んでいくのです。
イエス様は、ナタナエルに最後にこう語られました。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」
人の子とは、イエス様のことです。これまでのナタナエルは、国としてのイスラエルのために生きることが人生の目標でした。しかしいま、イエスは、ご自分こそが、神が愛したイスラエルそのものであり、止まっていたように見える神のご計画が、ご自分を通して再び動いていくことを約束されました。このキリストこそ、私たちに祝福をもたらしてくださる方です。命を奪い合う戦いが終わることのないこの世界で、私たちは与えられたいのちを、人生を、生活を、何に費やすべきなのか。その答えを持っている方がイエス様です。ヤコブに約束された祝福は、今、イエス様を通して、私たちの上に実現しているのです。
ナタナエルはこの出会い以降、イエス様の十二弟子の一人として生きていくことになりました。ナタナエルは別名バルトロマイと言いますが、いずれにしてもどっちの名前も、ほとんど聖書には出てきません。どう働き、どんな死を迎えたかわからない、影の薄い弟子です。でも、彼がイエス様のことを愛して、人生を走り抜けていったことは間違いないでしょう。私たちも、やがてこの人生を終えるとき、人々の記憶や記録には残らないかもしれません。先ほどの予譲のように、仇討ちが良いか悪いかは別として、報われない最期を迎えるかもしれません。しかしこの地上ではなく、天で私たちは本当の評価をいただきます。そして、神様は、私たちが何をしたか、よりも、このイエスから目を離さずに生きてきたかということを問われます。私たちのすべてを知っておられる、このイエスの後ろにひたすらついていきましょう。一日、一週間、そしてすべての人生の日々を、このイエスを愛し続ける者たちとして歩んでいきましょう。
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2023.6.11「ここは神の家、天の門」(創28:10-22)
聖書箇所 創28章10〜22節
10ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。11彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。12すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。13そして、見よ、【主】がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
16ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」17彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」18翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。19そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
20ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、21無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、22石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」2017 新日本聖書刊行会
心を入れ替えてがんばるぞというときに、心機一転という言葉を使いますが、本当の転機というのは人間が作り出すものではなく、神が与えてくださるものです。転機、英語ではターニングポイントと言いますが、クリスチャンにとって、イエス様を信じたときだけが、人生のターニングポイントではありません。信仰生活を何十年も過ぎてからのある体験を通して、信仰が新たにされるということも少なくありません。私自身、イエス様を信じて洗礼を受けたのは19歳のときでしたが、それ以降も、何度か、人生のターニングポイントを経験しました。その一つでも欠けていたら、今の私はなかったでしょう。
「ヤコブのはしご」と言われる、今日の出来事は、ヤコブにとって、信仰の転機、ターニングポイントになりました。まず10節、11節をお読みします。「ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。」
ここだけ読むと、気ままな一人旅のように聞こえますが、もちろんそんなものではありません。このとき、ヤコブは、恐れと不安のただ中にありました。彼はこの直前、兄エサウに変装して、父イサクをだまし、本来は兄が受け取るはずであった祝福を、強引に奪い取りました。しかし祝福を得たのに、彼は不安のとりことなっていました。ヤコブを殺そうとする兄エサウから逃れるために、数百キロ離れたハランへと彼は一目散に走りました。
しかしどれだけ遠くまで逃げても、ヤコブの不安は決して消えません。なぜでしょうか。ヤコブ自身気づいていませんでした。彼が本当に恐れていたのはエサウではなく、自分自身だったのです。それまでの彼は、小賢しい次男坊ではありましたが、父や母にとってはむしろ従順な人間でした。しかしこのとき、ヤコブは母から指示されたこととはいえ、兄エサウになりすまして父イサクをだまし、父がエサウに与えた神の祝福を、強引に奪い取りました。
