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2012.6.17「家庭から教会へ」

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聖書箇所 テトス1:5-9
5 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。6 それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。7 監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、8 かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。
 
 牧師というのは、ちょっと問題のある人たちの集まりです。初対面の牧師が会議に集まると、お互いにこんな質問を投げ合います。「○○先生の教会は、礼拝何人くらいですか」。礼拝が何人だろうが、別にいいじゃないかと思うのです。世には二人家族もいれば、十人家族もいます。でも真っ先に「何人家族ですか」と聞いてくることはまずないわけです。初対面の人に「何人家族」と聞いてくるのは、よっぼど家族にトラウマを抱えている人ではないかと思います。そして「近先生の教会」とか呼ばれるのも、私は好きではありません。うちには「豊栄キリスト教会」という立派な名前があるのです。これが「北区キリスト教会」とか「嘉山キリスト教会」だったら、たぶん泣きますね。ましてや「近先生の教会」とかいう名前で呼ばれたくはない。そして「○○先生の教会」と呼ばれるとき、何となく信徒の存在が無視されているような気がしてならないのです。

 パウロは、テトスに不思議な言葉を書き送っています。5節、「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし」と。これは、何だか私たちが知っているパウロ像とは違うように思えます。パウロは常に教会を人と結びつけて語る使徒でした。しかし「仕事の整理」という言葉から思い浮かぶのは帳簿の山で、人ではありません。でも見落としてはならないのは、パウロがいう「仕事」とは、やはり人のことであるのです。彼がいう仕事、それはクレテの教会が自立するために、人々をみことばによって育てていくということです。パウロによって、それが一番心残りで、かつ真っ先に取りかかってほしい仕事でした。いったい、聖書を教えるよりも大切な仕事が、神のしもべにあるでしょうか。パウロがわざわざ「仕事」とテトスに書き送るからには、それは帳簿や請求書の束のことではありません。テトスよ、私が取りかかったように、あなたもみことばを正しく語ることに取りかかれ。そのために教える力のある長老たちを町ごとに任命し、クレテにある幼子のような教会を自立させていくのだ。それがこの5節に書かれてあることばです。

 今「自立」という言葉を使いましたが、現在では教会の自立と言うと、教会員が増えて外部からの経済的援助を受けずにやっていけるという意味で語られます。しかしもし教会の自立がそれだけだとしたら、とても悲しいことです。教会が自立するというのは、経済的に独立することではありません。信徒ひとり一人が、みことばを正しく理解し、それを生活の中で実践していくこと。そして問題が起きたときも、そのみことばを基準として対処していく力を身につけること、それが真の意味で教会が自立するということです。じつは人数的に、また経済的には豊かであっても、真に自立していない教会もあります。私が卒業した神学校の講師から聞いた話です。その講師が、地方の大きな教会に招かれて礼拝説教を語りました。彼はキリスト教教理の根本である「神、罪、救い」を聖書から紐解き、会衆に語りました。しかし説教後、ある役員がこう言ってきました。「先生、教理も大事ですが、求道者やはじめて来た方のために、もっと簡単で恵まれる話をしていただければもっとよかったのですが」。
 聖書の教理から離れて、いったい誰が救われるでしょうか。教理から離れて、愛や恵みを連発する説教は、人の心に感動を与えても、たましいに救いを与えることはできません。私たちが聖書の教えを難しいと言ってぼかすならば、教会は必ず病気になります。牧師の人柄、説教のおもしろさ、教会の雰囲気、人間関係、それらは教会に与えられた賜物でもあります。しかしそれだけに私たちが依存しているならば、決して自立した教会とは言えません。真の自立とは、信徒一人ひとりがこの聖書に語られている真理を自分の血、肉、骨として常に噛みしめて歩んでいるかどうかなのです。

