本日の説教は、宣教区一斉講壇交換として、新発田キリスト教会の本間羊一牧師が語られました。本人の了解を得て、説教原稿及び説教映像を掲載いたします。
聖書箇所 出エジプト20:8-11
8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。
今日は、新潟山形宣教区講壇交換で、こうして豊栄キリスト教会で皆様と共に礼拝を過ごせることを感謝致します。
新発田キリスト教会は、宣教区レベル開拓教会、つまり新潟の諸教会で祈り支えつつ始めていこうという教会として、2003年にスタートしまして10年目となりました。今、礼拝は大人と子ども合わせて十数名、といったところです。小さな群れですが、最近嬉しいニュースがありました。祈っていただいている入院中の阿久津眞慈君、まだ1歳と数カ月、昨年6月に肺出血を起こし、脳にダメージが残って意識不明が続いていますが、最近、脳機能の検査を行った結果、入院当初は働きが無いと言われていた脳波が少しずつ回復しているとのお話であり、呼吸についても、まだ人工呼吸器の助けが必要ですが、以前より自発呼吸の回数も増えている、ということでした。このことについては新潟山形宣教区の皆様にも覚えてお祈りいただいております。豊栄の皆様からもいつも祈りと励ましをいただいております。この1950年より北欧系アメリカ人宣教師達が新潟各地で献身的に伝道し、新潟の幾つかの教会の産声があがっていき、60数年を経て、現在、新潟山形宣教区として12の教会があり、そこに互いに赦し合い、祈り合い、支え合う命の通った交流があることに、改めて、あたたかいものを感じているこのごろであります。
今日は、十戒の第四戒、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という戒めから、私たちの真の安息としての礼拝ということを覚えていきたいと思います。
「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」(出エジプト記20:10)神の民であるユダヤ人は、これを重んじ、守りました。日曜日から始まる一週間、日曜日から金曜日までの6日間は働き、土曜日を安息日として何もしない日として定め、神への礼拝をささげたのであります。ユダヤ教にとって安息日の礼拝は土曜日であります。
長い歴史の中で、ユダヤ人たちはこの戒めを守るために、さらに様々な細かな規則を作り上げていきました。安息日には働いてはならない。それならばあれもしてはならない、これもしてはならない。たとえば、種まき、刈入れといった農作業、物の売り買い、火をつけること、食事の用意、900m以上の歩行、急病ではない病気のいやし、等は絶対に禁じられていました。最初の動機としては、大変真面目なものであったと思います。神の命令を正しく守っていきたい。
しかしそうなると、いつしか、その決まりを守ること自体が重要となってしまい、おかしなことになっていく。それに対し、イエス様は強く批判をされたことが福音書に記されています。当時の民衆の指導者たちであったパリサイ人や律法学者とイエス様はしばしば論争をしましたが、その中でも安息日に関する論争は、「安息日論争」と呼ばれるほどに重要なものであります。ある安息日に、イエス様の弟子がお腹を減らし、道々、麦の穂を手で摘み取り、それを揉んで、そのまま食べたことがありました。当時の人としては普通の行為だったのでしょう。しかし、それにパリサイ人は目をつけ、安息日に刈入れをしていると批判しました。あるいは、ある安息日に、イエス様が病人を神の力によって癒されたとき、安息日に治療行為をしたと言って批判しました。神の戒めを破っているではないか、と。
しかし、そのような時にイエス様は言われました。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」(マルコ2:27)。
パリサイ人たちは、安息日の規則を守るために神経質になりました。しかし、イエス様にとって、安息日とは人間に安息をもたらす日であったのであります。安息日のために人間がいるのではない。人間のために安息日がある。私たちのために神が安息日を設けてくださった。これは私たちも深く探られる思いがします。礼拝をささげることはとても大切です。しかしなぜそれが大切なのか。神がお命じなったことだから、確かにそれも一つの答えです。しかし、神がお命じなったから、ただそれを機械的に守る。礼拝にただ出席しさえすればよい。そこでとどまってしまうとしたら、私たちはパリサイ人と本質的にはどんぐりの背比べになってしまうのではないでしょうか。
神のお命じなったこととして受け止めつつ、それは私たちのため、私たちの真の安息のために設けられた日なのだ。礼拝を大切にする生活は、私たちにとって大きな恵みなのだということを第四戒と共に心に繰り返し刻んでおきたいことであります。
もう一つ十戒を記している個所も読んでおきたいと思います。お開きになれる方は、申命記5:12〜15をお開きください。