その時、彼の心の中に生まれたのは、自分自身に対する不安ではなかったでしょうか。祝福を得るために、どこまでも汚く、残酷になった自分自身を、彼は見つけました。しかしその罪を、神さまの前に素直に認めることはできません。もし自分に過ちがあることを認めたら、せっかくもぎ取った祝福を失うことになるかもしれません。ただ彼にできることは、できるだけ早く走りぬけ、できるだけ遠くへ走り去ることだけでした。しかしどこまで逃げても、ヤコブの影はいつもヤコブのすぐ後ろについてきます。どこまで逃げても、ヤコブは自分からは逃げられません。ヤコブに限らず、人は自分自身と向き合わない限り、どこまで逃げても決して平安はないのです。
しかしその晩、彼は不思議な夢を見ました。一つのはしごが天と地上をつないでいます。その上を神の使いが上ったり下ったりしており、そして天には神ご自身が立ち、彼に祝福を約束されました。それは、あの有名なバベルの塔と正反対の出来事でした。バベルの塔は、天にも届く塔を建てようとした人間たちを神がさばかれた物語です。ヤコブの今までの人生も、あらゆる計略を用いて神の祝福をもぎ取ろうとしていたという点で、バベルの塔と同じです。しかし神は、この天地を繋ぐ階段の幻を通して教えてくださったのです。人間が自らの力によって天を目指し、祝福をもぎ取る必要はないのだ、と。
ヤコブよ、よく見よ。天から地に向けて、わたしははしごを渡す。祝福はもぎとるものではない、与えられるものなのだ、と。ヤコブが自らの手を天に伸ばし、祝福を得ようとするよりもはるかに先に、神は彼のために祝福を用意しておられました。アブラハムの神、イサクの神、と、神はヤコブが生まれるよりはるか先から存在しておられる方であり、そして彼に用意していた祝福を次のように語られました。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。
ヤコブがやってきたことは、父や兄をだまし、家庭を分裂させるような行いでした。しかし神は、ただのひとことも、彼を責めるようなことは言われません。ただ祝福だけを語られます。それが私たちに教えていることはこうです。私たちがどんなに汚れたものであろうとも、神はこの世界が作られる前から私たちをキリストにあって選び、最後まで導いてくださっているのだ、ということなのです。
誤解を恐れずに言いますが、罪の悔い改めは、祝福を受け取る条件ではありません。条件ではなく、結果です。祝福を受け取った者は、罪を犯したまま平然と生きることはできなくなるのです。祝福は、恵みです。そして恵みとは、受け取る資格のない者に与えられるもののことを言います。もし私たちが、よく神に従っているから祝福されるとしたら、それは恵みではなく、報酬になってしまいます。罪から離れているから祝福しよう、となったら、これは恵みではなく報酬です。しかしヤコブの上に起きたことは、神の祝福とは、まさに恵み、本来それを受け取る資格があるとは思えない、汚れたヤコブの人生に神さまから一方的に与えられたものだということを教えています。
繰り返しますが、罪の悔い改めは、祝福を受ける条件ではありません。しかし祝福を受けた者は、罪の中にとどまることができません。それは、まことの神を知ったからです。まことの神を知った者は、もう知らなかった頃の自分に戻ることはできません。罪を平然と犯し続けていた自分であり続けることはできないのです。
目がさめたあと、ヤコブは言いました。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった」。そう、ヤコブは今まで知らなかったのです。神がこの場所にいることを知らなかった。そして自分の人生のすべてにおいて、主がいつもそばにおられたことを知らなかった。このとき、ヤコブは生まれて初めて、自分自身をまっすぐに見つめることができました。そして彼は、自分が枕にしていた石を立てて、この石は神の家となる、と宣言しました。それは、どんなに小さなものも、神のために用いられるとき、それは神の家となるということです。ヤコブ自身が、どんなに小さな者であっても、神のために生きるということをここで誓いました。そして私たちもそうなのです。
ここに私たちは、豊栄キリスト教会という神の家をささげています。新会堂はまだもう少し先ですが、半世紀以上、私たちは教会という神の家に集まってきました。一人一人の信者もまた神の家でした。そしてヤコブが御霊に導かれて語った言葉は、神の家とはすなわち天の門そのものであると教えています。教会の礼拝に出席する人々、礼拝以外の集会に導かれる人々、そして私たち一人一人の、日曜日以外の家庭や社会で関わりを持つ人々、すべての人々が私たちを通して、天からの祝福を受け取ることができる門の前に立っています。その門をくぐるならば、そこには必ず救いという恵みが待ち受けています。それを私たちはすでに経験し、そしてその経験をさらに人々に伝えることで、救いは広がっていきます。私たちの人生すべてを用いて、祝福してくださっている神の御名をあがめましょう。
2023.6.4「祝福よ、もう一度」(ルツ2:17-23)
聖書箇所 ルツ2章17〜23節
