最近の記事

2012.5.6「今、この時から」

週報はこちら

聖書箇所 ヨハネ8:1-12
 1 イエスはオリーブ山に行かれた。 2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、 4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 先日、全国朝祷会のニュースレターに掲載された、あるクリスチャンの証しを聞きました。名前を弘さんと言うのですが、彼は10年前、ある容疑で警察に逮捕されました。容疑を概ね認めたものの、納得できないところがあり一部否認していたところ、刑事が20年以上音信不通だった母と妹を警察に呼び出し、彼の昔の悪事もすべて暴露したというのです。何も知らなかった家族は号泣していると、弘さんは留置場の署員から聞かされました。その刑事はこれで彼が家族への申し訳なさから変わるはずと考えたのでしょう。しかし弘さんの心に生まれたのは、何も知らない家族を巻き込んだ刑事への激しい憎しみだったそうです。
 罪という漢字は、四つに非と書きます。しかし漢字に詳しい方に聞くと、これは四でも非でもなく、四に見えるのは魚を捕る網、非は人間が真ん中から分裂している様子を表すそうです。つまり、見えない網に捕らえられ、人の心が真っ二つに割れている、それが罪。罪を犯す者は、罪とわからずに罪を犯します。罪を犯しても認めようとしなかった弘さんだけでなく、家族を用いて彼の心を追い詰めようとした刑事もまた、罪に気づいていなかったのです。しかし私にも彼らを責める資格はない。資格という意味では、誰も持っていない。罪を犯しながら、罪に気づかない。それがすべての人間の姿だと、聖書は私たちに語ります。このヨハネ8章に登場する者たちすべてが、イエス様を除き、罪人の醜態をさらけ出しています。姦淫の現場を捕らえられた女性、その姦淫の罪を鼻高々に訴える律法学者たち、あるいは無関係であるはずの群衆でさえ、すべての人々が罪とは無縁ではいられない姿が描かれています。

 さて、イエス様は地面に何の文字を書いていたのでしょうか。聖書は明らかにしていませんので、あくまでも推測になりますが、有力な説はこのようなものです。それは、律法学者たちが訴えた根拠である、「こういう女を石打ちにするように命じている」、そのモーセの言葉そのものを、イエス様は地面に書いておられたのだという説明です。それは旧約聖書のレビ記20章10節と、申命記22章22節に確かに書いてあります。申命記のほうを引用します。
「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。」
 それまで群衆にみことばを教えていたイエス様が、パリサイ人たちの告発を尻目に、沈黙して、地面に文字を書き始めました。いやが上にも人々の注目を引いたでしょう。そこにいたすべての者が、首を伸ばしてイエス様の書かれた文字を見つめていたはずです。なぜ、イエス様は律法の言葉をあえて地面に書かれたのか。この説を支持する学者は、こう言います。それは、神のことばを人を陥れるために利用する者たちへの怒り、憤りのゆえである、と。パリサイ人たちは、この女性を姦淫の罪で引きずってきました。しかし律法は、姦淫のさばきはそれを犯した男女が共同して背負う罪として定めているのです。しかし告発者たちは「姦淫の女」として片方しか連れてきません。なぜならイエスを告発するのに、片方だけいれば十分だからです。
 そこにイエスは憤られたのです。人の罪を悲しむどころか、人の罪を利用してイエスを告発しようとする、彼らの心に対してです。