5:12 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。ここには出エジプト記の方にはない言葉があります。なぜ安息日を守って、聖とするのか。それぞれ異なった視点からその理由が述べられているのです。これは何か矛盾しているのではなく、両方が大事であり、補い合っているということができます。
5:13 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
5:14 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も──そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。
5:15 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。
申命記の方には、15節に次のようにありました。
「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」イスラエルの民は、エジプトで奴隷であった状態から、神によって救い出されたのであります。神はモーセを指導者として立て、そのモーセの先導により、イスラエルの民はエジプトを脱出しました。紅海という海の前に追い詰められても、モーセが進むとその海が割れ、陸が見え、水の中をも進むことができた。追手のエジプト軍がくると海の水は戻り、敵は滅んだ、という奇跡が起こります。
古代4〜5世紀の学者であるアウグスティヌスは、ある本の中で、この出エジプトの出来事を、クリスチャンとなるための洗礼に関連させて論じております。
「あなたの罪は、イスラエル人を追いかけてきたエジプト人たちのようになるだろう。罪は紅海のところまでしか、あなたを追いかけてはこないのである。紅海までとはどういう意味だろう。それは、キリストの十字架と血によって清められた洗礼盤までということである。…中略…洗礼は十字架のしるしによって、すなわち、あなたが浸かり、あなたが通り抜ける水によって、いわばあなたが紅海の中にいることが表わされている。あなたの罪はあなたの敵である。罪はあなたを追いかけてくる。だが紅海までに過ぎない。あなたが紅海の中に入るなら、あなたは救われるのである。罪は滅ぼされてしまうだろう。ちょうどエジプト人たちが水に呑まれたように。その間に、イスラエルは乾いた土地へと逃げたのである。」私たちは既に罪の中から、主なる神の「力強い御手と伸べられた腕とをもって」、「そこから連れ出された」者たちであるのだ、という「ことを覚えていなければならない」のであります。
(芳賀力『洗礼から聖餐へ キリストの命の中へ』キリスト新聞社、2006年、42〜43頁より孫引き引用)
私はふとこの出エジプトの時のことを想像しました。聖書の記述に従えばイスラエルの民は数十万人ほどで移動していたということですから、様々な年齢層があり、当然、小さな子供たち、まだ物心ついていない赤ちゃんのような子供もいたでしょう。小さな子どもたちにしてみれば、意識するとしないとにかかわらず、エジプトにおいては奴隷の子でありましたが、出エジプトを果たし、自由な者の子となったのです。神の救いによって全く立場が変わったのであります。そして彼らはやがて約束の地カナンに入り、大人に成長し、その救いの恵みがいかに大きいものであったか、あの時、自由にされたということはこれほど大きな意味があったのかということを追体験し、さらに次の世代に語り継いでいったことでありましょう。
私たちも洗礼を受けた時の新鮮な思いを、いつも思い起こす者でありたい。しかし、その洗礼を受けた瞬間に感じた喜びよりも、さらに大きな喜びを生み出し続けていく、くめど尽きせぬ泉のように。信仰をもち、洗礼を受け、礼拝をささげ、自由な者とされていることの恵みの大きさをますます味わう者とされたいと願います。
申命記にあった第四戒を見ていましたが、出エジプト記の第四戒からも学んでおきたいと思います。
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。ここでは、安息日を守り、聖とし、礼拝をささげていく理由として、神の天地創造の御業があげられているのであります。
創世記には、神がすべてのものを七日間かけて造られたことが記されております。神は光を造り、太陽、月、星を造り、海や陸を造り、生きとし生けるものを造り、そのように森羅万象を創造し、最後に人間を神のかたちに似せて造られたと創世記は語ります。光あれ、すると光があった、どこか宇宙の誕生を思わせるような記述です。創世記は、文学的な技巧、詩のような美しさをもち合わせながらも、不思議に信仰と科学とが調和している記述であります。
神は六日間かけてすべてを創造され、七日目には何をしたか。休まれたのであります。もう何も造りださなかったのであります。しかし、そのことを大切なこととして書いてあるのです。何もしなかったから、どうでもよい日であるならば、六日間で終わってもよかった、でも、七日目に神は休まれたということは大切なことであるから記してあるのです。