17こうして、ルツは夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。集めたものを打つと、大麦一エパほどであった。18彼女はそれを背負って町に行き、集めたものを姑に見せた。また、先に十分に食べたうえで残しておいたものを取り出して、姑に渡した。19姑は彼女に言った。「今日、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」彼女は姑に、だれのところで働いてきたかを告げた。「今日、私はボアズという名の人のところで働きました。」20ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない【主】が、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」21モアブの女ルツは言った。「その方はまた、『私のところの刈り入れが全部終わるまで、うちの若い者たちのそばについていなさい』と言われました。」22ナオミは嫁のルツに言った。「娘よ、それは良かった。あの方のところの若い女たちと一緒に畑に出られるのですから。ほかの畑でいじめられなくてすみます。」23それで、ルツはボアズのところの若い女たちから離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れが終わるまで落ち穂を拾い集めた。こうして、彼女は姑と暮らした。2017 新日本聖書刊行会
6月に入りました。6月は「ジューンブライド」という言葉があるように、結婚式が多く行われる時期ですが、ある少年が、テレビで「ジューンブライド」という言葉を聞いて、父親に「ねえ、お父さん、どうしてみんな6月に結婚式を挙げたがるんだろうね」と聞いたそうです。すると父親は、何をわかりきったことをという顔で、こう答えました。「そりゃおまえ、田植えが一通り終わってようやく一息つけるからにきまってんねっか」。少年は、なるほど、さすがお父さんだと思ったそうですが、そもそもジューンブライドという習慣は外国から入って来たもので、日本にはありません。ではなぜ外国では6月に結婚式が行われてきたかというと、決まった説はないそうです。
私が小学生の頃、「ウエディングベル」という歌が流行りました。歌の内容は、教会での結婚式の招待客である、一人の女性の心を歌ったものでした。新郎は彼女の元恋人であり、祝福するどころか、心の中は新郎新婦への妬みと怒りで一杯、最後に彼女は心の中でこう叫びます。「くたばっちまえ、アーメン」。今思うと、あのアーメンが、私が生まれて初めて聞いた、アーメンと言う言葉であったように思います。
喜んでいる者とともに喜び、泣いている者とともに泣く、簡単なようで、じつはそれがたいへんに難しいことだと大人になるとわかるようになります。しかし決してあきらめたり、失望することはありません。私たちの心を知っておられる神は、私たちの心の狭さを責めるのではなく、むしろ私たちの心を変えてくださるお方だからです。19節をご覧ください。1エパ、つまり二人が一ヶ月のあいだ優に暮らしていけるほどの大麦を持ち帰ってきたルツに驚いたナオミは、こう問いかけます。「今日、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように」。
「祝福がありますように!」。じつはここには、ナオミの驚くべき変化が生まれていることに気づいてください。それを明らかにするために、しばし今までの物語を振り返ってみましょう。
ナオミはベツレヘムに失意の中で戻ってきました。私の名前をナオミ、喜びではなく、マラ、苦しみと呼んでください、と言うほどに、彼女は人生に絶望して帰って来ました。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのです、という周囲への言葉は、彼女が神をどのように見ていたかを物語っていました。そしてルツが落ち穂拾いに出かけたいと言ったときにも、ナオミはただ一言、「娘よ。行っておいで」と、それだけでした。外国人、しかも忌むべきモアブ人であるルツが、いったいどれだけのことができるか、そんなあきらめが感じられるような言葉です。しかし今、彼女は目の前の大麦の束を見ながら、「祝福がありますように」という言葉が自然と口をついて出てきました。そしてルツからボアズという名を聞いたとき、ナオミの心には、その名前のいわれの通り、喜びがさらに押し寄せてきました。ナオミは、今度はその人だけではなく、その人を通して恵みを注いでくださった、神を賛美します。20節をご覧ください。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない【主】が、その方を祝福されますように。」
それまでのナオミは、生きているが、死んだ者のようでした。そして家族三人を死へと追いやった全能者への賛美など、とても心に湧いてくることはありませんでした。しかし今、彼女は「ボアズ」という名を聞いたとき、神がすべてを導いてくださっていることを悟ったのです。ナオミの心の中には、今までの十年の歩みが、走馬燈のように思い出されてきたことでしょう。
