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2012.6.3「主は与え、主は取られる」

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聖書箇所 ヨブ1:13-22
13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」
 20
このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、21 そして言った。
  「私は裸で母の胎から出て来た。
  また、裸で私はかしこに帰ろう。
  【主】は与え、【主】は取られる。
  【主】の御名はほむべきかな。」
22
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

 昨年、私の出身教会である山の下教会へ行ったときのことです。ある信徒の方が私にこんなクイズを出してきました。「山の下にはあるけれど、豊栄にはたぶんないもの」。答えは、教会のテーマソングだそうです。何でも山の下はジョインというクリスチャンアーチストにお願いして作ってもらったとのこと。その場はへえ、いいですねえと答えましたが、帰りの車の中で、むう、くやしい。うちもほしい。しかし私は肝心なことを忘れていました。テーマソングならすでにあるじゃないか、と。「ブルーリボンの祈り」。もはや楽譜なしで歌えるほど、教会員が歌い続けております。今月の連合婦人会でも五十嵐教会と合同で特別賛美します。また突然で恐縮ですが来週板倉邦雄先生の前でもぜひささげていただきたいと願っています。
 勝手にテーマソングにしてしまいましたが、この「ブルーリボンの祈り」は、五十嵐教会の木南先生が、横田早紀江さんの本から作った歌です。今まで色々な所で歌わせていただく中、私自身はどちらかというと歌う方はみなさんにお任せしてもっぱら聞く側でしたが、この歌の中で、少し気になっていたところがありました。それは「苦しみのさなかに送られた聖書」から続く部分です。「ヨブは苦しみにあっても、決して神から離れなかった」。気になるのはこの言葉そのものではなく、「ヨブ」という言葉が歌を聴く人に伝わるだろうか、ということです。聖書を読んだことがない方々が、突然「ヨブ」という名前が歌に登場したときに、えっ、何それと思うんじゃないかと、今だから言えるのです。「今だから」というのは、最近早紀江さんの手記を読み返してみて、納得したのです。木南さんがあえて唐突と思われるような歌詞にしたのは、じつはそのとまどいそのものが、早紀江さんの感覚であった。つまりわかりやすい歌をではなく、早紀江さんの感覚、えっ、ヨブ?なにそれという戸惑いを、聞く人々はこの歌を通して追体験しているのだ、と。

 理由がわからないまま、めぐみさんが失踪した中、早紀江さんはめぐみさんの親友のお母さんであった眞保さんというクリスチャンから、聖書を読む会に誘われました。そしてその会のメンバーである岡田さんという別のクリスチャンから、彼女は文語訳の聖書を渡されて、「ヨブ記」を読むようにと何度も言われたそうです。なぜヨブ記?そもそもヨブって何?その戸惑いの中で、それでも早紀江さんはヨブ記から読み始めます。それは彼女の中に何を生み出したのでしょうか。手記の中にこう書かれています。
 今考えてもほんとうに不思議ですが、初めて、それも一人で聖書を読んだのに、すべてがピタッピタッと自分に当てはまるようで、みんなうなずきながら読めたのです。いい意味での大きなショックを受けた私は、事件以来初めて深呼吸ができ、久しぶりに空気がおいしいと感じました。ほんとうに苦しい毎日でしたから・・・・
(田早紀江「新版ブルーリボンの祈り」、いのちのことば社、140頁)


 今日、私たちもそのヨブ記からみことばを受け取りました。そこに登場するヨブの苦しみは、あまりにも痛ましく、あまりにも苦しい。もし早紀江さんのように自分自身が苦しみのただ中にいなければ、きっと本を閉じてしまうでしょう。自分には関係ないわ、と。今日の聖書箇所には、何度もこんな言葉が出て来ます。「この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った」と。ヨブには、時間が悲しみを癒してくれるという望みさえも許されません。次から次へと悲しみが襲いかかります。言うならば悲しむ暇さえもないのです。しかしヨブのことばと行動は、私たちの常識を越えています。彼は、このような悲劇をゆるした神を礼拝しました。彼は一言も愚痴をこぼしませんでした。もし神がいるなら、どうしてこれほどの苦しみを与えるのか。もし神が私を本当に愛しているのなら、どうしてこんな悲しみを経験しなければならないのか。その叫びの代わりに彼は自らに諭すように、静かにこう語りました。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。

 私たちは、「ブルーリボンの祈り」の中でこう歌います。「ヨブは苦しみに会っても、決して神から離れなかった」。しかしなぜ、離れなかったのでしょうか。その秘密はどこにあるのでしょうか。それは、みことばの中にこそあります。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」。これがヨブの信仰です。彼にとって、この地上の人生はあくまでも一時的なものでしかありませんでした。確かに彼は豊かな財産を持っていました。多くの家族を持っていました。しかし彼はそれらすべてを失った後でも見失わなかったのです。自分が裸で生まれてきて、裸で帰って行くことを。帰るとは、終わることではありません。新しく始めるために帰るのです。ヨブが裸でかしこに帰ろう、と言っているのは絶望の人生のことではなく、希望の人生です。私たちは、たとえ地上でどれだけの富と喜びを手に入れたとしても、結局はすべてを手放さなければなりません。しかしそれは反対側から見れば、この世でどれだけのものを失ったとしても、本当に失ったわけではないということです。この世に執着を残して死んでいくなら、本当に必要なものを失います。しかし永遠のいのちという希望をもって、天に帰って行くとき、本当の意味で人生は意味のあるものとなります。

 ヨブのことばは、自分に何が起ころうとも神が共におられるのだという確信から生まれています。「神、我らと共にいます」。これはヨブ記の中心テーマでもあります。サタンはヨブの信仰が御利益信仰であると神にもちかけ、神はヨブの家族や財産に害を与えることをサタンに許しました。そしてヨブは自分の肉体も七転八倒の苦しみにもがく中で、神がなぜ自分の叫びに答えてくれないのかと訴えました。神が共におられるにもかかわらず、なぜ神は私に答えてくれないのか。その現実に、ヨブだけではなく私たちも苦しみます。世の人々は、もし神がおられるのであれば、なぜこんな大災害で何千人も死んだりするのかと言います。私たちには、神のみこころはわかりません。しかし信仰に必要なのは、神の計画を知ることではなくて神の計画に従うことです。私たちの人生に起こるどんな事柄の背後にも、神はご計画をもっておられます。

 先週、西岡 力という大学教授が長岡の教会で講演をしてくださり、これをいただきました。西岡教授は、拉致被害者のために長年闘い続けているクリスチャンでもあります。ここに書かれている先生の文章をみなさんにご紹介します。
 私は1991年、北朝鮮による拉致を日本で一番早く提起しました。それができたのは大韓機爆破事件の犯人キム・ヒョンヒさんが「日本から拉致された女性から日本人化教育を受けた」と自白したことがあります。彼女は韓国に連行され、北朝鮮で受けていた洗脳教育が間違いだとわかり、革命のために必要だと思っておこなったテロが、大義名分のない殺人だと気づき、自白をしたいと考えました。だが、北朝鮮では家族連座制があり自白すれば両親らが生き地獄の政治犯収容所に入れられるか処刑されてしまうのです。悩んだ彼女は、自分を愛してくれた母は自分がこのように苦しんでいることを知れば「お前の信じるとおりしなさい」と言ってくれると自問自答して、自白に及びました。キムヒョンヒさんのお母さんは戦前、ミッションスクールに通ってキリスト教信仰を持っていたのです。

 北朝鮮に連れて行かれた横田めぐみさんは、工作員に日本語を教える教育係にさせられました。じつはめぐみさんが教育係となったのはキム・ヒョンヒ一人ではなく、他に何人もいたのです。しかし金正日は数ある候補者の中でヒョンヒを爆破実行犯として選んだ。もしヒョンヒ以外の人が選ばれていたら、いまだに拉致問題は表に出ていなかったかもしれない、と講演の中で西岡先生は話しておられました。北朝鮮と金正日という地上の帝国にさえ、神の見えざる御手が働き、罪を露わにした。ヒョンヒのお母さんが信仰を持っていたこと、彼女が工作員として選ばれたこと、あらゆることが偶然のようで偶然でない、すべてのピースがはめ込まれるように、今拉致の現実が明らかにされているのだ、と。
 私たちには拉致問題の今後はまだ見えていません。しかし神がすべての問題のただ中に生きておられる方であると信じ続けるならば、必ず解決がもたらされます。主は生きておられる。私の中に、私の人生の中に、私の生きているこの世界の中に。私が裸でかしこに帰るその時も、永遠に神はいつも私と共におられる。そのように告白しながら、今週も一人ひとりが歩んでいきましょう。
posted by 近 at 19:26 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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