 イエス・キリストが二千年前にこの世に来られたのは罪をさばくためではなく、罪人をあわれむためでした。否、あわれんで終わりではなく、自分を犠牲にして信じる者を罪から解放するために来られたのです。この姦淫の女は、この中で自分が罪人であると認めていた唯一の人でした。いけないと思いつつ、欲望に流されて姦淫を繰り返していたのでしょう。しかしパリサイ人たちは、罪を犯してしまう、人の心の弱さにつけ込むという、自らの罪に気づかなかった。だからこそイエス様は、彼らが口にするモーセの律法そのものを地面に書きました。目に入る文字を通して、神のことばへの恐れを彼らに思い出させようとしたのです。神のことばは、人の罪をえぐり出します。しかし神のことばを用いて、自分の正しさを誇り、人の罪をあげつらうような真似をしてはなりません。その意味で、これは私たち現代のクリスチャンから決して遠く離れた物語ではありません。
 そしてイエスはおもむろに立ち上がり、有名な言葉を言われました。7節、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」。この言葉は、そこにいたすべての者に己の罪を突きつけました。この姦淫の罪で捕らえられた女性はもちろん、その罪をあわれむことなく、むしろ利用するために彼女を連れて来たパリサイ人たちに対しても。そしてそれまでイエスのことばを喜んで聞いてはいたが、自分が罪人であり救いを必要としていることには目を向けてこなかった群衆に対しても。

 先ほど紹介した東京の弘さんは、刑事への憎しみを抱く中、同じ雑居房に収監された日系ブラジル人と言葉を交わすようになりました。何の容疑かはわかりませんが、とても明るくて、毎日お祈りをしていたそうです。聖書の言葉も教えてくれたそうですが、向こうも悪いことをして入ってきた人ですから、当時は耳を傾ける気も起きない。しかしやがて弘さんは拘置所に移送されると、今度は逆にそのブラジル人が教えてくれた聖書の言葉が知りたくてしょうがない。拘置所の職員に頼んでギデオン協会が配っている無料聖書を借りて読んでみました。新約聖書を初めから読み、使徒の働き9章にさしかかったとき、弘さんは、クリスチャンを迫害するサウロへ神が語りかけた言葉に出会い、震えが止まらなくなった。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というみことばが「弘、弘、なぜわたしに罪を犯すのか」という自分への呼びかけに聞こえてならなかった、と。そのとき生まれて初めて神さまにごめんなさいと祈り、そして自分の罪を便箋三枚に書き綴ったといいます。

 イエス様の言葉は、すべての人の心を例外なく突き刺す神のことばです。そこにいたすべての者たちは、一人、また一人と去っていきました。イエスと姦淫の女性だけがそこに残ると、主は彼女に優しく言われました。11節、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」。

 しかしこの女性に行くべき場所があるのでしょうか。イエス様は赦しても、彼女の夫は赦さないでしょう。行くあてもないままに、彼女はとぼとぼと歩き始めます。心の中には、語られた言葉が響いています。「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」。心の中で彼女は答えます。「主よ。無理です。私は罪を犯さずに生きていくことなどできやしないのです」。しかしその叫びを打ち消すように、イエスのことばがさらにこだまする。「今からは、決して罪を犯してはなりません」。そのことばを心の中で繰り返しているうちに、彼女ははっとする。「今から」というこの言葉は、原文のギリシャ語では定冠詞がついています。すなわち、「今、この時から」という意味です。それは姦淫の罪をずるずると犯し続けてきた昨日、あるいはさっきとは切り離された「今、この時」。古い罪の性質が混ざり合った「今」ではなく、「罪を犯してはなりません」という変わることのない神のことばが私を生かす、まったく新しい「今、このとき」。
 この女性も、10年前獄中でキリストを信じた弘さんも、そして私たちひとり一人も、みな同じです。キリストを信じたとき、私たちの古い肉の性質は焼き尽くされ、新しい「今」を生きる者として生まれ変わります。クリスチャンになっても同じことの繰り返し、ではありません。キリストに出会った迫害者サウロは、使徒パウロに生まれ変わりました。彼はその手紙の中でこう書いています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。その後の弘さんは模範囚として刑期を終えて、今はクリスチャンの伴侶を与えられ、刑務所伝道の協力者として働いているそうです。古い肉の性質は過ぎ去ります。しかし古い傷や経験は過ぎ去るのではなく、今日を生きるための、新しい命への糧となるのです。それを奇跡と呼ぶことなくして、何が奇跡でしょうか。そして私たちはその奇跡を日々経験しているのです。
 最後に、8章12節のイエス様の約束をみなで告白して、説教を終わりましょう。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
posted by 近 at 15:48 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: