聖書箇所 マタイ19:16-22
16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
敬和学園の初代校長、太田俊雄先生のエピソードにこんなものがあります。息子さんは、希望していた玉川学園大学に入学できたのが、そこで自分の人生について考え込む。「何で、自分は今、毎日大学に通って勉強しているのだろう?今やっていることが、これからの自分にどういう関わりがあるのだろう?この勉強を続けることに意味があるのか?」その悩みを聞いた太田先生は、息子さんにこう言った。「上野の西洋美術館に行って、ロダンの『考える人』を見て来い」。
ここからは太田先生ではなく、息子さんのエピソードになるのですが、さすが太田先生の息子さんです、朝一番で美術館に行き、お昼まで3時間、ひたすら考える人の彫像をじっと見続けた。しかしよくわからない。お昼を食べ、戻ってきてまたじっと見つめ続けた。突然はっとした。「この考える人は、裸だ。なぜ考えるのに、裸でなければならないのか?」ロダンがこの像を裸に造ったのなら、裸でなければならない理由があるに違いない。なおも像を見つめる。すると今度は、像の、全身隆々とした、たくましい筋肉に気がついた。息子さんは後にこう振り返っています。
すべての筋肉が浮き出ている。足先の筋肉は地面をえぐるように創られている。ロダンは「考えている人」の像をつくったのではなく、「考えるとはこういうことなのだ」ということを石に刻んだのだと思います。つまり「考える」というのは、体中のすべてを使って初めて成立する作業なのだということに気づかされたのです。
「人間は考える葦である」と言ったのは、哲学者パスカルでした。葦とは、人間の脆弱さを象徴している言葉です。しかしどんなにもろくても、そこには筋肉を突っ張って考え抜く魂が生きている。デカルトという哲学者は「我考える、ゆえに我あり」と言いました。この世のすべてのものが不確かであっても、今考えている私は確かにここに存在する。つまり、考え続ける限り、私は生きているのだ、という叫びです。あまり哲学の話ばかりすると眠くなりますので、もう少し現実的な話をしましょう。エホバの証人や、統一協会というキリスト教の異端グループがいます。エホバの証人は、自分の生活時間を割いて人々の家を訪問し、マニュアルに基づいた伝道をしています。統一協会は、かつて霊感商法という反社会的な手段を用いていました。ある人は、彼らは確かに信仰者だと言います。しかし、「考えることをやめてしまった信仰者だ」と。彼ら異端グループのひとり一人は、確かに人生の答えを探していたのです。探していたからこそ、そこに真理があると考えて異端に取り込まれてしまったのです。どうして抜け出すことができないのか。考えることをやめてしまったからです。教えを疑うことをやめた。組織を疑うことをやめた。今の自分を疑うことをやめた。
私は今、あえて悪いイメージのある「疑う」という言葉を使いました。しかし疑うことは悪ではないのです。疑うというのは、当たり前とみなされていることを当たり前とは考えないということです。人々が正しいということが、本当に正しいのか。正しいと信じている自分が、本当に正しいのか。自分が正しいと信じた決断は本当に正しいのか。その決断に用いた規準は本当に正しいのか。ややこしいのでこれくらいでやめますが、今みなさんがするべきは、目の前の牧師の説教が本当に正しいのか、疑うことです。疑うことを忘れてしまったときに、信仰は妄信になる。服従は盲従になる。隣人愛は偽善になる。
決して何でもかんでも疑えと言っているのではない。しかし信仰というのは、自分を客観的に見つめ、自分自身の中身を疑っていくことです。私たちはそれをオウム真理教という宗教が引き起こした社会事件から学んだはずです。ころころ変わる教祖の言葉。保身に走る組織の姿。それらを疑い続けていくためには、疑うための規準、モノサシが必要です。絶対に変わらないモノサシが必要です。私は、それが聖書だと思うのです。キリスト教の歴史において、教皇や牧師を妄信したり、教会組織に盲従したような時代もありました。しかし聖書は、決して変わらない。二千年間、あるいは旧約も入れれば四千年間変わることのない神のことばがここにある。
まず疑うことから入ってもいい。こんな寄せ集めが神の言葉だって?そんなことあり得るのか、と疑ってかかってもいい。だが疑うならば、体中のすべての筋肉を張り詰めて疑え。実際に聖書を開いて、その一行一行を本当かどうか、自分の中にあるすべてと照合しながら疑っていく。そうすれば、その「考える人」に神は必ず聖書を通して答えてくれる。頭だけで信じるのではなく、全身で取っ組み合ってこそ、聖書はあなたの人生で血となり、肉となっていくのです。
今日の聖書箇所で、ひとりの青年が永遠のいのちを受ける方法をイエスに尋ねています。彼はおそらく、伝統的なユダヤ人家庭に生まれ育ったのでしょう。旧約聖書で最も大切な戒めと呼ばれるものも、よく知っていました。しかし、知ってはいたが、考えてはこなかった。頭で考えてはいても、全身で考えては来なかった。彼は苛立ったかのように、イエスに答えます。「そのようなことはみな、守っております」。
しかし彼は大きな考え違いをしていました。人は聖書が命じる戒めを守ることができないのです。もし守ることができたのなら、イエスが十字架で死ぬ必要はなかったでしょう。しかしそれができない私たちであるからこそ、私たちの罪の身代わりとしてイエスは十字架の道へと歩まれた。
私は人を殺したことはありません。しかし人を無視したことは何回もあります。無視するとは、その人をいらないとすることです。その思いが出て来たとき、すでに殺人の根っこが表れているのです。私は不倫をしたことはありません。しかし女性への情欲は、それこそ思春期から今に至るまで、決して逃れられません。どんなに牧師としての職業に忠実であろうとしても、一皮むけばおぞましい情欲の塊であることは自分自身がいちばん良く知っています。たとえ情欲が実際の行動にはらむことを抑えても、情欲そのものは私の中で騒ぎ続けるのです。
聖書は、「すべての人が罪人である」と宣言しています。しかし人々は言います。私は罪を犯したことはない、と。人々はここで考えることをやめてしまっています。聖書があなたは罪人です、と言っていること、それはどういうことだろう、と自分の心の皮をめくって自分自身を疑おうとしないのです。この青年もそうでした。彼は気づいたでしょうか。敬っていたのは両親の人格ではなく、両親が与えてくれた、あるいは残してくれた財産であったということに。だから隣人を自分自身のように愛するとは、その財産を人々にすべて与えることだと言われたとき、彼は悲しんでその場を去っていきました。でも見方を変えれば、彼はこの時、自分を疑うスタートラインについたと言えます。それまでは「そのようなことは、みな守っています」と、自分の正しさを疑わなかったこの青年は、初めて自分の本当の心に気づいたのです。
この青年の姿は、私たち自身の姿でもあります。神は私たちに自分自身を疑わせるために、様々な問題を与えます。東日本大震災がまさにそうかもしれません。クリスチャンは、自分の愛の足りなさに気づかされました。クリスチャンでない人々は、この世界が、自分が信じていたよりもはるかに不確かなものであることに気づいたのです。あと20年ローンが残っていた家が流されて消えてしまった跡を呆然と見つめていた人がいました。消えてしまったのは家だけではない。そこにいた家族も、何年も同じように繰り返してきた毎日が、忽然と消えてしまったのです。それでも私たちは生きていかなければならない。考える人のように、筋肉を浮き立たせ、指先で地面をえぐりながら、命の炎を燃やし続ける。
そのために私たちは何から始めればよいのか。まず疑うことです。今まで自分が頼り切ってきたものを。自分自身を。自分の生活を。すべてを疑い、失ったとしても、そこにまだ残るものは何か。それが神のことば、聖書の約束であることを願っています。「人はみな草のようで、その栄えは草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、神のことばはとこしえに変わることがない」。お祈りをいたします。