聖書箇所 使徒1:6-11
6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
月一回、私たちの教会はカナンという老人福祉施設を慰問しています。先日の訪問で、私はメッセージに併せて、漁師に変装してみました。ゴムの長靴、防水エプロン、頭には手拭い、右手に釣竿、左手にバケツ。黒いビニールテープでつけひげもしてみました。会場の後ろでその準備をしながら、ふとまゆげはどうしようと思いました。まゆげにも黒いビニテを貼るべきであろうか。30年前にやったように。そのとき一瞬でしたが、そのころの思い出が走馬燈のように頭の中を走り抜けていきました。
約30年前、私が小学6年生の時です。今は廃校になった小さな学校でしたが、「6年生を送る会」が卒業間際に開催されます。私たちは送られる方の側でしたが、その学校では卒業生も御礼として歌を歌うというのが決まりでした。当日、ステージの後ろで練習していると、メンバーの母親のひとりが、あなたたち、それじゃつまらないわよと、黒と赤のビニールテープを持ってきた。いやな予感がしました。彼女は赤のテープは日の丸のように私たちのほっぺに貼り付け、黒のテープは鼻の下に、さらにまゆげにも貼り付けてきた。後ではがすことを考えると、これは拷問です。担任の先生もただ見守るしかない中、私たちは泣きべそをかきながらステージに上がりました。その背後で件のお母さんはこう声をかけてきました。「人間、いざというときはバカにならなきゃダメ」。あれから30年、あのお母さんはどうしているでしょうか。じつは今も私の実家におります。あれだけいやがったのに30年前と同じことをしている私は、きっと母の血を強く受け継いでしまったにちがいありません。
このことで母は、他の保護者からも後できつく言われたそうです。うちの息子の眉毛をどうしてくれる、と。私もなぜ母が、たかが子供の出し物にここまで一生懸命になるのか理解できませんでした。うろ覚えですが、母はその問にこう答えた気がします。「あんたたちがつまらなそうに練習してたから、楽しくしてやろうと思ったのよ」。母もPTAの一人として、学校の雰囲気を変えたかったのでしょう。そのやり方は自分の息子さえも一時敵に回しましたが、しかし今振り返ってみると、母はこれを通して私にあることを教えてくれました。世界を変えたければ、自分を変えなければならないということです。
自分を変えるためには、恥をかかなければなりません。弱さもさらけ出さなければなりません。自分を変えるというのは、自分の最も大切にしているものも捨てる覚悟を持つということでもあります。ほとんどの人は、そこまでやりたがりません。そんな犠牲を払うくらいなら、変わらない方がましだ、と。しかし自分を変えるというのは、そんな天秤にかけられるほどの軽いことではないはずです。あるユダヤ教のラビが、臨終の際に残した、こんな言葉を皆さんに紹介しましょう。
私は若かったとき、世界を変えようとした。そして年を重なると、そのことがあまりにも大それた野心だったと気づき、自分の住んでいる国を変えようとした。しかしさらに年をとると、このことも過大な野心だと思うようになり、自分の住んでいる町を変えようとした。このことも不可能であるとわかったとき、私は自分の家族を変えようとした。しかし年老いた今、自分自身を変えることから始めるべきだったとわかったのだ。もし自分自身から始めていたら、家族、町、いや国までも変えることができたかもしれない。そしてもしかしたら世界をさえ変えることができたかもしれない!
