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2012.5.20 「人々が教会に求めるものは」

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聖書箇所 テトス1:1-4
1 神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ──私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。2 それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。3 神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです──このパウロから、4 同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。

  「教会」と聞いて、人々が抱くイメージを何でしょうか。パイプオルガンの荘厳な音色、光輝くステンドグラス、片言の日本語でお話しする、青い眼をした宣教師。(ま、うちの教会にはそのどれもありませんが。)これらはあまりにもできすぎたイメージですが、しかし実際に若い頃、宣教師の英語クラスに参加したのが教会の初体験であったという人は多いようです。ある牧師が懐かしそうに語ってくださいました。戦後の何もない時代、宣教師の奥さんが焼いてくれた手作りクッキーのおいしかったこと!もう定年間近の大先輩であるひとりの牧師が、子どものように楽しそうに話してくれた姿は忘れられません。
 いつの時代でも、人々は教会にしかないものを求めて教会を訪れます。宣教師のクッキーや英語クラスは、それは戦後すぐの日本には、教会にしかなかったからです。今、この世の団体やカルチャー教室では受け取れず、教会にしか存在しないもの。それは何でしょうか。それこそが、人々を教会にひきつけるものとなり得るものです。それは、「人」ではないかと思っています。いわゆる「人間関係」ではなく、自立した個人としての「人」です。言い換えるならば、福音によって変えられ、人生観、価値観、あらゆるものがこの世と訣別を果たしている、自立したまことの人間。それが、今日教会しか人々に与えられないものです。私をここまで変えたのは福音の力なのですと胸を張って伝えて行く時代はいつやってくるのか。今日から始めることができます。私たちが福音の力をもう一度かみしめて、あなたも私のようになってくださいと言えるくらいに、みことばに裏打ちされた生き方に立ち戻るならば、そこには教会が生まれます。伝道とは、教会の建物に人々を呼び寄せることではなく、あなたの生き方に人々が共鳴し、自分もそうなりたいと思うことです。それは品行方正な信者になることではなく、常に神のあわれみにすがっている私たちであり続けるということです。福音に生きるとは、他の誰かではなくあなたがそのような者になること。それこそが、二千年間常に変わることのない、福音の本質です。パウロは言います。1節、「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ──私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです」。

 彼はまず自分のことをこう宣言します、「神のしもべ」と。もちろん自らを誇るためではありません。受取人であるテトスに対して、自分に倣ってくれと言いたいがためです。テトスは、東地中海のクレテ教会の監督でした。今後学んでいきますが、クレテは、教会員同士の争いで教会が揺れていました。もし教会にあるものが「人」であるとするならば、絶対にクレテの教会だけには行きたくない、と人々が噂するほどだったでしょう。テトスは、教会に山積しているひとつ一つの問題のために、パウロによって派遣されたのです。テトスにとって、そのような問題と関わることは決して初めてではなかったでしょう。しかしパウロは、テトスに問題の根っこがどこにあるのかを続けてこう伝えます。「神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために」と。ここには二つのバランスが語られています。クレテはそれが崩れていました。自らを神に選ばれた信仰者であると自認していながら、敬虔とはほど遠い、さばきあう教会員たち。だがその根っこにあるのは、「真理の知識」の欠如なのだと。真理の知識とは、みことばのこと、福音のことです。ただ救われたという事実の上にあぐらをかいている者ではなく、福音を自分の生き方を通して実践していく人々が、教会を変えていく鍵となるとパウロは伝えています。
3節にはこうあります。「神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです」。私たちクリスチャンの誰もが、自分の信仰生活を豊かなものにしたいと願っている。ではその信仰生活の豊かさとはどのようにして得られるのでしょうか。祈りでしょうか、交わりでしょうか。確かにこれらはとても大事なものであり、私たちがおろそかにしてはならないものです。しかしパウロがこの3節で、「このみことば」と声を大にして叫んでいることを忘れてはなりません。「このみことば」。救いの選び、信仰、敬虔、真理、永遠のいのち、それらすべてを結びつける命綱ともいうべきものが、このみことばである、とパウロは叫んでいます。宣教とは、このみことばを伝えることです。神が命じられたとは、この宣教こそ、教会がなすべきわざの中心、根っこであるという緊迫感を伝えています。