 5節後半で、パウロはテトスにこう命じています。「私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした」。テトスが真っ先に取りかかるべき仕事が、聖書を正しく教えることであるとすれば、それは一人ではできません。彼の右腕として、聖書を正しく教えることのできる人々が必要です。日本の教会は、この命令を軽んじてきたように思えます。説教は牧師の仕事、信徒は講壇に立つなど恐れ多くて・・・「みことばを語る」ということを過剰なまでに神聖視してきました。しかしもっと大切なことは、信徒の中で人々を教える力のある者を育てること、そしてその教えが聖書から逸脱していないかどうか判断し、愛をもって正していける交わりを育て上げていくことでしょう。長老、つまり役員には一般常識や事務的能力を求め、聖書は牧師に、事務的なことは役員に、と仕事を切り分けてきました。しかし聖書からわかるのは、役員の仕事は事務ではなく、牧師の説教をよく聞き取り、もしそれが間違っていたら静かに正してあげることです。
 そんな大それたこと、とてもできませんと言うかもしれません。しかしそれができない教会に何が起こっているか。牧師の説教が、権威を強調して立場を正当化しているだけに気づかず、教会がカルト化していく現実があるのです。信仰生活を何十年と送っていながら、いまだに福音を正しく説明できない人々も多くいます。最近の同盟教団では、信徒主導ということがよく言われますが、未信者が興味を持つようなものを信徒に企画してもらおうという視点であれば、それは信徒主導の意味をはき違えています。信徒がみことばを学び、語り、伝えて行く。教えているころが聖書的に間違っていないかどうか、常に牧師や他の信徒からの指導を謙遜に受けとめていく。そういうみことばに対する情熱があって、はじめて教会は生き生きした群れとなっていくのではないでしょうか。

 しかし注目すべきは、6節の言葉です。長老にふさわしい資格として、パウロが訴えるキーワードは「家庭」です。社会でどうか、教会でどうか以前に、家庭でどう歩んでいるかが長老に問われています。「一人の妻の夫」とは、当時、性風俗が現在以上に乱れていたローマ社会において、あくまでも聖書の基準に照らして夫婦歩んでいるかということです。では、「その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない、信者であることが条件です」とは何を意味しているのでしょうか。社会の中で、教会の中で、どんなに体裁を繕っていても、家庭に戻ったときに、その人の真の姿が現れます。そして子どもは、家庭での両親の姿を見て、本物の信仰とは何かを学んでいくのです。まず家庭で、良き夫また妻であり、子どもが自ずと尊敬を抱くような人々を、長老として任命しなさいとパウロはテトスに言っています。それは私には無理だ、と言われるかもしれません。しかし一人のクリスチャンを紹介しましょう。
 16世紀のイギリスに『ユートピア』という小説を書いたトマス・モアという人物がいました。彼は敬虔なクリスチャンで、優秀な裁判官でもありましたが、当時のイギリス国王の悪事をはっきりと告発したため、捕らえられ、処刑されました。「ユートピア」という小説の内容は知らなくても、この言葉をどこかで聞いたことはあるでしょう。「ユートピア」とは争いも憎しみもない、理想的な国という意味です。しかしじつは「ユートピア」という言葉は、ラテン語で「どこにもない国」という意味です。争いもない、憎しみもない、そんな理想的な国はどこにもないのだ、という作者の皮肉かもしれません。しかしある歴史家は言います。争いも憎しみもない国、ユートピアは確かに存在した。トマス・モアの家庭こそ、まさにユートピアであった、と。トマス・モアが王に捕らえられたとき、妻が王に命乞いをするように願いました。そのとき彼は命乞いをすれば、地上で20年命を長らえる代わりに、永遠の命を失ってしまうと妻に答えたと言います。処刑後、彼の首は五条河原ならぬロンドン橋にさらされました。その時、彼の娘たちが危険を冒してその首を取り戻したという話が残っています。地上の命よりも永遠のいのちを選び取った父の生き様は、娘にとって自分もまた地上の命をかけても大切なものを取り戻すという行動へと引き継がれたのです。

 パウロは、長老に続き、監督の資格についてこう言います。7節、「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです」。神の家、それは神の家族としての教会を指しています。私たちが生まれ育った地上の家庭は、ユートピアとはほど遠い、冷え切ったところであったかもしれません。しかしどんな家庭で生まれ育ったとしても、私たちは神の家族に加わることができるのです。そしてそこで受け取って赦しの恵みを、本来の自分の家庭に持ち帰っていくとき、どんなに冷え切った家庭さえ神の愛が注がれ、変えられる。それは間違いなく真理です。そのためには何が必要でしょうか。
 最後にパウロは言います。9節、「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです」。日々、聖書を学んでいきましょう。学んだことを人々に教えられるようになりたいという求めをもって学んでいきましょう。もしそれができたならば、この教会は「近先生の教会」とか呼ばれることは決してない。「豊栄キリスト教会」であり、私たちひとり一人の家族です。ひとり一人がみことばをかみしめながら、地上の家庭に恵みを持ち帰っていきましょう。
posted by 近 at 11:47 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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