(ピーター・スキャゼロ「情緒的に健康な教会をめざして」、いのちのことば社、160頁)
よみがえられたイエス・キリストは、「世界を変えること」を弟子たちにゆだねて天に上っていかれました。今日の聖書箇所には、そのときイエス様はこのように言われたとあります。8節、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」。
順序に注目しましょう。主はまず「エルサレム」から証人として働くのだと約束されました。いきなり「地の果て」から世界を変えるのではありません。まず「エルサレム」、と。エルサレム、それは彼らユダヤ人にとって、町の名前ではなく、彼ら自身を表す言葉です。彼らがエルサレムに抱く思いが、現代の日本人にも通じるようなたとえは、まったく思い浮かばないほどです。エルサレム、それは彼らのたましいそのものです。そしてまずエルサレム、それは世界の変革は、まさに自分自身の内側から始まるということを意味します。主はエルサレムということばを出発点におくことで、まず聖霊が私たちの心を照らし、変えてくださることですべてが始まることを約束されたのです。
人は自分を変えたくないと願います。いや、変わりたいと本心では願っているのに、引き替えにしなければならないものの大きさゆえに、変わろうとしません。クリスチャンはどうでしょうか。じつは、なおさらです。救われた、変えられたと言いながら、じっくり自分の心を見つめたとき、まるで何も変わっていないような恐怖に襲われる。だから自分の心を見つめたがらない。自分の心をみことばと聖霊によって露わにされるのがじつは礼拝の本質なのですが、見つめたくないがゆえに、その隠れ蓑として奉仕や交わりに精を出す。あのマルタのように。考えないでやりすごすために、手と口だけは動かし続ける。だが、まず自分の心を裸にして、そのさらに奥まで見つめないで、どんな奉仕や交わりも神を喜ばせることはできません。聖霊はまずエルサレムからきよめられるのです。それは私たちの心が聖霊によって突き刺され、裸にされることからすべてが始まるということです。
エルサレムから始まる聖霊のみわざは、次にユダヤとサマリヤの全土へと広がります。ユダヤとサマリヤ。これは当時の人々の常識では、決して並ぶことのない二つの地名です。事実、新約聖書の中でユダヤとサマリヤが並んで語られる箇所は、すべてがペンテコステの後の使徒の働きにしか出て来ません。つまり、ユダヤとサマリヤとは対立した二つの言葉であり、その和解はただペンテコステの日に聖霊によってもたらされたということです。主は約束しておられます。自分自身の裸の心が聖霊によってきよめられ、力を受けるとき、次に始まるのは和解であると。家庭にも和解が必要です。親子の和解。夫婦の和解。社会にも和解が必要です。知人との和解。民族同士の和解。そして教会の中にも和解が必要です。和解したつもりのクリスチャンがいかに多いことか。親子や夫婦の和解をとりあえず保留していながら、和解の使者となろうとするならば、まずその人はエルサレムから始めなければなりません。自分が変わるところから始めなければなりません。丸裸の自分を神の前に差し出すことで、さらなる和解を与えていただくのです。裸の自分をさらけ出すことで神と自分を受け入れることができて、そこで初めて私たちはまわりと和解していくができるのです。
今日、私たちは教団が海外へ派遣している宣教師からのビデオレターを受け取りました。近年、宣教師の心のケアの必要が叫ばれています。日本で牧会している者が当然のように疲れるのならば、海外で働いている彼らはそれ以上でしょう。かつて私は、彼ら宣教師の働きが祝福されますようにと、そればかりを祈っていました。しかしある年の教団総会で、一緒に祈った宣教師が、涙を流しながらこう言われたことばを忘れられません。
私たち国外宣教師は、常にプレッシャーと戦い続けています。遣わされた宣教師なのだから弱さを出すべきではない。祈られているのだから、弱音を吐くべきではないという暗黙のプレッシャーとです。ビデオレターでは笑顔が求められます。祈祷課題を出すときも「宣教師にふさわしい」ものを求められます。だから私たちのために、いいえ、「私」のために祈ってください。宣教師○○ではなく、本当の自分を出すことさえも憚られている、「私」のために祈ってください。私の傷ついた家族のために祈ってください。笑顔で写真に収められた後に現れる、本当の私たちをおぼえて祈ってください。
今日の聖書箇所には、白い衣を着た人、つまり御使いが二人、弟子たちのそばに立っていたこと、そして彼らのことばの内容もはっきりと書かれています。聖書はここまで御使いをリアルな存在として描いているにもかかわらず、神は宣教の使命を彼ら御使いにはゆだねられなかったのです。それは、彼らは人間の弱さを知らないからです。ただ神でありながら人となられたイエス様だけが、人間のすべての弱さを知っておられます。そしてこのイエスをかしらとする教会だけが、宣教の器として神に用いられるのです。
私たちは、罪との闘いにもがきながら、福音を伝えます。己の弱さを見つめながら、世界に救い主を語り続けます。人々の罪をさばくのでなく、ただ受けとめながら、それでも弱さの中に働かれる聖霊の力により頼みます。そしてこの力こそ、自分を変え、敵意を和解に変え、全世界を変えていく神の力なのです。どうかペンテコステのこの日、私たちが自分の弱さを見つめることを恥じることがないように。弱さを抱えながら労苦している宣教師たちのために祈りつつ、私たちもみことばと聖霊の力を受けて、立ち上がることができるように。