17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
キリスト教では、十字架で死んだイエス・キリストがよみがえった日をイースターと呼びます。キリストの復活は、クリスチャンもまた同じように復活するという希望であることから、イースターの日にはすでに天に召された人々を記念する日にもなっています。私たちの教会でも、午後には太夫浜霊園で佐藤敬子姉の納骨式を行い、また他4名の召天者をおぼえて礼拝をささげます。
先週、今日の納骨式に備えて墓を見てきました。霊園に墓は数あれど、うちの墓ほどすばらしい墓はありませんね。親バカならぬ墓バカと言うのでしょうか。感動のあまり写真を撮り、週報の表紙に載せておいたほどです。さて、教会の目の前の道をひたすら北上していくと、競馬場インターを突きぬけて、20分もあれば太夫浜霊園に着きます。霊園のそばの交差点で信号待ちをしていたときに、ふと気づきました。交差点を右に曲がると敬和学園高校があり、緑色のチャペルが車の中からも見えます。そして交差点を左に曲がると、墓地への入口。そこでこんなことをふっと思ったのです。右に向かえば高校があり、そこでは若者たちがこれからの人生に希望をふくらませながら学んでいる。一方、左に向かえば墓地があり、数え切れないほどの墓に、死んでいった人々の人生が短く刻まれている。右と左、命と死、ここまで対立するものが近くに並んでいる光景に驚きました。それはまるで、右にいくか左に行くかで命と死が分かれてしまう、私たちの人生の象徴のように思えたのです。
すべての人間は、人生の中で右か左かを選ぶ選択へと立たされます。進学や就職、結婚などはその例ですが、一番究極の選択は、いのちと死にかかわることです。聖書は言います。イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられる、しかし彼を拒む者には永遠のさばきが待ち受けている、と。私は決して教会に来てくださった人々を脅かそうとしているのではありません。しかし、この墓誌に刻まれているひとり一人は、イエス・キリストを信じ、永遠のいのちの確信をもって天国へ凱旋していったのだということをおぼえてほしいのです。とくにご遺族の方々にとっては、あなたの知っている、その家族が選び取ったものから目をそむけないでほしいと思うのです。あなたの愛する人が、その人生をかけて選び取ったのがキリストなのだという事実を忘れないでほしいと願うのです。
信号が青に変わると、私は交差点を左に曲がり太夫浜霊園の門をくぐりました。しばらく車を走らせると、いやがうえでも目立つ教会の墓が目に入ってきます。車を降りて、5人の名前が刻まれたこの墓誌を眺めている中で、先ほど交差点から見えていた敬和高校のチャペルの緑色を思い出しました。いのちを謳歌しているように見える高校生たち。しかし彼らもまたやがて来る死に一歩一歩近づいているのはまぎれもない事実なのです。一方すでに死を経験した者であるこの5人の名前は、死してなお生きている者たちを励まし続けている。今生きているから希望がある、今死んでいるから希望がない、ということでは断じてない。本当の希望は、キリストが私のために死んでくださったと告白して天へ向かっていったこのような人々の中にあるのだと思わされました。
今日の聖書箇所は、右と左に分かれていく人々をこのように表しています。19,20節、「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」。
あの大震災によって、私たち日本人の価値観が変わったということがよく言われます。確かに目の前でかけがえのない家族や財産を失っていった被災者はそうかもしれません。しかし私も含めて、被災地とはまるで遠い所にいながら、日本人の価値観が変わったとは言えないと思います。相変わらず、人々は地上のことにばかり目を向け、天に思いを馳せることはありません。人の心も価値観も、そう簡単に変わるものではないのです。墓誌に刻まれた五人のうちのある方を思い出します。彼は病床でイエス・キリストを受け入れました。私は何度か病院に赴き、彼に聖書の言葉を語りましたが、口を真一文字に結んで何も答えようとしなかった姿が今もまぶたに焼き付いています。その方の心と価値観を変えたのは、死が駆け足で近づいてくる恐怖感の中で、いつも彼の手を握り、聖書のことばを伝えていたお嫁さんの姿でした。私はおそらく彼の中では、たまにきて信者にさせようとがんばっている若造でしかなかったのでしょう。しかし人の心を変えるのは、言葉ではなく言葉を超えた愛です。彼はその愛に触れて、キリストを救い主として信じ、天国へ旅立って行かれました。天に国籍を見いだし、主イエス・キリストと出会える時を楽しみにして地上を去っていったのです。