十年前、イスラエルを大飢饉が襲ったとき、ナオミと夫エリメレクは故郷ベツレヘムを後にして、モアブへ移りました。しかしイスラエルにおいて、命よりも大切なもの、それは土地です。先祖伝来、神から与えられた相続地です。ベツレヘムを捨ててモアブへ移るということは、神が与えてくださった相続地を見捨てるということでした。それでも生きのびるためには仕方がない。彼ら夫婦はそう信じて、モアブに移り、そこで二人の子供を設けました。律法で禁じられていた、モアブ人の娘と息子たちを結婚させることにまで手を染めました。すべては、生き残るため。そして子孫を残していくため。しかし神は、ナオミから夫を奪い、二人の息子を奪い、そしてベツレヘムにあった相続地も人の手に渡った。いったいどこに、神に感謝する余地があるのか。神はどれだけ私から奪い、私を苦しめれば気が済むのか。それが、昨日までのナオミの心でした。
しかし神は、奇跡としか言えない出会いを通して、土地を買い戻すことのできる資格をもった親戚、ボアズを、このルツを通して出会わせてくださった。ナオミは思わず「どうか祝福があるように」と言わずにはいられませんでした。長い間失われていた、感謝という名のともしびが、再び彼女の心にともりました。祝福あれ!それこそ、彼女の人生の中に長い間、忘れられていた言葉でした。しかし今、彼女は祝福を叫びます。そして私たちが人を祝福できるのは、神への感謝が心に満ちるときです。それは今この時だけを感謝するのではなく、今までの人生すべてに対する感謝でした。昨日までは神が私の家族を奪ってしまったと、過去の日々を憎んでいたナオミは、いま、「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主よ」と歌います。そして彼女のの人生は、この日をきっかけに、神の目をさけて生きる生活から、むしろ神が何をしてくださるかを期待していく生活へと変えられていくのです。
私たちは、人生の一つ一つをかみしめてみると、必ずそこには神に感謝すべき、恵みの数々があることに気づきます。感謝を取り戻すとき、私たちはだれかに寄り添い、その人を祝福することができます。私たちが誰かに与える祝福は、この世で人々が欲するような金銭や安全を保証するものではありません。しかし貧困と危険の中でさえ、人は神に感謝することができるのだということを証明します。それを教会では「御国の前味」という言葉で表現し、聖餐式は、ただの伝統行事ではなく、その御国の前味を体験することなのです。毎回、聖餐式で歌っている、新聖歌46番、文語体なので、歌詞を深く点検することがなかったかもしれません。最後の4節ではこう歌っています。「面影うつししのぶ 今日だにかくもあるを 御国にて祝う日の その幸やいかにあらん」。口語体に直せば、「地上の教会で、これほどの恵みにあずかるとすれば、実際に天の御国では、いったいどれだけの恵みが待ち受けているのだろうか」ということです。その讃美歌作者の、むせび泣くような告白に対して、アーメンと共に告白したいものです。その恵みはやがて天で主にまみえたとき完全に現れますが、この地上の信仰生活の中で、私たちは断片的にその恵みを頂いている、それが御国の前味です。
イエス・キリストを信じるとき、この地上においては患難があり、迫害があります。しかし患難や迫害は私たちを滅ぼすものではありません。どんな患難や迫害の中にあっても、私たちは感謝と喜びを持ち、誰かを祝福することができる、それを証しさせるためのものです。ナオミの上に起きたこと、それは、チクチクした、桃の実の下には、とびっきりの甘い果汁がしたたっていることにたとえることができます。主イエス・キリストを私たちに与え、感謝と祝福へと私たちを変えてくださった、父なる神をほめたたえながら歩んでいきましょう。
シュガーの代表曲「ウエディング・ベル」。
バンド名の由来はメンバー全員が佐藤さんだからではなく「しおらしくない」という意味だそう。
2023.5.28「聖霊と共に、生き生きと」(使徒2:1-4)
聖書箇所 使徒2章1〜4節
1五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。2すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。3また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。4すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。2017 新日本聖書刊行会
今日は二千年前に聖霊が信者たちに下られた聖霊降臨日、ペンテコステと呼ばれています。その出来事について描かれている今日の聖書箇所は、まずこのように始まります。1、2節、「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った」。
「皆が同じ場所に集まっていた」とあり、「すると」天から突然、聖霊が下ってこられたとあります。ここを読むと、皆が同じ場所に集まって祈っていたからこそ聖霊が下ってこられたと解釈しやすいのですが、聖書の強調点は「すると」ではなくて、「突然」です。つまり、弟子たちが集まり、熱心に祈っていたから聖霊が下ってきた、ということではありません。熱心に集まって祈ること自体はすばらしいことですが、それは聖霊降臨の条件ではないのです。人間の知恵を越えた「突然」という神のみこころのなかで、聖霊は人々の間に下ってこられ、教会は誕生したのです。
