45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
もう故人となられましたが、遠藤周作という作家がおられました。彼はカトリック信者でしたが、同じ作家仲間に、あまり知られていない名前ですが椎名麟三というクリスチャン作家がいました。今から二十年以上前、ある本の中で遠藤周作が椎名麟三についてこう語っているのを読んだことがあります。「自分はカトリックで、椎名はプロテスタントだったが、さすが椎名だと思わせられたことがあった。椎名が教会でバプテスマを受けたその日、あいつが電話でこう言ってきたんだ。「これでいつでも神をのろって死ぬことができる」と。その当時は、いったい椎名の言葉のどこらへんがさすがなのか、まったくわかりませんでした。「洗礼を受けたから、これでいつでも神をのろって死ぬことができる」。これは本当にクリスチャンの言葉なのか?この言葉の意味がわからないまま、しかし心のどこかにいつもこの言葉がひっかかりながら、私は信仰生活を歩んできました。
思い返すと、10代、20代の時の信仰というのは一途なものです。「神をのろって死ぬ」など、信仰の敗北にしか思えませんでした。しかしさすがに40歳になると、そろそろ人生はそんな杓子定規にはいかないということがわかってきます。その中で改めて椎名の言葉を味わってみたとき、うまく説明できないのですが、じつはこの言葉に共感できる何かを感じているのも事実です。「神をのろって死ねる」。そこにはタブーがないのです。 こんなことをクリスチャンは口にすべきではないという模範的な信仰観に対して、この言葉は真っ向から挑んできます。本当にお前は自由なのか、と。椎名麟三は、世間的な評価では遠藤周作に遠く及びませんが、当の遠藤が自分よりも認めていた作家でありました。これは彼が本当に自由にされたのだということを言おうとしている一流の文学表現なのだと思います。すごすぎて凡人には伝わらないわけですが。彼は「神をのろって死ねる」という言葉でこういうことを言おうとしたのではないか。十字架ですべてをイエス・キリストが引き受けてくださった。「神をのろう」という到底許されがたいものも含めて、私はありとあらゆるものから自由にされたのだ、と。
しかし考えてみると、イエスご自身でさえ、神をのろって死んでいったと言えるのかもしれないのです。えっと驚かれるかもしれません。ですが今日朗読した聖書にはこのような記録があります。46節、
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。これはイエスが私たちの身代わりとして父なる神からのろわれたものとなった告白の言葉です。常にひとつであった父なる神とひとり子イエス。その交わりが私たちの罪のゆえに十字架で引き裂かれた痛みの告白です。しかしなぜそれをあえて大声で叫ばれたのでしょうか。イエスは、ご自分を慰み者にする兵士たちや祭司長、律法学者の前でも沈黙を貫かれたお方です。つばを吐きかけられ、茨の冠をかぶせられ、ありとあらゆる侮辱と恥辱に対しても口を開かなかったお方です。しかし最後に「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。弟子の一人ユダの中に入り、イエスを売り渡させたサタンはにんまりとしたことでしょう。いくら神の子でも、ガマンできなくなったのだと。しかしこれは神へののろいの言葉のように見えて、そうではなかった。むしろ十字架の本質を描いている告白です。十字架の本質とは何でしょうか。それは、十字架はあらゆるものが自由にされるところなのだということです。多くの人々はその意味で誤解をしています。十字架は自由ではなくむしろ束縛されるところだと思っています。イエス様は十字架の上で釘付けにされ、身動きが取れない。しかしパウロはガラテヤ人への手紙の中でこう言っています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」。キリストはよみがえられてもはや十字架にはいません。十字架に今残っているのは、私たちの情欲、欲望、すなわち私たちの肉です。十字架は私たちの肉を縛り付けています。しかし私たちはキリストとともに、あらゆるものから自由なものとなったのです。それが十字架です。
「これで神をのろって死ぬことができる」という椎名のことば、「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」というイエスのことば、それらが教えているものがあります。それは、この十字架の上にはタブーがないということです。泣き言だって言ってもいい。神よどうしてという叫びでも、訴えも堂々と出していい。これは教会の中でとか、家庭の中で不平不満をたらたら言ってもいいという意味ではありません。十字架の上で、あるいは十字架のもとに、という意味です。本当の十字架はあなたの心の中にあります。こんなことを言ったら信仰者じゃないとか、こんなことを思ったら神はさばかれるとか、自分の心が自分を責めるとき、心の中にキリストの十字架を思えばよい。キリストが「わが神、どうして・・・」と叫ばれたのは、私のためだったのだということがわかる。神は、どんな時にも泣き言を言わない信仰者を求めているのではない。信仰とは、信じて仰ぐと書きます。何を信じて、何を仰ぐのですか。キリストを自分の救い主として信じます。キリストが私のすべてを背負ってくださった十字架を仰ぎます。そして私たちは自由にされたのです。
たぶん、10年前の赴任当初の私だったら、今日の箇所からこのような適用は語らなかったでしょう。この豊栄教会に赴任してからの10年間で、牧師としての私の信仰も360度変わりました。360度だと一回りして変わってないよと突っ込まれるでしょうが、信仰の譲れない所は変わっていません。十字架による赦しです。360度と言ったのは、ここに来て様々なクリスチャンを見てきました。つまりみなさんのことです。正直、10年前、私の手には負えませんでした。それはみなさんにではなく、私の経験不足のゆえです。でも手に負えなくてよかったと思っているし、神さまもそれを求めておられなかった。私に求めておられたのは、この様々なクリスチャンを私色に染めることではありませんでした。むしろ逆です。私がみなさんの姿を通して信仰の色彩感覚を学んでいくということでした。要するに、この教会がそこにあるホワイトボードだとするならば、いつも白く保っておくのが教会ではないということです。
色々なクリスチャンがいていい。それぞれが色々な色を使って自由に書いていい。御霊による一致とは、みんなが同じ色のペンを使って同じ絵を描くことじゃない。現実にそんなことしたら、一本しかないペンを奪い合うことになりますね。一致とは、みんなが違っていて当たり前ということをみんなが受け入れるということです。それが御霊による一致であり、御霊は自由をもたらします。十字架の上で、イエスは命をはって自由を与えてくれたのです。私たちは礼拝を楽しむものでありたいと願います。
いよいよ私たちはこの一週間、キリストが二千年前に十字架につけられた受難週を歩んでいきます。しかし私たちは、キリストが十字架に縛り付けられて終わった方でないということを知っています。一週間後には、私たちはこの礼拝でイエスが墓からよみがえられたメッセージを聞くことになるでしょう。私の罪のためにキリストは死に、よみがえられました。私たちがそれを信じるならば、信じてその十字架につけられたキリストを仰ぐならば、私たちは罪の支配から解放されて、あらゆるものから自由にされます。罪の束縛から自由となり、人の評価や世間の葛藤からも自由となり、死の恐怖からも自由となります。どうか求道者の方には、この自由とされる恵みを味わっていただきたいと願います。あなたが自分は罪人であり、イエスは救い主であると告白するならば、そこには新しいいのちがあります。360度ではなく、180度人生が変わります。そこには自由があるからです。つらいとき、苦しい時、それを吐き出して下ろす場所がある人はなんと幸いでしょうか。十字架がまさにそれなのです。「神をのろって死ぬことさえ赦されている」という極端な表現は、十字架がもたらす恵みを語っています。わが神、わが神とイエスが叫んだとき、それはもしかしたら苦悶の表情ではなく、沈黙からの開放感にあふれていたかもしれません。お祈りしましょう。