墓誌に刻まれた五人すべての方々の思い出をここで語る時間はありません。私は代わりにあるクリスチャンを紹介したいと思います。敬和学園高校の初代校長に太田俊雄という方がおられました。その息子さんの書かれた文章がありますので、少し長いのですが、それをご紹介します。イエスを信じた者が同じように経験する、本当の平安をお伝えすることで、五人の召天者に共通する信仰を最後に語りたいと思います。
高校の頃、父親が嫌いでした。父と一緒にいることがとてもいやでした。どうしてかというと、父はどんな場面に接しても常に穏やかな表情であった。そういう父親に対してむしょうに腹が立った。何でもっと怒らないんだ、ということを常に思っていました。そんなわけで、父と一緒にいることがとてもいやでした。だから、向こうから父が歩いてくるのを見つけると、私は必ず横道にそれました。横道がないときは、回れ右して絶対に父とすれ違わないようにしました。そんな時期に、岡山にいる父方の祖母が亡くなりました。兄も姉も留学中だったから、自分が東京の太田の家の代表として父に同行せざるを得なかった。新幹線もできていなかったから岡山でなんと遠いこと!一時でも父と一緒にいたくないのに。ほとんど寝たふりをして過ごしました。
幼い頃は毎年のように岡山へ行き、いとこたちと遊んでいました。岡山に着いたら、親戚の人が「まあ、遠いところ大変だったねえ」とか笑顔で迎えてくれるものと思っていました。ところが誰ひとりお茶一杯出してもくれない。その上、離れた座敷のほうで父の兄弟たち、親戚たちがひとかたまりになって、それまで賑やかにおしゃべりしていたのが、ぱたっとやんで、あたかもわれわれ親子に聞かせるように「お袋がこんなに早く死んだのは、兄貴がキリスト教なんか信じたからだ」。「今頃何しに来たんだ。あんたのせいで、お袋は早死にしてしまった。あんたに弔われては、お袋は極楽にも行けない。」という、敵意丸出しの言葉だらけでした。
高校2年生の私にとっては、大変ショックな出来事でした。どんなに父が嫌いでも、じつの兄弟からそんな言葉を浴びせられていることにはたまらなく父がかわいそうだった。しかし、その一方で父の顔、見たこともないほどやつれきっているであろう父の顔を確認したかった。祭壇に向かって座っている父の斜め後ろに控えている自分には父の顔が見えない。父はどんな顔をしているか、おそらく見たこともないほど悲しげな、苦しげな、寂しげな、つらそうな顔をしているにちがいない。あれほど仲の良かった兄弟や親戚の人から、あんなにひどい言葉を投げかけられ、さらにこんな脅しもぶつけられた。「兄貴、あんたがキリスト教を捨てなかったら、あんたの家に3年のうちに必ず不幸が来るからな」。しかし子どもというのはこんなときにひどいことを考えるものです。父のやつれ果てた顔を確かめてみたくなり、わざと焼香に立って、戻り際に見ることにしたのです。
焼香をすませ、振り返りざま父を見た、その瞬間の父の顔は50年近く経った今でも決して忘れることができません。あまりにも穏やかで、あまりにも優しく、愛に満たされた表情ってこんな顔なんだろうな、という顔をしていたのです。雷に打たれたような思いでした。「これがキリスト教の信仰なのか!」と思いました。父は、私に「教会に行きなさい」とか「そろそろ洗礼を受けたらどうか」などと一言も言ったことがありませんでした。しかしこの父の顔を見て「これがキリスト教か」という思いは日々強くなっていきました。私はその年のクリスマスに洗礼を受けました。この父の顔を見なかったら、洗礼を受けることはなかったかもしれません。
(太田信雄「記憶の中の父・太田俊雄」、『太田俊雄研究会報第4号』、2012年、PP.8-9)
私は墓誌に刻まれている五人の方の葬儀を牧師として執り行いました。棺の中で見たのは、生きている者ではなく、なくなった方の顔でしたが、みながなんと安らかな顔をしていたことか!葬儀で喜びを体験することができるのは、キリスト教だけかもしれません。それは永遠のいのちという朽ち果てない希望があるからです。さらに聖書はこう約束します。21節、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」と。キリストが墓を打ち破ってよみがえられたように、私たちもまた必ずよみがえり、キリストと同じ栄光のからだを与えられるのです。そして喜びの人生は、死んでからではなく、信じたそのときに始まります。どんなに苦しい中でも決して私たちを見捨てない、キリストの愛が私たちを取り囲みます。イースターの朝、私たちにも永遠のいのちの喜びがわき起こります。どうかお一人お一人の上に、天からの祝福がありますように。