つまり、私たちは何もせず、何も造りださず、ただ神に憩うことを必要とする、それが真の安息ということではないかと思います。
福音書に次のようなイエス様がなされたたとえ話があります。ある金持ちの百姓が懸命に働き、ますます穀物や財産を蓄え、蔵まで立ててそれらを納め、最後に自分の魂に言い聞かせるように言いました。
「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」しかし、神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」。(ルカ12:19〜21)このみ言葉に関連しつつロッホマンというチェコの神学者は次のように言います。
「大変重要ではあるが副次的なものからは、『真の安らぎ』を獲得することはできないのである。人間の『存在』は『所有』より以上のものである。『所有』は『存在』を決して安全にできない」(J.M.ロッホマン『自由の道しるべ 十戒による現代キリスト教倫理』畠山保男訳、新教出版社、1985年、90頁)。私たちは所有すべきものが所有できないと不安になります。そして多くのものを所有するときに、不安がなくなるような気がします。しかしイエス様のたとえ話は、そのような多くの所有による不安解消は真の安らぎではないのだということを鋭く明確に教えてくれるのであります。たとえ、死ぬまで働かずに豊かに飲み食いできるほどの財産があればもう安泰か?というとそうではない。もちろん、ある程度のお金、食べ物は必要です。私たちも日ごとの糧を与えたまえと祈ります。しかし、「人間の『存在』は『所有』より以上のものである」。たとえ一億円、百億円あったとしても、人間の命一つの方が、価値が上です。命の方が価値が上であるということは、百億円が命に真の安らぎを与えることはできないのであります。
今、経済が傾き、政治も混とんとし、多くの人が生きる希望を見いだせないでいます。無差別殺人事件が近頃も起こってしまいました。ある本に印象深い分析が書いてありました。彼らのような自分勝手な行動をとる者を見て、自己中心だ、自己中だ、というふうに言われることがあるが、そうではないのではないか。彼らは、自己中心的になって自分だけを愛しているというのではない。むしろ、自分を愛することができないでいるのだ・・・と。自分はこんなはずではなかった、と今の自分を卑下し、その不満を爆発させてしまう。そのままの現状の自分を愛することができない。人間は良い意味で自分を愛することが大切なのではないでしょうか。そのままの自分、他と比べてもしかしたら色々とさえないところもあるかもしれない、しかし、そのさえない自分をもそのままに愛していく。そうやって初めてそのままの隣人をも愛していくことができる。
でもそれはどうすればできるか。神に愛され、神に赦されている、という十字架の福音がそれをさせてくれるのではないでしょうか。
「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたのうちにいこうまでは、安らぎを得ることができないのです」。(アウグスティヌス)。真の安息としての礼拝が与えられていることを覚え感謝し、新しい一週間を歩んでまいりましょう。
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神様
真の安息とは何か。この現代社会では、より多くのものを所有することが幸せのカギであるというような価値観に束縛され続けているような時代であると感じます。いや、私たち自身も、ともすると、そのような世の価値観にすぐに影響を受けるものであります。
しかし、人間の命は所有物以上の価値のあるものであります。それは神様によってしか、憩うことができません。私達が愛に生きることができるとすれば、それは何よってか、それは、私達が愛されているということによってであります。神の前で真の安息を受けることによって、この一週間を愛をもって生きることができます。永遠の命の希望の豊かさに気づくことができます。
この真の安らぎを与えるキリストの名を、世に知らしめるべく、この教会の働きを続けてあなたが御手で用いてくださいますように、人々をその「力強い御手と伸べられた腕とをもって」、罪のうちから「連れ出さし」、自由と解放をお与えください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
参考文献
・加藤常昭『ハイデルベルク信仰問答講話〈下〉』(教文館、1992年)の該当箇所。
・関田寛雄『十戒・主の祈り』(日本基督教団出版局、1982年〔初版1972年〕)の該当箇所。
・朝岡勝『ハイデルベルク信仰問答講解』(2003年)の該当箇所。
・金田幸男『十戒・主の祈り―講解説教集―』(聖恵授産所出版部、1998年)の該当箇所。
・共著『信仰の手引き 日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ』(日本基督教団宣教研究所編、日本基督教団出版局、2010年)の該当箇所。