 欧米の宣教師たちが去った後、代わりに日本の教会が考えたのは、音楽や料理、子どもへの英会話、といったカルチャー講座を通して人々が教会に来るきっかけにする、というものです。これは実際に多くの教会が行っていますし、うちのT-Breezeもその一つと言えるかもしれませんので、あくまでも自戒を込めて、ということですが、私はある人が言った言葉が忘れられません。「どうして日本のクリスチャンはこんなに自信がないのか」と彼は言いました。
 かつて英会話教室を始めた宣教師たちは、これが最善の宣教とは考えていなかったでしょう。本来であれば、まっすぐに福音を語りたい。しかし日本人の牧者が育っていない当時の時代において、宣教師がなすべきことは、あくまでも地ならしでした。数十年後に、日本に外国人ではなく日本人の牧会者が育ち、教会がはっきりとみことばを語っていく姿を祈りながら、宣教師たちは英語クラスや日曜学校を始めていたのだと思います。しかしそれから数十年、日本にクリスチャンが百万人も生まれたのに、私たちは福音ではなく、福音をチョコでコーティングしたような甘いものとして、いまだに提供している。それは、福音に自信がないからではないでしょうか。福音によって変えられたはずの自分に自信がないからではないでしょうか。福音そのままでは人々に受け入れられない、だから宣教師のやり方を現代風にアレンジして・・・・となるのでしょうが、それはむしろ私たちに期待した彼らを裏切っていることになるのです。彼らは私たちに英語クラスのバリエーションを広げてもらいたかったのではなく、福音をいつでも、どこでも大胆に語る者になってほしかった。そうではないでしょうか。  
 テトスが抱えていた悩みを思うときに、私も豊栄に赴任したときのことを思い出します。新任の牧会者は、自分の力と経験により頼む誘惑に襲われます。パウロが、自ら派遣したテトスにこのような手紙を送り届けたということは、テトスもまたみことばではなく自分の経験や悟りに頼ってしまう危険があったからでしょう。しかしパウロは言います。すべての問題は、みことばをないがしろにしている現実の中にある。あなたは、人々にみことばの力と、宣教の大切さを教えなければならない。その命令を、私自身もこの十年間、心に打ちつけてきました。多くの人が豊栄の教会を見てこう言ってくれます。元気のいい教会ですね、楽しい教会ですね。でもその背後には、私たちを生かしているみことばがあり、そのみことばなくしては私たちは今からでもばらばらになりかねないものなのです。パウロは別の手紙でこう言っています。「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」(第二コリント13:18)。
 真理とは、聖書に啓示された、神のことばのことです。この神のことばが、今私たちを生かし、慰め、そしてさらに主の御名にふさわしい教会として導いてくださいます。人々は、教会に出会いを求めてやって来ます。キリスト教っぽいカルチャーとの出会いを求めてではありません。みことばにその人格が裏打ちされた、本当との人間との出会いを求めてやって来るのです。生活が様々な問題に押し流されていく中、どんな荒波の中でも揺るぐことのない、人生観や価値観、信仰、そういうものがひとり一人の中にしっかりとみことばによって作り出されている、そういう教会が人々の求めている真の教会です。それをひとり一人が忘れないでほしいと願います。あなたが教会であり、人々はあなたを見て、教会を知ります。あなたのことばを聞いて、教会を判断します。あなたの生き方を通して、教会のかしらであるイエス・キリストを知るのです。ひとり一人のこの一週間が、常にみことばによって裏打ちされて歩んでいくことができるように。
posted by 近 at 10:14 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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