私たちは、熱心さを信仰のバロメータとして考えやすいものです。熱心に集まること、熱心に祈ること、熱心に伝道すること、しかし時として、その熱心さは熱心でない人を排除します。熱心でないことは信仰が足りないからだと批判します。しかしここでは、みなが同じ場所に集まり、熱心に祈っていたから聖霊が下られたと聖書は語っていません。「突然」という言葉が表しているのは、人間の思いや情熱云々にかかわらず、神はご自分の計画を実行されたということです。人が思いもかけないときに、人が想像もしていなかった方法で、神の計画は始められます。神は二千年前のこの日に、教会を生み出すことを遥か永遠の昔から定めておられました。そしてこの日、人々はいつものように集まっていました。そしてそこに聖霊が一人ひとりの上に下ったのです。
聖霊降臨は、神の国が目に見える形で地上に実現した出来事です。そしてイエス様は、弟子たちにこう語っておられました。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません」(マルコ4:26,27)。
神は常に、良い意味で、私たちの裏をかかれるお方です。みこころにかなった願いは必ずかなえられると聖書の中にありますが、そういう経験をするときも、私たちが願っているように物事が動いていくのではなく、まるで反対方向に動いているように見えて、しかし蓋を開けてみたら、願いがすべて満たされていた、ということが起こります。この聖霊降臨もそうでした。弟子たちが考えていたような、ローマ帝国がクーデターによって倒れてイスラエルが独立するといった出来事は起こりませんでした。しかしこの聖霊降臨を通して、多くの人々が神に立ち返り、やがて救われた者たちは世界中に散らされ、ローマ帝国が内側からキリストの支配へと飲み込まれていくということへと発展していきます。
二千年前に起きた聖霊降臨の出来事は、人間の計画やわざを越えた、100%神が主導権を握って起こしてくださったものでした。そして私たちは、それぞれの時代の中で、神に用いられる器なのです。しかし誤解しないでいただきたいのは、救われた者たちは、すでに聖霊を受けており、すでに神に用いられる者となっているということです。熱心ではないクリスチャンが聖霊を受けて新しく生まれ変わるということは、聖書は教えていません。新しく生まれるのは信じたときにすでに起こっています。本人がそれを意識しているか否かにかかわらず、すでに聖霊を受けて、新しく生まれ変わっています。そして日々、新しくされ続けています。
私が牧師になって二十数年来、聖霊の力を求めるクリスチャンには数え切れないくらい出会ってきました。しかし聖霊の力ではなく、聖霊そのものを求めるクリスチャンは決して多くありません。この違いがわかるでしょうか。
昭和の話になってしまいますが、当時は世のサラリーマンの給料は振込ではなく、給料袋に入れられて現金で渡されていました。当時のドラマには、給料日に屋台で一杯ひっかけて、給料袋をなくしてしまったというような話がよく出てきました。それが聖霊と何の関係があるのかという話になりますが、給料日にお父さんが家に帰ってきたとき、そこで奥さんが何というかです。「おとうさん、お帰りなさい」。これが正しい奥様の姿です。しかし順番が逆になるとこうなります。「お帰りなさい。給料袋は?」。
聖霊の力を求めるが聖霊そのものを求めないクリスチャンは、帰ってきたお父さんよりも、お父さんが持っている給料袋の方を大事にしているようなものです。しかし私たちは聖霊という言葉を聞くと、与えてくれる力の方を求めがちです。でもイエス様は聖霊を何と呼んだか。慰め主と呼びました。助け主とも呼びました。救い主であるイエスが、聖霊を慰め主、助け主と呼ばれたのです。聖霊は人格を持ったお方です。それぞれの信者と共に笑い、共に喜び、共に苦しみ、共に泣いてくださる方、たとえ目には見えず、声は聞こえなくとも、その方は私たちの心の中で共に生きてくださっています。聖霊は、何があっても決してわたしはあなたを捨てないと約束してくださったお方です。私たちが罪を犯してしまったときにはその罪を気づかせてくださいます。誰でもやっていることだろうと自分を納得させようとするとき、悔い改めへと導いてくださいます。神への悔い改めで済ませて、相手への責任から逃げ出しそうになるとき、私たちを最後まで導いてくださり、和解へと至らせてくださいます。
パウロは、性的な罪を犯し続けていたようなコリント教会の人々にさえ、次のように書きました。
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です」(第一コリント3:16,17)。
たとえ、どんなクリスチャンであってもです。ペンテコステの恵み、それはたとえ私たちがどんな者であったとしても、神は私たちを聖霊の宮としてくださった。そして決して離れることはない。共に歩み、共に生き、そして神のみこころにかなう民として日々新しく生まれ変わらせてくださる、その保証が二千年の前から今に至るまで変わることなく続いているのです。
ペンテコステ、私たちは聖霊と共に生きる恵みの中で昨日も今日も明日も歩んでいきます。感謝を主にささげましょう。
これぞ昭和のお父さん像。給料日になると千鳥足で帰ってくるお父さんが手から吊り下げているものの中身はいったい何なのか、誰も知らない。(植田まさし先生の「らくてんパパ」より。Amazonにリンクしています)