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2012.7.22「ベテスダで出会った日から」

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聖書箇所 ヨハネの福音書5:2-9a
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。 5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。
 
 ある地方都市の中学校で起きたいじめ事件について、連日テレビや新聞で報道されています。インターネットでは、いじめグループの生徒たちの顔写真さえも流布しています。一人の少年がいじめを苦に自殺をしました。それは悲しいことです。しかしそれに義憤を感じているように見せかけて、じつのところ「祭り」にしている人々の姿のほうをむしろ悲しく思います。
 聖書はこのような現実に対して、何を語っているのでしょうか。ベテスダの池でのできごとは、二千年前のユダヤで起こったことで、現代とは多くの違いがある、しかし本質的には同じです。一人ひとりの命が軽く見られている世界です。誰からも顧みられることなく、池のほとりに力なく座り続ける38年間に象徴される、悲しい世界です。その延長線上にあらゆる人間はもがき続けています。しかしイエス・キリストとの出会いによって、すべてが変わるのです。今日はそのことに目を留めていきましょう。

 3節をご覧ください。「その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた」。なぜそんなにたくさんの人々がこの池の回りに集まっていたのか。それは聖書の欄外説明文にある4節の言葉によれば、天使が時々この池に降りてきて水を動かしたとき、その後で最初に入った者はどんな病気でもいやされる、そういう噂があるからでした。これが本当のことなのか、それともただの言い伝えに過ぎなかったのかは、今となってはわかりません。しかし人々はわらをもつかむ思いでこの池に運ばれてきました。そして、伏せっていた、とあるように普段は死んだようにじっとしている。そして時たま、水面が動く。ある者は水面めざしてのろのろとはいまわっていく。ある者は身内の者に担がれていく。病人、目の見えない人、足が動かない人、やせ衰えた人、そういった人々が一斉にまわりを押しのけながら水面へ向かっていく。いやしの特権を受け取る者は唯一人だけ。それはまさに、私たち自身が生きているこの世界の姿そのものではないでしょうか。
 時代や環境のせいではない、私たちは常に何かに追い立てられ、他人を傷つけ、自分を傷つけながら歩んでいる。自分さえ助かれば、自分さえよければという思いにとらわれている。それはなぜか。聖書ではそれを「すべての人が罪人であるゆえ」と説明しています。あらゆる人間が、罪人として生まれてくる。そして罪の中を、やがてくるさばきの日に向かって歩み続ける。自分さえよければという思いを持っていることすら、気づかない。その意味で、このベテスダの池の光景は、心の病人である私たちの人生そのものを描いているのです。

 5節をご覧ください。「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた」。38年間、目の前で人々が水へ入っていくのをただ眺めるしかできなかった人、しかし38年間、決してその場を離れようとしなかった人、38年間、誰も手を貸そうともせず憐れみの目を留めなかった人、その気持ちはどのようなものだったのでしょうか。今、イエス・キリストは、だれも目を留めなかった人に目を注がれました。しかしその口から出た言葉は、ある意味失礼とさえ言えるような言葉でした。「よくなりたいか」。
 しかし彼はよくなりたいか、という問いに正面から答えません。7節をご覧ください。「病人は答えた。『主よ、私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです』」。屈折した感情の表れです。私にはいない、私を入れてくれる人がいない、ほかの人にはいる、だが私にはいない、という人と自分を比べての失望でした。今のままでは現実が変わらないのはわかっている、だが自分にはどうすることもできない、というあきらめの感情も。そこにあるのは現実を受け入れているようで、実は現実から目をそむけているという人の姿です。現実を変えるためには何が必要なのかを薄々感じながら、人と自分を比べ何も変えようとしない人。イエスが「よくなりたいか」と聞かれたのは、この人の病は、足ではなく心にあるのだと知っておられたからです。
 イエス・キリストは、私たちの心に向かって直球を投げてきます。よくなりたいのか、それとも今のままでよいのか。しかし私たちは、その直球に素直に答えることができません。それは、私たちの罪が、心に覆いをかぶせているからです。この覆いを取り去ると、そこには虫がのたくっているような、汚い私の心が丸見えになります。なぜ自分だけがこんな目に、というつぶやき。私はほかの病人たちとは違うんだ、というプライド。しかしそれこそが、私たちの病です。だから聖書は「彼は答えた」ではなく「病人は答えた」と言うのです。

 しかしイエスとの出会いは、必ずその人を変えます。8節をご覧下さい。「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」。キリストは決して気休めの言葉でその場を繕うようなことはしない。言葉、ただ一つの力ある言葉だけで現実を一瞬にして変えることのできる方です。言葉だけで嵐を静め、死人を生き返らせ、38年間伏せっていた人間を立ち上がらせることのできる方であり、今も生きて天の神の右に座しておられる方です。その単純な言葉は、直ちにこの人を変えました。そして確実に変えました。9節をご覧ください。「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」。38年間、伏せっていた人が、言葉だけで、一瞬のうちに床をあげることができるようになる。私たちには信じられないことです。しかしこれは歴史的事実なのです。神の言葉は本当に単純です。シンプルです。だけど直ちに人を変えます。徐々に、ではない。すぐに変えます。そして確実に変える。気休めやなんとなく、ではなく、確実に人を変える。
 私は今年、敬和学園高校の卒業式と入学式に続けて出席しました。私が現役だった二十数年前とは色々な所が変わっていましたが、本質的な所は変わっていないと思いました。卒業式は、どの学生も本当にいい笑顔です。それを見るだけで、この子が敬和での3年間をどれだけ誇りに思うかが伝わってきます。それに対して入学式は、嬉しそうな子はそれほどおりません。声も小さく、いつもうつむいているような、つまらなそうな、そんな印象を受けます。でも、これがいい、これでいいと思うのです。なんで自分はこんな学校に来てしまったんだろう、というのが端から見てわかるような新入生たちが、3年後の卒業式ではあれほどまでに喜びに変わっている、それは昔も今も変わらない敬和の名物です。決してなくしてはならないものです。神を敬い、人を愛するという敬和学園は、そこに集う者たちを変えていく力を持っています。その力は、みことばの力。毎日礼拝でみことばが語られ、クリスチャンの教師たちとの出会いによって、それまでの人生で閉じていた心が開かれていく。それを私も経験しました。イエスとの出会いが、私たちの人生を変えていきます。そのことを忘れないで、歩んでいってほしいと願います。
posted by 近 at 16:50 | Comment(0) | 2012年のメッセージ
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